第21話:使命
夜も更けた徳島文化大学、文学部棟三階。
「日本古代史研究室」の窓には、まだ明かりが灯っていた。忌部聡は、誰もいなくなった研究室の中で、一人机に向かい、スマートフォンを耳に当てていた。
「……うん」
「うん、分かった」
短い相槌だけを返しながら、教授は窓の外に広がる、夜の徳島の街並みを見つめていた。遠くには、まだ阿波おどりの余韻を残すような、微かな灯りが揺れている。
「いや、心配はいらん。……ああ、こちらでも把握はしている」
電話の相手が誰なのか、その声色からは窺い知れない。教授は淡々とした調子で、時折頷きながら、言葉少なに会話を続けていた。
「もう少しの辛抱だ。……まだ、知られてはならん」
その一言には、これまで研究室で美藍に見せていたような、単なる学問上の頑固さとは違う、もっと重く、切実な響きが込められていた。
「……分かった。それでいい。また連絡する」
そう言うと、教授は静かに通話を切った。スマートフォンを机の上に置き、深いため息をつく。
しばらくの間、教授は椅子の背もたれに深く身を預け、天井を見上げていた。机の脇に置かれた古びた写真立て――青々とした藍畑を背景に佇む、着物姿の老人の写真に、ふと視線を落とす。
「……まさか、こんな近くに」
教授は独り言のように呟いた。
「四国説などという、あの荒唐無稽な説を、これほど熱心に唱える者が現れるとはな」
眼鏡を外し、疲れたように目頭を揉む。指導していた学生の一人――布都美藍という名の院生の顔が、脳裏に浮かんでは消える。
「あの熱意は、本物だ。だからこそ、厄介だ」
教授は静かに目を閉じた。誰よりも自分自身が知っている。四国こそが、真実の在り処であることを。だが、それを世に知らしめることは、決してあってはならない。あの聖なる場所を、その真の意味を、外の世界の欲得や好奇の目に晒すことだけは、絶対に避けねばならなかった。
(畿内説を、誰よりも強く唱え続ける。それこそが、忌部の名を継ぐ者としての、わしの使命だ)
自分の説が正しいと信じているからではない。むしろ、その逆だ。真実を、誰よりも知っているからこそ、それを覆い隠す盾になる。学問の権威という鎧を纏い、荒唐無稽な異説として四国説を切り捨て続けることこそが、一族が何百年にもわたって守り続けてきた沈黙を、次の世代へと繋いでいくための、唯一の方法だった。
教授は机の引き出しから、一枚の古い新聞の切り抜きを取り出した。黄ばんだ紙面には、地方紙の文化欄らしき、小さな記事が印刷されている。それを見つめる教授の眼差しには、これまで研究室で見せていたような冷徹さとは、また違う色が浮かんでいた。
「畿内説の優位性を、もっと確固たるものにしなければ……。あの子の熱意ごと、封じ込めるくらいにな」
教授は切り抜きを引き出しの奥にしまい直すと、机の上のパソコンを開き、何かを検索し始めた。画面には、大手新聞社や、地方局の文化番組担当者の連絡先らしきものが、いくつも表示されている。
「マスコミを使ってでも、な」
低く呟くと、教授はキーボードを叩き始めた。かつての教え子に、あるいは旧知の記者に宛てたものと思しきメールの文面が、画面の上に静かに積み上げられていく。
窓の外では、遠くの街の灯りが、変わらず夜の闇の中で瞬いていた。研究室の明かりだけが、深夜の文学部棟に、ぽつりと灯り続けていた。




