第20話:入学式の日
「そういえば、里奈と初めて会った日のこと、最近よく思い出すんだよね」
図書館での作業の合間、美藍がふと漏らした一言に、たまたま隣の席で自分の資料を読んでいた里奈が顔を上げた。
「え、急に何よ、あの話」
「いや、なんとなく。もう四年以上前になるんだなって」
美藍はペンを置き、懐かしむように目を細めた。
四月、入学式当日の徳島文化大学のキャンパスは、真新しいスーツや初々しい私服に身を包んだ新入生たちで溢れていた。
大講堂へと続く道のあちこちに案内の立て看板が立てられていたが、広大なキャンパスに不慣れな新入生たちは、右往左往しながら人の流れについていくのがやっとという有様だった。
美藍もまた、初めて足を踏み入れる大学の敷地に、内心では少し緊張しながら歩いていた。
そんな折、少し先の分かれ道で、一人の女の子が地図らしきプリントを手に、明らかに困り果てた様子で立ち尽くしているのが目に入った。
「あの……、すみません、こん道で合うとりますか? 大講堂って、こっちで良かとですか?」
その子は、通りすがりの学生を捕まえては、そう尋ねていた。だが、聞かれた学生たちも自分の道を探すのに必死で、要領を得ない返事をして通り過ぎていく。
「もう、どこに行けばいいか、全然わからんばい……」
女の子は途方に暮れたように、独り言のように呟いた。聞き慣れないイントネーションの言葉に、美藍は思わず足を止めた。
(あ、この喋り方……。九州の人かな?)
好奇心と、困っている人を放っておけない性分から、美藍は自然とその子に近づいていった。
「あの、大講堂ならこっちですよ! 私も今行くところなので、良かったら一緒に行きます?」
「え……、あ、ありがとうございます! 助かりますばい!」
女の子――里奈は、心底ほっとした様子で、美藍に向かって頭を下げた。
「わたし、佐伯里奈っていいます。熊本から来ました」
「布都美藍です! やっぱり九州の子だったんですね、その喋り方」
「あー、やっぱり訛ってます? 標準語、頑張って喋ってるつもりなんですけど、緊張するとすぐ出てしまって……」
里奈は少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「全然、可愛いですよそれ! むしろもっと聞きたいです、熊本弁」
美藍が屈託なくそう言うと、里奈は驚いたように目を丸くしてから、ふっと肩の力を抜いたように笑った。
「変わっとるね、あなた。普通、方言って笑われることはあっても、褒められることってあんまりなかとよ」
「そうですかね? 私、地元の徳島弁も好きですし、色んな土地の言葉って、なんかその土地の歴史とか文化が詰まってて、面白いなって思うんです」
「歴史……。もしかして、あなたも歴史学科?」
「はい! 日本古代史専攻志望です」
「うそ、わたしも!」
里奈は思わず声を上げた。
「わたし、歴史の勉強がしたくて、こん大学に来たとよ。……でも、正直に言うと、邪馬台国は畿内か、九州じゃなかとかって、ずっと思っとってね」
「九州説? 里奈、九州出身だもんね」
「そうたい。佐賀に吉野ヶ里遺跡もあるし、うちの実家の方じゃ、みーんな『邪馬台国は絶対九州たい』って言うとる。子供の頃から、そぎゃん空気の中で育ったけん」
「じゃあ、なんでわざわざ、畿内説の強いこっちの大学に?」
「そこがまた、天邪鬼なとこでね」
里奈はいたずらっぽく笑った。
「地元の空気にどっぷり浸かっとると、逆に『本当にそうなんかな』って、疑いとうなってくるったい。だけん、あえて反対側の意見が強か場所で、じっくり歴史ば見てみたかった」
「面白い! 私は逆に、四国説っていうのを考えてて」
「四国説? そがん説、初めて聞いた」
「まだ全然メジャーじゃないんですけどね。でも、絶対面白いと思うんです、これ」
「あんたも、通説を疑うタイプなんやね。気が合いそうたい」
二人は歩きながら、気づけば互いの興味の話に夢中になっていた。
「里奈は、邪馬台国以外にも興味ある時代とかあるの?」
美藍がそう尋ねると、里奈の表情が、ふっと引き締まった。
「幕末。特に、横井小楠」
「よこい……、しょうなん?」
「知らんとね、やっぱり」
里奈は苦笑しながらも、どこか嬉しそうに続けた。
「肥後――熊本の生んだ、明治維新の思想的な骨格ば作った人たい。なのに、教科書じゃ名前も出てこん」
「え、そんなにすごい人なの?」
「すごいなんてもんじゃなか! 船中八策の元になった発想も、大政奉還の理念も、辿っていけばみんな小楠の思想に行き着くと。福井藩に招かれて、殖産興業から議会政治の構想まで、あん時代にあれだけの青写真ば描いた人間、他におらんばい!」
里奈の口調が、次第に熱を帯びていく。標準語で話そうとする意識も、興奮のあまりすっかり吹き飛んでいるようだった。
「なのに、教科書に載っとるとは坂本龍馬ばっかり。あん人が船中八策を思いついたことになっとるけど、あれ、元々は小楠の考えば福井藩主から聞いた勝海舟が、龍馬に伝えたって話たい。つまり、龍馬は小楠の思想の、いわば運び屋。行動力と人脈はすごかったかもしれんばってん、思想そのものを生み出したとは、小楠の方たい」
「う、うん……。詳しいね、里奈」
「地元におった頃から、ずっと悔しゅうてね。熊本には小楠っていう、あがん立派な思想家がおったのに、みんな知らん。教科書にゃ載らん。なんでみんな、龍馬龍馬言うとかって」
里奈は一気にまくし立てると、少し我に返ったように咳払いをした。
「……あ、ごめん。急に興奮してしもうた」
「ううん、全然! なんかその感じ、わかる気がする」
美藍は目を輝かせながら頷いた。
「私も、四国説を考えてる時、同じような気持ちになるもん。みんなが当たり前だと思ってることの裏に、実はもっとすごい真実が隠れてるんじゃないかって」
「……あんた、なかなか話が分かるね」
里奈はそう言って、初めて心からの笑みを見せた。
「よし、決めた。あんたとは、友達になろう」
「望むところだよ!」
大講堂に到着する頃には、二人はすっかり打ち解けた様子で、肩を並べて歩いていた。
「里奈さん、これから講義とかで会うこと多そうですね。仲良くしてください!」
「うん、こちらこそ。……あ、さん付けはやめて、里奈でよか」
「じゃあ、里奈! 私のことも美藍でいいよ」
大講堂の入り口で、二人はどちらからともなく笑い合った。右も左も分からない新入生同士、あの日感じた心細さが、お互いの存在によって、少しずつ和らいでいったのを、美藍は今でも覚えている。
「……ってことがあったよね、確か」
美藍が回想を締めくくると、里奈は懐かしそうに小さく笑った。
「よく覚えとるね、そんな昔のこと」
「そりゃ覚えてるよ。里奈と友達になれたの、あの日のおかげだもん」
「大袈裟な。……まあ、あの時声かけてもらえんかったら、わたし、しばらく迷子になっとったかもしれんけど」
里奈は苦笑しながら、机の上の資料に視線を戻した。
「まさか、あの時の子が、三年後には教授の秘密を探って黒いセダンに追われることになるとはね」
「本当だよ。人生、何があるか分からないもんだね」
美藍は笑いながら、そう答えた。あの入学式の日から、もう四年以上が経っている。窓の外には、変わらない大学の夏の日差しが、穏やかに降り注いでいた。




