第34話:これ以上、踏み込むな
研究室を出た美藍と里奈は、そのまま大学図書館へと戻った。教授とのやり取りで感じた違和感を、もう一度資料で裏付けられないかと思ったからだった。
「あれ……」
書架の前で、美藍は思わず声を漏らした。さっきまで確かにここにあったはずの、忌部氏の近代史に関する郷土史資料集――その一巻だけが、綺麗に抜き取られていた。
「おかしいな……。さっきまで、確かにここにあったのに」
里奈も一緒に書架を確認し、眉をひそめた。
「本当や。貸出中の札もなかとに」
司書のカウンターに向かい、二人で事情を尋ねてみたが、貸出記録にも紛失記録にも、何も残っていないという答えが返ってきただけだった。
「あの、誰かがここに来て、その本を持ち出すところとか、見た人はいませんか?」
美藍が尋ねると、司書は少し考えるように首を傾げた。
「うーん……。今日は結構混み合っていたので、特には気づきませんでしたね」
「じゃあ、防犯カメラとかは、書架の近くにないんですか?」
里奈も横から尋ねると、司書は申し訳なさそうに答えた。
「入口には設置してあるんですが、書架の中までは、さすがにカバーできていなくて……。もし本当に持ち出されたということでしたら、一応、入口のカメラの映像を確認してみましょうか」
「お願いできますか?」
司書はしばらく奥に引っ込んだ後、戻ってきて、困ったように首を振った。
「今日は利用者の出入りがかなり多くて……。これだけでは、誰が持ち出したのか、正直特定は難しそうです」
「あの、その映像、私たちに見せてもらうことは出来ませんか?」
美藍が食い下がると、司書は少し困惑した様子を見せた。
「申し訳ございません……。防犯カメラの映像は、個人情報保護の関係もありまして、一般の利用者の方にはお見せできない決まりになっているんです。何かあれば、警察を通じてご確認いただく形になります」
「でも、これ、盗難かもしれないんですよ」
美藍はなおも食い下がった。
「大学の資料が、記録も残さずになくなってるなんて、普通じゃないと思うんです。せめて、大学の方で、内部だけでも確認していただくことは……」
司書は美藍の勢いに、少し押されたような表情を見せた。
「……分かりました。上の者にも相談して、館内で確認できる範囲では調べてみます。ただ、時間はいただくかもしれません」
「お願いします」
美藍は深く頭を下げた。里奈も横で、感心したように美藍を見つめていた。
「なんか、あんた、こういう時は妙に強気やね」
「だって、本当におかしいと思ったから」
美藍はそう言うと、司書に礼を言って、カウンターを後にした。
「これ、絶対おかしいって」
美藍は釈然としないまま、里奈と別れて図書館を出た。その違和感を拭えないまま、自宅への帰路についた。
その夜、美藍が郵便受けを覗くと、差出人の書かれていない、簡素な白い封筒が一通入っていた。宛名はあるが、切手も消印も見当たらなかった。
「……何これ」
嫌な予感がしたが、確かめないわけにもいかない。美藍はリビングに戻り、震える手で封を開けた。
中には、パソコンで印字されたと思しき、簡潔な一文だけが記されていた。
『これ以上、踏み込むな』
「え……」
思わず声が漏れた。その様子に気づいたみやこが、台所から顔を出した。
「どうしたの、美藍」
「お母さん、これ……」
美藍は震える手で、手紙をみやこに見せた。みやこは文面を見た瞬間、さっと顔色を変えた。
「これ、いつ届いたの?」
「今、郵便受けに入ってた」
「差出人は?」
「書いてない……」
みやこは手紙を持ったまま、しばらく黙り込んだ。リビングでテレビを見ていた来人も、ただならぬ気配を察して近づいてきた。
「何、どうしたの」
「来人、これ見て」
美藍が手紙を差し出すと、来人もそれを覗き込み、表情を強張らせた。
「……これ、マジのやつじゃん。姉貴、警察に届けた方がいいんじゃないか?」
「ちょっと待って、まずは……」
美藍はスマホを取り出し、名方に電話をかけた。
「名方さん、大変です。うちに、変な手紙が」
『どんな手紙だ』
「『これ以上、踏み込むな』って、それだけ、印字された紙が……」
電話の向こうで、名方が息を呑む気配が伝わってきた。
『……分かった。今から、そっちに行く』
「え、でも」
『いいから待ってろ。俺がこの目で、直接確認しておきたい』
通話が切れると、美藍はもう一度、手紙をじっと見つめた。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。美藍が駆け寄って戸を開けると、そこには息を切らした名方が立っていた。
「大丈夫か、美藍ちゃん」
「はい……。とりあえず、無事です」
「お邪魔します」
名方はみやこと来人にも軽く会釈すると、居間に上がり込んだ。美藍が手紙を差し出すと、名方はそれを受け取り、険しい表情で文面を睨みつけた。
「……これは、間違いなく、あの黒いセダンの連中と繋がってるな」
「やっぱり、そうですよね」
みやこが心配そうに、二人のやり取りを見守っていた。
「あの……。名方さん、これは、一体……」
「お母様、詳しい事情は、また改めてお話しします。とりあえず、今は……」
名方は少し考えるように間を置いてから、切り出した。
「この手紙、俺に預からせてもらってもいいですか。念のため、指紋や、印字に使われたプリンターの特徴なんかを、知り合いに調べてもらいたいので」
「あ……。はい、もちろん」
美藍が頷くと、名方は丁寧に手紙をビニール袋に入れ、鞄にしまった。
「美藍ちゃん。悪いが、これはもう、遊びで済む話じゃなくなってきてる」
名方は真剣な眼差しで、美藍を見つめた。
「引き返すなら、今のうちだ。俺は、それでもいいと思ってる」
美藍は、しばらくの間、黙り込んだ。恐怖は、確かにあった。だが、それ以上に、これまで積み重ねてきたすべての手がかり――教授の態度、老婆の警告、そして自分自身の血に眠るかもしれない真実――それらを、ここで手放すことなど、もはやできないと感じていた。
「……引き返しません」
美藍は、はっきりとそう答えた。
「私、最後まで、真実を知りたいです」
名方は、しばらく美藍の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった。なら、俺も最後まで付き合う」
みやこは、二人のやり取りを見ながら、何も言えずに立ち尽くしていた。来人も、いつになく神妙な顔で、姉の様子を見守っている。
夜の静けさの中、リビングには、しばらくの間、重い沈黙が流れていた。




