第41話:径百余歩
「今日聞いた話、俺の方でも、改めて整理してみる。……美藍ちゃん、この件は、慎重に進めよう。血筋の話は、思ってる以上に、重いものかもしれない」
美藍は静かに頷いた。窓の外では、夏の日差しが、変わらず街を照らし続けていた。
名方はふと、里奈の方に視線を向けた。
「そういえば、里奈ちゃんは」
「はい?」
「八倉比売神社にも、藍染工房にも、行ったことないだろう」
「あ……。はい、そうですね。話は色々聞いとるんですけど」
里奈が頷くと、名方は少し考えるように顎に手を当てた。
「よし、どうせなら、今から三人で、もう一度見に行くか」
「え、今からですか?」
美藍が驚いたように尋ねると、名方は頷いた。
「善造さんには、今から連絡入れておく。時間はまだ十分あるしな」
「私も、行きたい!」
里奈が身を乗り出した。
「これだけ深く関わってきた話やし、わたしも、ちゃんとこの目で確かめたい」
美藍は、里奈のその言葉に、思わず微笑んだ。
「うん、一緒に行こう。里奈がいてくれたら、心強いし」
三人はボンジュールを後にすると、名方の車に乗り込み、そのまま天石門別八倉比売神社へと向かった。
車を降りると、素木の鳥居をくぐり、長い石段を登っていく。
「うわ……。想像以上に、雰囲気あるとこやね」
里奈が、辺りを見渡しながら呟いた。
真夏の盛りとあってか、蝉の声はあちこちから絶え間なく響いていたが、前回訪れた時のような、耳の奥にまで迫るような異様な圧迫感は、不思議とあまり感じられなかった。美藍は、そのことにふと気づきながらも、特に気に留めることなく、石段を登り続けた。
拝殿で手を合わせた後、三人は裏手の奥の院へと向かった。奥の院、五角形の祭壇の前に立つと、美藍は改めてノートを取り出した。
「里奈、見て。これが、卑弥呼の墓じゃないかって言われてる、五角形の祭壇」
里奈は初めて目にするその光景に、思わず息を呑んだ。
「これが……。確かに、日本の神社建築の常識からは、かけ離れとるね」
「でしょう!? しかも、この祭壇の上の祠には、『つるぎ石』って呼ばれる、鶴石と亀石を組み合わせた石が祀られてるの」
「つるぎ石……。剣山の、鶴石・亀石と、同じ名前……?」
名方が、ふと呟いた。
「はい! これ、絶対に偶然じゃないと思うんです」
美藍は興奮した様子で、ノートを取り出すと、ふと思いついたように顔を上げた。
「そうだ……。ちょっと待っててください!」
美藍はそう言うと、祭壇の周りを、一歩一歩、慎重に歩き始めた。口の中で、小さく歩数を数えている。
「お、おい、何してるんだ」
名方が、呆気に取られたように見守った。
「径百余歩……。魏志倭人伝に出てくる、卑弥呼の墓の記述、思い出したんです! この祭壇の周りの長さ、今、実際に測ってみようと思って!」
「今から測るのか、それ」
「はい! ちょっと待っててくださいね!」
美藍は、五角形の祭壇の五辺を、一つ一つ丁寧に歩数で測り終えると、ノートに数字を書き込んでいった。
「うーん……。当時の一歩の単位で計算すると……」
美藍はしばらく計算を続けた後、はっとしたように顔を上げた。
「名方さん、里奈! これ、驚くほど『径百余歩』の記述と近い数字になります!」
「まじで……?」
里奈も、思わずノートを覗き込んだ。
「ちなみに、奈良の箸墓古墳――卑弥呼の墓の最有力候補って言われてる、あの古墳のサイズは、全長280メートル以上あって、『径百余歩』とは全然規模が合わないんですよ」
「つまり……」
名方が、ゆっくりと言葉を継いだ。
「箸墓古墳は、本当の卑弥呼の墓じゃなくて、政治的な見せかけの墓だったかもしれない、ってことか」
「そうです! あるいは、卑弥呼じゃなくて、別の権力者の墓なのかもしれません。……でも、こっちの祭壇は、記述と規模がぴったり合う」
美藍は、興奮を抑えきれない様子で、拳を握りしめた。
「政治的に大きく見せる必要があった奈良の墓と、本当のサイズで、静かに真実を伝え続けてきたこの祭壇……。これも、前に磐境神明神社で見つけた、あの言葉――『政治は奈良、魂は阿波』の、一つの証拠だと思うんです」
名方は、しばらくの間、感心したように美藍を見つめていた。
「……お前、思いつきで、その場でそんな計算までできるのか」
「え……?」
美藍は、思わず名方の顔を見つめた。ほんの一瞬、聞き慣れない呼び方に、小さな違和感を覚えた。
「あ……。悪い」
名方は、少し我に返ったように、慌てて言い直した。
「お前さん――いや、美藍ちゃんは、思いつきで、その場でそんな計算までできるのかって、言いたかったんだ」
美藍は、これくらい暗算のうちだと言うように、少し得意げに胸を張った。
「まあ、大したもんだ」
名方は、いつものように、冷静な一言を添えた。
「ただ、その歩測っていうのも、あくまで目安だ。正確な考古学的な測量とは違うから、あまり過信しすぎるなよ」
「わ、分かってます。それくらいは」
美藍は少し照れくさそうに笑いながら、ノートを閉じた。
里奈は、そんなやり取りを見ながら、感心したように呟いた。
「美藍って、本当に、行動力の塊やね」
そう言いながらも、里奈は改めて、目の前の五角形の祭壇を見つめた。何かを考え込むような表情を浮かべている。
「ねぇ、美藍」
「ん? どうしたと?」
「これが……。アークってこと、ないのかな」
「え……」
美藍は、思わず里奈の顔を見つめた。
「もしくは、この下に、何か埋まってるとか」
里奈の言葉に、美藍と名方は、しばらくの間、無言のまま祭壇を見つめていた。夏の日差しが、青石の表面に、強い陰影を落としている。
「……それは、うちも一瞬考えた」
美藍は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「でも、多分、ここじゃないと思う。ここは、あくまで卑弥呼の墓、あるいは祭祀場としての場所であって……。アーク自体は、もっと別の、もっと奥深い場所――剣山そのものに、眠ってるんじゃないかな」
「なんで、そう思うと?」
「ここは、政治や祭祀の記録の場としては完璧すぎるんよ。サイズも記述と一致してるし、名前も残ってる。……でも、本当に隠すべき一番大切なものを、こんな分かりやすい場所に置いておくとは、うちには思えなくて」
名方も、静かに頷いた。
「美藍ちゃんの言う通りかもしれんな。ここは、いわば"表向きの記録"だ。本当に守るべきものは、もっと奥――誰も簡単には辿り着けない場所にあるはずだ」
「天岩戸神社、大剣神社、忌部神社……」
美藍は、これまで見聞きしてきた剣山周辺の聖地の名を、一つ一つ、口の中で数えるように呟いた。
「候補になり得る場所は、いくつもあるんよ。でも、逆に言えば……。どれか一つに絞り込むこと自体が、そもそも間違ってるのかもしれない」
「どういうことだ?」
「もし本当にアークがあるとしても、それがどこにあるのか、正確な場所は、きっと誰にも分からないようになってるんだと思う。忌部一族の人たちでさえ、正確な位置は知らないまま、ただ、この山全体を守り続けてきたんじゃないかな」
美藍は、そう言いながら、静かに首を振った。
「だから……。たとえ本当にどこかに眠っていたとしても、それを掘り起こすことは、絶対にできない。というか、してはいけないんだと思う」
里奈は、その言葉に、しばらくの間、黙って耳を傾けていた。
「……なるほどね。分からんからこそ、山全体を、丸ごと守るしかなかったってことか」
「うん。だから、多分、私たちが答えを探すべきなのは、"どこにあるか"じゃなくて……」
美藍は、静かに目を伏せながら、続けた。
「"なぜ、それを守り続けてきたのか"、なんだと思う」
三人はしばらくの間、無言のまま、その場に立ち尽くしていた。
「そういえば」
美藍が、ふと思い出したように口を開いた。
「船盡比賣神社っていう神社、知ってますか? 阿曇氏っていう、海の民に関係する神社で、神代文字が書かれた幟が今も残ってるらしいんです」
「阿曇氏……。海洋民族の?」
名方が興味深そうに眉を上げた。
「はい。忌部氏と連携して、航海術とか情報網を担ってたんじゃないかって説があって。もし本当にユダヤの民が海を渡ってきたんだとしたら、その航海を実際に担った一族がいたはずですよね。それが、阿曇氏だったんじゃないかって」
「面白いな。それも、明日にでも行ってみるか」
名方はそう言うと、スマホのカレンダーを確認した。
「よし、決まりだな。明日、船盡比賣神社にも足を延ばそう」
「はい!」
美藍が嬉しそうに頷いたその時、名方のスマホが震えた。画面を一瞥すると、名方は少し表情を和らげた。
「悪い、ちょっと電話出るわ」
名方はそう言うと、二人から少し離れた場所へと歩いていった。
美藍と里奈は、何気なくその後ろ姿を見送った。名方の声は抑えられていて、内容まではよく聞き取れなかった。
「仕事の電話かな」
里奈が小さく呟くと、美藍も頷いた。
「そうみたいだね。記者さんだから、色々大変なんだろうな」
しばらくして、名方が電話を終えて戻ってきた。
「悪いな、待たせた」
「お仕事の電話でした?」
美藍が尋ねると、名方は頷いた。
「ああ、そうだ。ちょっとした確認事項でな」
「そうなんですね、大変ですね」
美藍は素直にそう答えると、それ以上気にする様子もなく、話題を切り替えた。
「よし、それじゃあ、今日のところは、これくらいにしておくか」
名方はそう言うと、二人を促して、来た道を戻り始めた。




