第18話:輪の中へ
夜も更け、ようやく客足が落ち着いてきた頃、大将は額の汗を拭いながら、大きく伸びをした。
「ふう……。今日も無事に乗り切ったな。美藍ちゃん、名方さん、今日はほんとに助かったわ」
「いえいえ、昨日に続けてで大変かと思いましたけど、意外と身体が覚えてるもんですね」
美藍はエプロンを外しながら、笑顔で答えた。店内には、揚げ物の油と、ソースの香ばしい匂いが、まだ濃く残っている。
「さて、と」
大将は暖簾を裏返しにし、店じまいの札を出すと、二人の方を振り返った。
「せっかくの阿波おどりだ。このまま帰るのはもったいなかろう。……どうだ、二人とも、演舞場、見に行かんか」
「え、大将も来るんですか?」
「たまにはな。店閉めた後は、いつも一人でふらっと見に行くんが、俺の楽しみでな」
大将はそう言うと、店の奥から古い法被を取り出し、羽織った。着慣れた様子から、毎年恒例の行事であることが窺える。
「名方さんは、どうする?」
「もちろん、行くに決まってるだろう。せっかくの阿波おどり、これを見ずして徳島は語れんからな」
三人は連れ立って、『豆八』を後にした。夜の街には、まだ祭りの熱気が色濃く残っている。遠くから、鉦と太鼓の音が、地鳴りのように響いてくる。
演舞場に近づくにつれ、人の波はいっそう密になっていった。提灯の明かりに照らされた通りには、法被や浴衣姿の踊り子たちが行き交い、独特の高揚感が街全体を包み込んでいる。
「うわぁ……! やっぱり何度見ても圧巻ですね、この熱気!」
美藍は人混みに揉まれながらも、目を輝かせていた。演舞場の桟敷席では、揃いの衣装に身を包んだ連が、次々と入れ替わりながら踊りを披露している。三味線と鉦、太鼓の音が絶妙に絡み合い、「ヤットサー! ヤットヤット!」という掛け声が、夜空に向かって高らかに響き渡った。
「なあ、美藍ちゃん」
しばらく見物していた大将が、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「見てるだけじゃ、もったいないだろう。……踊るか?」
「え、私たちもですか!?」
「阿波おどりは、見る阿呆に、踊る阿呆。同じ阿呆なら、踊らにゃ損損、って言うだろう」
大将はそう言うと、通りの端に設けられた、飛び入り参加自由の「にわか連」の輪を指し示した。誰でも自由に参加できる、観光客にも人気の一角だ。
「よし、俺は行くぞ! 美藍ちゃんも名方さんも、来い!」
大将は迷いなく輪の中へと入っていった。周りの見物客から、囃すような拍手が起こる。
「な、名方さん、どうします……?」
美藍が戸惑いながら振り返ると、名方はやれやれといった様子で肩をすくめた。
「大将があそこまで行っちまったら、俺たちも行くしかないだろう。……ほら、行くぞ」
「ええっ、私、踊りとか全然分からないんですけど……!」
「見よう見まねで十分だ。誰も、上手さなんて気にしちゃいない」
名方に背中を押されるようにして、美藍も輪の中へと足を踏み入れた。周りの踊り子たちの動きを真似ながら、両手を高く掲げ、ぎこちなく足を踏み出す。
「ヤットサー! ヤットヤット!」
鉦と太鼓のリズムに合わせて、身体が自然と動き始める。最初はぎこちなかった動きも、次第に周りのリズムに引き込まれていった。
「大将、意外と様になってますね!」
「おうよ、これでも毎年鍛えとるからな!」
大将は軽快な足取りで、踊りの輪の中を練り歩いていく。名方もまた、ぎこちないながらも楽しそうに、両手を天に掲げていた。
美藍は踊りながら、ふと、名方が前に語っていた言葉を思い出した――「ヤットサー」という掛け声が、ヘブライ語で「神の救いがやってくる」という意味を持つという話。両手を天に掲げ、足を踏み鳴らすこの動作が、古代ユダヤの民がアークを迎えた際の歓喜の舞そのものだという――。
(この輪の中にいる誰もが、そんなこと知らずに踊ってる。でも、もしかしたら身体の奥底で、何かを覚えてるのかもしれない……)
そんな埒もない考えが頭を過ぎりながらも、美藍は自然と笑顔になっていた。理屈を抜きにして、ただこの瞬間、この熱狂の中に身を委ねる心地よさがあった。
鉦の音、太鼓の音、そして無数の掛け声が一つに溶け合い、夜の徳島の街全体を、大きなうねりのように包み込んでいく。
「ヤットサー! ヤットヤット!」
美藍は声を張り上げながら、大将と名方と一緒に、輪の中を踊り続けた。今日一日の疲れも、教授への悔しさも、迫りくる不穏な影も、この瞬間だけは、遠い彼方に霞んでいくようだった。
踊りの輪が一巡りしたところで、三人は息を切らしながら、輪の外へと出た。
「はあ、はあ……。楽しかったです、大将!」
「だろう! これだから、阿波おどりはやめられん」
大将は満足げに笑いながら、汗を拭った。
「さて、俺はそろそろ帰るとするか。今日は二人とも、ほんとにありがとうな」
「こちらこそ、ご馳走様でした」
大将と別れの挨拶を交わすと、美藍と名方は、まだ熱気の残る夜の街に、二人きりで取り残された。
「……うっ」
名方が不意に呻き声を漏らし、電柱に手をついた。
「な、名方さん、大丈夫ですか?」
「いや……。さすがに、今日は足腰にきたな」
名方は情けない顔をしながら、腰のあたりをさすった。
「考えてみりゃ、昼間は八倉比売さんのあの石段を、上り下りしただろう。それだけでも結構な運動量だったのに、そのまま夜まで店を手伝って、挙句にこの踊りだ」
「あー……。確かに、言われてみれば、今日一日でとんでもない距離動いてますよね、私たち」
美藍もふくらはぎのあたりをさすりながら、苦笑した。
「若い美藍ちゃんはともかく、俺はもう、いい歳だからな……」
「名方さん、そんな年でもないでしょう」
「いや、こういうのは、翌朝にじわじわ来るんだ。今夜のうちから、嫌な予感がする」
名方はよろよろとした足取りで歩き出しながら、大げさにため息をついた。
「まったく……。石段登って、接客して、踊って。今日一日で、一生分運動した気分だ」
「私は、まだまだ元気ですけどね!」
美藍はわざと元気よくその場でぴょんと跳ねてみせたが、内心では、彼女自身の足も、じんわりとした疲労を訴えていた。
「その若さが眩しいよ、まったく……」
名方はふらつく足取りのまま、それでも笑いながら、夜道を歩いていく。
夜空には、祭りの明かりに紛れながらも、いくつかの星が瞬いていた。美藍はふと、今日一日の出来事――教授の否定的な言葉、里奈の忠告、八倉比売神社の謎、老婆の警告、そして善造から聞いた「いんべ」という名前――を思い返した。
まだ何も、明確な答えには辿り着いていない。だが、この熱狂の中で踊った瞬間だけは、確かに、何か大きなものと繋がっていたような、そんな不思議な実感が、美藍の胸の中に残っていた。
「さて、送っていくから、車まで頑張って歩くぞ、名方さん」
「情けない話だが、頼む……」
足腰をふらつかせる名方の背中を支えるように、美藍は笑いながら、夜の街を歩いていった。




