第19話:図書館での整理
翌日、美藍は大学の図書館の片隅で、机いっぱいに資料とノートを広げていた。
一昨日、忌部教授に論文を突き返された日から、まだたったの二日しか経っていない。それなのに、身の回りで起きた出来事の密度は、これまでの人生のどの時期よりも濃かった。
(整理しないと、頭がパンクしそう……)
美藍はノートのページをめくりながら、これまでの出来事を時系列で書き出していった。
「一昨日:教授にプロット却下。里奈から、教授が美馬・三好方面のフィールドワークをやめたって噂。名方さんと『豆八』で、豆天玉とヤットサーの暗号の話。黒いセダンに追われて、眉山……」
ペンを走らせながら、美藍は独り言のようにぶつぶつと呟いていた。
「昨日:朝からネットでオカルト情報も含めて調べまくり。喫茶店で名方さんに防衛ライン説を語って、そうめんの部分は却下された。八倉比売神社に寄って……。あの、蝉の声が止んだ話と、謎の老婆」
美藍はノートに「老婆の正体は不明」と書き込みながら、小さく身震いした。あの時の言いようのない不穏な感覚は、一晩経った今でも、まだ胸の奥にわだかまっている。
「それから、藍染工房で善造さんに会って、あの唄を聞いて……。善造さんが言ってた、『いんべ』っていう学生の話……」
ここまで書き出したところで、美藍はペンを止めた。改めて時系列で並べてみると、たった二日間の出来事とは思えないほどの情報量だった。
「阿波おどりで踊って、名方さんが足腰がーってなって……。うん、これは関係ないか」
そう独りごちながら、余計な一文に線を引いて消していると、不意に背後から声がかかった。
「随分と賑やかに独り言、言ってるじゃない」
「うわっ!?」
美藍は驚いて振り返った。そこには、資料を数冊抱えた里奈が、呆れたような笑みを浮かべて立っていた。
「り、里奈! いつからそこに……」
「ついさっきよ。呼んでも気づかないから、放っておこうかと思ったけど」
里奈は向かいの席に腰を下ろすと、美藍が広げているノートを興味深そうに覗き込んだ。
「何、これ。えらい細かくメモってるけど」
「あ、いや、これは……」
美藍は咄嗟にノートを閉じようとしたが、里奈の方が一瞬早く、ページの端を指で押さえた。
「隠すってことは、あれね。この前の、教授の秘密の話と関係してるやつでしょ」
「……なんで分かるの」
「美藍の顔に書いてあるもの。それに、名方さんの名前と、『いんべ』とか『老婆』とか、物騒な単語がちらちら見えてるし」
美藍は観念したように、ノートを机の上に開き直した。
「……里奈、他言無用でお願いできる?」
「言うわけないでしょ、こんな面白そうな話」
里奈は興味津々といった様子で、身を乗り出した。
「それで? この二日間で、一体何があったのよ」
美藍は少し迷ったが、里奈になら話しても大丈夫だろうという安心感があった。何しろ、最初に教授の不審な噂を教えてくれたのも、里奈だったのだから。
「実はね……」
美藍は声を潜めながら、この二日間の出来事を、かいつまんで里奈に話し始めた。名方から託された古文書のこと、黒いセダンに追われたこと、八倉比売神社での老婆の警告、そして藍染工房で聞いた「いんべ」という名前のこと――。
話を聞き終えた里奈は、しばらくの間、腕を組んだまま黙り込んでいた。
「……美藍、それ、本当に全部本当の話?」
「本当だよ! 私だって、こんな話、自分で言ってて信じられないくらいだもん」
「いや、疑ってるわけじゃないけど……」
里奈は真剣な顔で、机の上のノートに視線を落とした。
「老婆の話は、正直ちょっと薄気味悪いけど……。『いんべ』っていう名前が、三十年前の学生として出てきたのは、気になるわね」
「やっぱり、教授のことだと思う?」
「可能性は高いでしょうね。教授の年齢から逆算しても、時期的にはちょうど合いそうだし」
里奈はそう言いながら、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、美藍。前に言った、教授が美馬・三好方面のフィールドワークをやめたって話、あれ、もう少し詳しく分かったかもしれない」
「本当!? 誰から聞いたの?」
「うちのゼミの、一番上の先輩。もう博士課程の人なんだけど、たまたま雑談してた時に、それとなく聞いてみたのよ」
里奈は声を潜めながら続けた。
「その先輩が言うには……。教授が最後にフィールドワークに行った時、地元の旧家の当主が、教授の調査に何度か協力してたらしいの。でも、その当主、ある時『剣山に登る、二、三日で帰る』って言って家を出たきり、そのまま消息を絶ったんだって」
「消息を絶った……?」
美藍の背筋に、冷たいものが走った。
「事故だったのか、それとも自分から姿を隠したのか……。そこまでは、先輩も知らないみたい。でも、教授はそれ以来、その一家との関わりを一切口にしなくなったって」
図書館の静けさの中で、二人はしばらく黙り込んだ。窓の外からは、まだ祭りの余韻を残すような、遠い賑わいの音がかすかに聞こえてくる。
「……里奈、ありがとう。おかげで、また一つ手がかりが増えた」
「役に立ったなら良かったけど……。美藍、あんまり無茶しないでよ。黒いセダンとか、正直、穏やかな話じゃないんだから」
「うん、気をつける」
美藍は頷きながら、ノートに新しい情報を書き加えた。「三十年前:美馬・三好の旧家当主、剣山で消息不明」。
書き終えたところで、美藍はふと顔を上げ、里奈を見つめた。
「ねえ、里奈。もし、この先も何か情報が入ったら、また教えてくれる?」
「まあ、いいけど。……その代わり、真相が分かったら、私にも一番に教えなさいよね」
里奈はそう言うと、悪戯っぽく笑った。美藍もつられて、小さく笑みを返した。
窓の外に広がる夏の空の下、図書館の静かな時間だけが、二人の間に穏やかに流れていた。




