第17話:蒅唄
三和土に立つと、藍の匂いがいっそう濃く漂ってくる。薄暗い土間の奥には、大きな甕がいくつも並び、そこから立ち上る独特の発酵臭が、工房全体を満たしていた。
「これが、蒅を仕込む甕だ。中で今、藍の葉が発酵しよる真っ最中でな」
善造は甕の一つを、愛おしそうに撫でた。
「今日は、特別に見せたいもんがあってな」
善造はそう言うと、工房の奥から、古い木箱を一つ運んできた。蓋を開けると、中には乾燥させた藍の葉が、山のように詰まっている。
「これを寝かせて、水打って、切り返して……。何ヶ月もかけて、じっくり発酵させるんが蒅作りよ。うちは、先祖代々このやり方を変えとらん」
「本当に、根気のいるお仕事なんですね」
美藍が感心したように呟くと、善造は満足げに頷いた。
「まあ、見てるだけじゃ分からんこともある。……よし、せっかくじゃ、いつもの唄でも聞かせてやろうかの」
善造はそう言うと、甕の前に腰を下ろし、大きな木の棒で中身をゆっくりとかき混ぜ始めた。土間に差し込む夏の光が、甕から立ち上る湯気のような発酵の気配を、ぼんやりと照らし出している。
やがて、善造の口から、低く掠れた声で、聞き慣れない旋律の唄が漏れ始めた。
「ヤー……アー……、シャロー……メー……」
意味の分からない言葉が、独特の抑揚をつけて、繰り返し繰り返し歌われていく。
美藍は固唾を呑んで、その様子を見守っていた。
(この唄……)
聞いているうちに、美藍の中で、何かが引っかかった。日本語のようで、日本語ではない。だが、どこかで聞いたことがあるような、奇妙な既視感がある。
「善造さん、今の唄……。どういう意味なんですか?」
「さあての。わしも、意味は知らん。うちの親父も、そのまた親父も、意味も分からんまま、ただこうやって歌い継いできただけじゃ」
善造はそう言いながら、木の棒を動かす手を休めなかった。
「昔から、『この唄を止めたら、藍の神様が怒る』言われてきてな。だから、意味は分からんでも、こうして毎日歌い続けとる」
美藍はスマホを取り出し、こっそりとその唄を録音した。頭の中では、朝方ネットで調べたヘブライ語の音の響きが、目まぐるしく反芻されている。
「名方さん……。今の『シャロー』って、もしかして……」
「ヘブライ語の『シャローム』、平和とか、神への祈りって意味だったよな」
名方が静かに頷いた。
「はい……! 『シャローム』の語尾が訛って、『シャロー』になったんだとしたら……。これ、本当に、古代ヘブライ語の祈りの唄そのものかもしれません……!」
美藍の声が、興奮で震え始めていた。だが、先ほどの喫茶店でのやり取りを思い出し、彼女はぐっとその興奮を抑え込んだ。
「……いや、待って。これも、ちゃんと裏を取らないと。偶然、音が似てるだけかもしれない」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、美藍はノートを取り出し、丁寧にメモを取り始めた。
善造は、そんな美藍の様子を、どこか懐かしそうな目で見つめていた。
「嬢ちゃん、面白いこと言うな。……昔、似たようなことを言っとった学生さんが、一人おったわ」
「え……?」
美藍が顔を上げると、善造は少し遠い目をした。
「もう、三十年近く前になるかの。まだ若い、大学の先生の卵みたいな人でな。この唄を聞いて、えらく興奮しとった」
名方の顔が、わずかに強張るのが見えた。
「善造さん、その人の名前、覚えてますか」
「さてな……。年寄りの記憶じゃ、もうはっきりとは……。ああ、でも確か、『いんべ』とか、そんな苗字じゃったような」
美藍と名方は、思わず顔を見合わせた。
工房での見学を終え、二人が善造に礼を言って外に出た頃には、まだ日は高い位置にあった。
「そろそろ、豆八に顔出しとくか。今日は阿波おどり期間中だから、大将もそろそろ忙しくなってる頃合いだろう」
名方がスマホを確認しながら言うと、案の定、着信が数件入っていた。
「毎年この時期は、いつもより早い時間からてんてこ舞いなんですよね、うちの店」
美藍は苦笑しながら、鞄を肩にかけ直した。
二人は再び車に乗り込み、徳島市街へと戻っていった。まだ夕方には早い時間だったが、『豆八』のある路地に近づくと、すでに遠くから、只事ではない喧騒が聞こえてくる。
「うわ、もうこんなに……」
車を降りた美藍は、慣れた様子で頷いた。
いつもは小さな店構えの『豆八』の前に、この日も長い行列ができていた。緑色の日除けテントの下だけでは収まりきらず、店の外にまで人が溢れ、赤いコカ・コーラの琺瑯看板の周りにまで、待ちきれない客たちがひしめき合っている。よく見ると、行列の多くは浴衣や法被姿の日本人観光客に混じって、明らかに海外から来たとおぼしき外国人グループの姿も目立った。
「Excuse me, is this the line for okonomiyaki?」
店先で困り顔をしている外国人カップルに気づき、美藍はすかさず駆け寄った。
「Yes, this is the line! It'll take about twenty minutes, but it's totally worth the wait!」
流暢とまではいかないが、はきはきとした英語で答える美藍に、外国人カップルはほっとした様子で笑顔を見せた。
「Oh, thank you! Are you working here?」
「Yes, I'm a part-time staff here. If you have any questions about the menu, feel free to ask me!」
「名方さん、うちの店、阿波おどりシーズンは毎年こんな感じなんです。外国からのお客さんも本当に増えてて。私、一応、学部の頃に英会話サークル入ってたので、たまにこうやって通訳がわりに駆り出されるんですよ」
美藍はそう説明しながら、慣れた様子で行列の整理を始めた。紺色の暖簾の隙間からは、もうもうと湯気と煙が立ち上り、鉄板の焼ける音と、大将の怒鳴るような声が漏れ聞こえてくる。
「美藍ちゃーん! 来てくれたか、助かったー!」
店の奥から、大将の悲鳴のような声が響いてくる。
「行くぞ、美藍ちゃん!」
「はい! ちょっと待っててくださいね、すぐ対応しますから!」
美藍は最後にもう一度、行列の外国人観光客たちに笑顔で声をかけると、エプロンを締め直しながら、『豆八』の中へと飛び込んでいった。




