第36話:教授の手
翌朝、まだ自宅で身支度をしていた美藍のスマホに、見慣れない番号から着信があった。
「もしもし、布都です」
『あ、布都さん。先日、図書館でお問い合わせいただいた件で、ご連絡しました』
図書館の司書だった。美藍は思わず手を止めた。
「あ、はい! あの資料集の件ですよね。何か分かりましたか?」
『はい……。館内で確認したところ、実は、あの資料は貸出や紛失ではなく、指導教員の先生からのご連絡で、一時的に保管場所を移していたことが分かりました』
「指導教員……。それって」
美藍の心臓が、大きく跳ねた。
『忌部教授です。記述の一部に誤りがあり、訂正が必要なため、閲覧に供さないでほしい、というご連絡をいただいていたようで』
「教授が……。あの資料を、隠してた……?」
美藍は思わず、その場に立ち尽くした。
『詳しい事情は、私どもも把握しておりませんが……。念のため、お伝えしておいた方がよろしいかと思いまして』
「あ、はい……。教えていただいて、ありがとうございます」
美藍は礼を言って電話を切ると、しばらくの間、動けずにいた。
(教授が、直接司書に連絡して、資料を隠させてた……)
これまで、あの資料の消失は、漠然と「黒いセダンの連中」の仕業だと考えていた。だが、それとは全く別に、教授自身が、独自に動いていたという事実が、新たな重みを持って、美藍の胸にのしかかってきた。
「……やっぱり、教授は、知られたくないことがあるんだ」
美藍は小さく呟くと、すぐさま里奈に電話をかけた。
「もしもし、里奈? 今、大丈夫?」
『うん、大丈夫よ。どうしたと、そんな朝早くから』
「あの図書館の資料の件、司書さんから電話があって。教授本人が、資料を隠すよう指示してたみたいなの」
『……は? 教授が?』
里奈の声が、驚きで一段高くなった。
「うん。詳しいこと、直接図書館で聞きたいから……。里奈、今日、十一時くらいに図書館で会えない?」
『分かった、行く行く。詳しい話、こっちでも聞きたいばい』
「じゃあ、後でね」
通話を切ると、美藍は支度もそこそこに、鞄を掴んで玄関へと向かった。
「美藍、行ってらっしゃい」
キッチンから、みやこが声をかけてきた。
「あ、うん、行ってきます」
「そうだ、今晩、お父さんが帰ってくるから。今日は、あんまり遅くならないようにね」
「え、お父さん、今日帰ってくるの?」
美藍は思わず足を止めた。
「うん、お盆休みで。夕方には着くって連絡があったわ」
「そっか……。分かった、なるべく早く帰るようにする」
美藍は頷きながら、ふと、あの日のLINEのやり取りを思い出した。「お盆休みに戻ったとき、話をしよう」――正則が最後にそう言ったきり、あの話題には触れずにいた。
(今日、ちゃんと聞けるかな……)
そんなことを思いながら、美藍は家を飛び出した。今すぐにでも、図書館の資料の行方を確かめたかったが、頭の片隅には、今夜、久しぶりに顔を合わせる父のことが、小さく引っかかっていた。
十一時、大学図書館の入り口で、美藍と里奈は落ち合った。
「わざわざごめんね、急に」
「気にせんでよか。それより、教授本人が動いとったっていう話、詳しく聞かせて」
二人は図書館のカウンターへ向かい、改めて司書に事情を尋ねた。
「あの、電話でお伺いした件なんですけど……。移された資料、今はどちらに?」
「申し訳ございません。詳しい保管場所までは、私どもも把握していないんです。教授の方から、直接ご指示があっただけなので……」
「教授からの連絡って、いつ頃だったか、分かりますか?」
里奈が横から尋ねると、司書は少し困ったように答えた。
「それが……。実は、私ではなく、館長宛てに直接連絡が入っていたようで。その時点では、現場の私たちには何も共有されていなかったんです。今回、改めて館長に確認したところ、初めて詳しい経緯が分かりまして」
「そうだったんですね……。それで、いつ頃の連絡だったんですか?」
「記録によると……。布都さんたちが研究室を訪ねられた、あの日のうちに、ご連絡をいただいていたようです」
「あの日のうちに……」
美藍は思わず、はっとした。
「里奈、それって、私たちが教授に会いに行った、まさにその日ってことだよね」
「うん……。わたしたちが研究室に行った、その日のうちに、もう手ば回しとったってことよね」
美藍と里奈は、思わず顔を見合わせた。教授は、美藍たちが問いかけたその日のうちに、間髪入れずに手を回していた。それも、現場の司書にすら知らせずに、館長という上の立場を通じて、密かに処理させていたのだ。
「教授、そこまでして、隠したかったんですね……」
美藍は、その徹底ぶりに、背筋が冷たくなるのを感じた。
「そうですか……。教えていただいて、ありがとうございます」
美藍は司書に礼を言い、図書館を後にした。
「これ、絶対おかしいばい」
図書館を出るなり、里奈が険しい表情で呟いた。
「その日のうちに、しかも館長にまで話ば通すって、よっぽど都合の悪い内容が書かれとったってことよね」
「うん……。もう、疑う余地ないよね」
美藍は拳を握りしめた。
「教授は、間違いなく、何か隠してる」
時計を見ると、すでに正午近くになっていた。
「お昼、どうする? 学食……」
美藍がそう言いかけると、里奈が首を振った。
「お盆やけん、学食休みばい」
「あ、そっか……。じゃあ、どこか外で食べよっか」
「せっかくやし、名方さんも呼んで、報告がてらランチ会議でもする?」
里奈の提案に、美藍は頷いた。
「うん、そうしよう」
美藍はすぐに名方に電話をかけた。
「もしもし、名方さん? 今、大丈夫ですか」
『ああ、どうした』
「実は、図書館の資料の件、詳しいことが分かって。今、里奈と一緒に大学にいるんですけど、ランチしながら話せませんか?」
『分かった。今から向かう。どこか店の当てはあるか?』
「大学の近くに、良さそうなカフェがあった気がします」
三人は、大学から少し歩いた先にある、洒落た外観のカフェに入った。木目調の落ち着いた内装に、テラス席まで備えた、いかにも「カフェ」らしいカフェだった。
「今度こそ、正真正銘のカフェやね」
里奈がメニューを開きながら、感慨深そうに呟いた。
「あはは、確かに。名方さんの案内じゃないもんね」
美藍がくすくす笑うと、名方も苦笑した。
「今日は、俺は案内してないからな」
三人はメニューを見比べながら、それぞれ注文を決めていった。
「私は……。和風タラコスパゲッティセットにしようかな。食後は、アイスハーブティーで」
美藍がメニューを指差しながら言うと、里奈も続いた。
「わたしは、五穀米の薬膳カレーセット。健康的なのが食べたい気分やけん。飲み物は、アイスレモンティーで」
「らしいチョイスだね、里奈」
「体は資本たい」
里奈は真面目な顔で頷いた。
「俺は、ハンバーグランチセット。ライスは大盛りで頼む。飲み物はアイスコーヒーだ」
名方がそう告げると、美藍は思わず笑った。
「名方さん、しっかりガッツリ系ですね」
「男は黙って肉だろう」
「その理屈、よく分からないですけど」
三人はそれぞれ注文を終えると、店員が去っていくのを見送りながら、改めて先ほどの図書館での経緯を、名方に詳しく伝えた。教授からの連絡が、館長宛てに、しかも研究室を訪ねたその日のうちに入っていたこと。
「教授が、直接……。それは、大きな進展だな」
名方は真剣な面持ちで、話に耳を傾けていた。
「これで一つ、はっきりしたことがある。教授は、間違いなく、何かを隠してる」
「はい……。私も、そう思います」
「今日は、この後お父さんが帰ってくるので、あまり長居はできないんですけど……」
「ああ、それは構わない。また改めて、詳しく話そう」
しばらくして、注文の品が次々と運ばれてきた。美藍の前には湯気を立てる和風タラコスパゲッティ、里奈の前には彩り豊かな五穀米の薬膳カレー、名方の前には大盛りライスを添えたハンバーグが置かれる。
「いただきます」
三人はそれぞれの料理に手をつけながら、他愛のない話も交えつつ、今後の方針について話し合った。
「何か新しい動きがあれば、すぐに連絡してくれ」
「分かりました」
食事を終え、三人は店を出た。
「今日はありがとうございました、名方さん」
「気にするな。……気をつけて帰れよ」
美藍は名方と里奈に別れを告げ、家路を急いだ。教授の態度、忌部氏の系譜、そして今回の資料隠蔽――すべてが、一つの大きな真実へと、確実に繋がりつつあった。
夏の日差しの中、美藍は今夜、久しぶりに顔を合わせる父のことを思いながら、足取りを速めた。




