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第27話:磐の境

 長い山道を登り切ると、木々の間から、それまでとは明らかに異質な空間が姿を現した。


南北に細長く、東西に大きく広がる、石垣による四角い囲い。長年の風雨に晒された結晶片岩の石が、規則正しく積み上げられている。囲いの中には、小さな祠がいくつも並び、北側の辺には五つ、南側の辺には三つの入口が設けられているのが見て取れた。


「これが……」


美藍は言葉を失ったまま、その場に立ち尽くした。


「『磐境』と呼ばれる、この特異な石囲いだ。南北約七メートル、東西約二十二メートル。北辺に五つの祠、南辺に三つの入口がある、珍しい造りらしい」


名方が淡々と説明する横で、里奈も興味深そうに石垣を見つめていた。


「本殿も拝殿もなか、ただの石の空間……。確かに、日本の一般的な神社の造りとは、全然違うとね」


「でしょう!? これ、絶対に普通じゃないんですよ!」


美藍のスイッチが、静かに、しかし確実に入り始めていた。


「見てください、この石垣の配置。旧約聖書に出てくる、モーセが神から指示されて造った移動式の神殿――『幕屋』。あれの構造と、驚くほど似てるんです。幕屋も、外側を柱と幕で囲んで、その中心に聖なるものを安置する、二重構造になってて……」


「テル・アラッドの祭祀場とも、似とるって聞いたことあるとよ」


里奈が思いがけず、専門家らしい知見を口にした。


「イスラエル南部にある古代都市の遺跡。あそこのユダヤ神殿跡の構造が、この磐境の石囲いと、確かに似とる部分があるって、前に文献で見た記憶がある」


「里奈、詳しいじゃん!」


「畿内説専攻でも、比較宗教とか比較考古学の授業は取っとるとよ」


美藍は興奮した様子で、ノートを取り出しながら石垣の周りを歩き始めた。


「それに、さっき麓でお参りしてきた『白人(しらひと)神社』。あれ、『しらひと』じゃなくて、本当は『しらはと』――白い鳩って読ませたかったんじゃないかって説もあって! 旧約聖書のノアの箱舟で、洪水が収まったのを知らせに戻ってきた聖なる鳥が、白い鳩なんです!」


「また、飛躍したこと言い始めたな」


名方が苦笑しながらも、石垣に手を触れた。冷たく、ざらついた岩肌の感触が、掌に伝わってくる。


「でも、正直に言うとな。この石垣の技術自体は、当時の日本にしては、確かに異質な気がする。木の文化だったはずのこの国に、なぜ石を積んでこれだけ精巧な構造物を造る技術があったのか……。それ自体は、素直に不思議に思う」


「名方さんもそう思います!?」


「思うが、それがユダヤ由来かどうかは、また別の話だ。……お前の悪い癖だぞ、美藍ちゃん。一つ興味深い謎が見つかると、すぐに全部、同じ結論に結びつけたがる」


美藍は少し口を尖らせながらも、素直に頷いた。


「……分かってます。でも、繋がって見えちゃうんだから、仕方ないじゃないですか」


三人は、しばらくの間、無言で石垣の周りを歩き回った。夏の日差しが、木々の隙間から石垣に、まだら模様の影を落としている。


「里奈、この磐座、どう思う? 正直な意見、聞かせて」


美藍が改めて尋ねると、里奈はしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。


「……正直、不思議な場所やなとは思う。日本の神社建築の常識からは、確かに外れとる。でも、それがユダヤ由来だって結論に飛びつく前に、もっと調べるべきことがある気がするとよ。当時の技術交流とか、大陸との関係とか」


「うん、それはそう」


「その上で言うけど……。この場所に立っとると、なんか、変な感じはする。理屈じゃなくて、肌感覚として」


里奈は珍しく、真剣な顔でそう呟いた。


美藍は静かに頷くと、石垣の中央――五つの祠が並ぶ、その奥を見つめた。木漏れ日が揺れる中、石垣に囲まれたその空間だけが、まるで周囲から切り取られたように、静謐な空気を纏っていた。


「……何かを、大切に守るために造られた場所」


美藍はぽつりと呟いた。


「そんな気が、私もします」


風が一瞬、木々の梢を揺らし、石垣の上を通り過ぎていった。三人は、しばらくの間、その静けさの中に佇んでいた。


やがて、美藍は何かを思いついたように、鞄から一枚の地図を取り出した。徳島県全体が描かれた、道路地図の切れ端だった。


「ねえ、名方さん、里奈。ちょっと見てください」


美藍は地図を石垣の脇の平らな岩の上に広げ、ペンを取り出した。まず、今いる磐境神明神社の場所に丸をつける。


「ここが、今私たちがいる場所。……で」


ペン先が地図の上を滑り、南西の方角へと線を引いていく。やがて、剣山を示す等高線の密集した部分に到達すると、美藍はそこにもう一つの丸を描いた。


「ここが、剣山」


二つの丸の間を、まっすぐな一本の線が結んでいた。


「ふむふむ……」


美藍は地図を覗き込みながら、独り言のように呟いた。


「磐境が、幕屋の設計そのものだとしたら……。ここは、最終目的地である剣山へ運ぶ前の、いわば『中継地点』だったんじゃないでしょうか。あるいは、追っ手の目を欺くための、カモフラージュの拠点」


「中継地点、か」


名方が地図を覗き込みながら、腕を組んだ。


「確かに、地理的に見ても、吉野川流域からこの美馬を経由して、山を登れば剣山に至る。ルートとしては、不自然じゃないな」


「でしょう!? つまり、この磐境で一旦、大切なものを安置して、周囲の目を集めておいて……。その隙に、本当に守るべきものは、こっそり剣山の奥深くへ運ばれていった、とか」


里奈も地図を覗き込みながら、感心したように頷いた。


「地理的な合理性だけで言えば、確かに筋は通っとるね。単なる思いつきじゃなく、ちゃんと地図上に線を引いて考えるところは、あんたの良いところやと思う」


「里奈、褒めてくれてる?」


「珍しく、な」


美藍は嬉しそうに笑うと、地図の上の二つの丸と、それを結ぶ線を、指先でなぞった。


「政治的な都(奈良)へと続く道と、魂の故郷(阿波)の奥深くへと続く道。この磐境は、まさにその分岐点だったのかもしれません」


木漏れ日が、地図の上に落ちていた。三人はしばらくの間、その一本の線が指し示す先――剣山の方角を、無言で見つめていた。


美藍はふと、ノートの隅に、そのまま思いついた言葉を書き留めた。


「政治は奈良、魂は阿波、ここは磐の境」


書き終えた文字を、自分でもう一度読み返す。たった三行に、これまで見聞きしてきたすべてが、すとんと収まったような感覚があった。


「……なんか、良いフレーズになった気がする」


「え、見せて」


里奈がノートを覗き込み、その一文を読むと、しばらく黙り込んだ。


「……悔しかけど、ちょっと詩的やね、それ」


「でしょ!」


美藍は照れくさそうに笑うと、ノートを閉じた。


「そういえば、この辺り一帯は、昔から阿波忌部氏が守っていた土地だったらしいぞ」


名方が地図をたたみながら、ふと、周囲の山並みをぐるりと見渡してそう言った。


「阿波忌部氏……。あ」


美藍の手が、地図をしまおうとした動きの途中で、ぴたりと止まった。


「名方さん。忌部教授の、忌部って……」


「ん?」


名方が首を傾げると、美藍は自分の中で組み上がっていく考えに、戸惑うように続けた。


「今まで、ただの苗字だとしか思ってなかったんです。でも、まさか、本当にこの土地を代々守ってきた一族と、同じ名前だったなんて……」


名方は、しばらく黙り込んだ後、はっとしたように顔を上げた。


「……確かに、それは偶然にしては、出来過ぎてるな」


里奈が小さく息を呑む音が聞こえた。


「美藍、それ……。前に言うとった、『忌部』っていう名前が学生時代の教授に繋がってた話とも、線が繋がってこんね」


「うん……。うん、そうだよ。善造さんが言ってた、三十年前の『いんべ』っていう学生の話も……」


美藍は震える声で、地図を握りしめた。


「教授は、本当に……。この一族の、末裔なんじゃないでしょうか」


名方は、しばらく黙ったまま、遠く霞んで見える剣山の稜線を見つめていた。


「……その可能性は、確かに高いだろうな」


風が、石垣の上を静かに吹き抜けていった。三人は、それぞれの胸の内に、今しがた繋がった一本の線の重みを、噛み締めるように黙り込んでいた。


「もし、本当にそうだとしたら」


美藍が、絞り出すようにそう呟いた。


「教授があんなに頑なに、私の説を否定してきた理由も……。全部、繋がる気がします」


夏の日差しが、磐境の石垣に、静かに降り注いでいた。


「……よし。次は、いよいよそこへ向かうしかなさそうだな」


名方が静かにそう言うと、美藍と里奈は、同時に頷いた。。



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