第37話:帰ってきた父
夕方過ぎ、玄関の戸が開く音がした。
「ただいまー」
久しぶりに聞くその声に、美藍はリビングから飛び出した。
「お父さん! お帰りなさい!」
「おお、美藍。元気にしてたか」
正則は少し疲れた様子ながらも、穏やかな笑みを浮かべていた。手には、旅行用の鞄と一緒に、洒落た紙袋が下げられている。
「はい、お土産。羽田空港で買ってきた」
正則が紙袋を差し出すと、美藍は目を輝かせながら中を覗き込んだ。
「うわー! やっぱり都会のお土産は洒落てるー!」
箱の中には、バタークリームがサンドされた、色とりどりの洋菓子が並んでいた。
「これ、こっちじゃなかなか手に入らないやつだよね! ありがとう、お父さん!」
「そんなに喜んでもらえると、買った甲斐があるな」
正則は満足そうに笑った。
「あら、お帰りなさい」
みやこも台所から顔を出し、正則を出迎えた。
「ただいま、みやこ。ほら、これ、お前の分も」
正則はもう一つ、別の紙袋をみやこに手渡した。
「あら、ありがとう。……相変わらず、こういうの選ぶセンス、良いのよね」
「疲れたでしょう、お茶淹れるわね。夕飯もすぐ用意するから」
「悪いな、頼む」
正則はリビングのソファに腰を下ろすと、大きく息をついた。長旅の疲れが、その表情に滲んでいる。
「あ、そうだ、お父さん」
美藍がふと思い出したように切り出した。
「この前、美馬のおじいちゃんおばあちゃんのところに、顔を出してきたんだよ」
「おー、連絡あったぞ。美馬まで来てくれたんだってな。わざわざありがとうな」
正則は少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「電話では、たまに話してるんだがな……。単身赴任だと、なかなか顔を出す時間が作れなくてな。しばらく顔を出せてないからなー」
「私も、久しぶりに会ったから、色々話し込んじゃった。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんの話、嬉しそうにしてたよ」
「そうか。……今度、俺も顔出さないとな」
「横浜は暑かったんじゃないの?」
美藍が尋ねると、正則は苦笑した。
「ああ、こっちに負けず劣らずだったよ。まあ、慣れっこだがな」
「来人は?」
美藍が尋ねると、みやこが答えた。
「二階で寝てるんじゃない? 昼まで大阪の友達とオンラインゲームしてたみたいだから」
正則は苦笑した。
「相変わらずだな、あいつは」
「呼んでこようか?」
「いや、いいさ。そのうち起きてくるだろう」
しばらくして、みやこが淹れたお茶が運ばれてきた。それとほぼ同時に、階段を降りる足音が聞こえてくる。
「あ、父さん、おかえり」
寝癖のついた頭のまま、来人がリビングに顔を出した。
「おう、久しぶりだな。ほら、お前の分もあるぞ」
正則が紙袋から菓子箱を一つ取り出して渡すと、来人は嬉しそうに受け取った。
「サンキュー。大阪の話とか、今度ゆっくり聞かせろよ」
「うん、そのうちね」
来人はそう言うと、大きく伸びをしながら、そのままキッチンへと向かい、みやこの夕飯の支度を手伝い始めた。まな板の音と、油の跳ねる音が、台所から聞こえてくる。
リビングには、正則と美藍の二人が残った。みやこの淹れてくれたお茶を、正則はゆっくりと口に運んだ。
「美藍はどうだ、研究の方は」
正則が何気なく尋ねると、美藍は一瞬、言葉に詰まった。この数日間で起きた出来事の数々が、頭の中を駆け巡る。教授との対峙、図書館での発見、そして磐境神明神社での気づき――そのすべてを、どこまでこの場で話していいものか、美藍は迷った。
「うーん……。色々あるけど、まあ、ぼちぼち」
美藍はひとまず、当たり障りのない返事をした。
「そうか」
正則はそれ以上深く追及せず、湯呑みを傾けた。窓の外では、夏の夕暮れが、じわじわと空を茜色に染めていく。
夕食の支度が整うまでの、ほんの短い静けさの中、美藍は膝の上で、両手を握りしめていた。切り出すなら、今しかない――そんな気持ちが、じわじわと胸の奥から湧き上がってくる。
台所からは、みやこと来人の楽しそうな話し声が漏れ聞こえてくる。今のうちに、二人きりで話しておきたかった。
「あ、そうそう」
美藍はふと思い出したように、姿勢を正した。
「この前聞いた、お父さんのお母さんの旧姓――三木のことなんだけど」
正則の湯呑みを持つ手が、ほんのわずかに止まった。
「ああ、それか」
「うん。あれから色々調べてたら、なんか、思ってたよりずっと大きい話に繋がってきてて」
美藍は身を乗り出しながら、これまでの経緯を、順を追って話し始めた。
「まず、私が今、四国説――邪馬台国が阿波にあったっていう説を追いかけてるのは、お父さんも知ってるよね」
「ああ、知ってる」
「その説を、指導教授の忌部聡っていう人が、頭ごなしに否定してくるの。それだけならまだよくある話なんだけど……。教授の苗字、『忌部』でしょう? それが、実は美馬とか、あの辺り一帯を昔から守ってきたっていう、阿波忌部氏っていう一族の名前と、同じだったの」
正則は黙って、美藍の話に耳を傾けていた。その表情からは、感情を読み取ることができなかった。
「あ、それと、そういえば」
美藍はふと思い出したように言った。
「前に、お父さんのお母さんの旧姓、LINEで教えてもらった時、読み方聞いたの覚えてる? 『みき』なのか『みつき』なのか」
「……ああ」
正則は少し間を置いてから、答えた。
「みきだ。みつきとは、あんまり読まないだろう。……どうして、そんなことが気になるんだ?」
「実はね、名方さんから聞いた話に出てくる旧家も、『三木家』っていう名前で」
美藍はそう言いながら、少し慎重に付け加えた。
「もちろん、『みき』っていう名字自体は、日本中にいくらでもあるだろうから、それだけで同じ一族だって決めつけられないのは分かってるんだけど……。でも、もし本当に、同じ一族だったら、なんか、すごく面白いなって思って」
美藍は少し照れくさそうに笑うと、話を続けた。
「しかも、名方さんっていう新聞記者さんが、昔、三十年くらい前に、三木氏と忌部氏に関わる古い文書の写しを、地元の旧家の人から託されたことがあるらしくて。その旧家っていうのが、美馬の三木家。その当主だった人が、『剣山に登る、二、三日で帰る』って言って出かけたきり、消息を絶ったんだって」
「……」
「そんな中で、藍染工房のおじいさんが、『三十年前、いんべっていう学生が、同じように興奮してた』って言うのを聞いて。私、それってやっぱり教授のことなんじゃないかって思ったの」
美藍はそこで一旦言葉を切ると、正則の顔を、真っ直ぐに見つめた。
「それで、お父さんのお母さんの旧姓が三木だって聞いた時、もしかしたら、うちの家系も、この話と何か繋がってるんじゃないかって、そう思ったの」
リビングには、しばらくの間、重い沈黙が流れた。台所からは、相変わらず、みやこと来人の賑やかな話し声が聞こえてくる。
正則は、湯呑みをそっとテーブルに置くと、深く息を吐いた。
「……そうか。もう、そこまで辿り着いたのか」
その一言には、これまでの正則からは感じたことのない、重い響きが込められていた。
「お父さん……?」
美藍は、その様子に、思わず息を呑んだ。
「お父さん、何か知ってるの?」
正則は、しばらくの間、何かを考えるように、じっと目を閉じていた。台所から漂ってくる、夕食の匂いが、リビングにもふわりと届いていた。
「……美藍」
正則は、ゆっくりと目を開けると、これまでにない真剣な眼差しで、娘を見つめた。
「今日は、まず飯を食おう。……その話は、その後で、ゆっくりしよう」
「え……」
美藍は肩透かしを食らったような気持ちになりながらも、正則の表情の重さから、これ以上急かしてはいけないことを、直感的に悟った。
「……分かった」
その時、台所から、みやこの明るい声が響いた。
「ご飯できたわよー! みんな、席についてー!」
正則は静かに立ち上がると、美藍の肩に、そっと手を置いた。
「心配するな。……ちゃんと、話す」
その言葉には、確かな覚悟が滲んでいた。美藍は小さく頷くと、父の後に続いて、ダイニングへと向かった。




