第15話:警告
駐車場に戻ると、美藍は助手席に、名方は運転席に乗り込んだ。エンジンをかけ、車を出そうとした、その時だった。
コンコン。
後部座席の窓を、何かが軽く叩く音がした。
「ハッ……!」
美藍は思わず大きな声を漏らし、びくりと身体を強張らせた。振り返ると、窓の外に、いつの間にか一人の老婆が立っていた。
さっきまで――いや、駐車場に着いた時から、そんな人影は確かになかったはずだ。腰の曲がった小柄な老婆は、日に焼けた顔に深い皺を刻み、藍染めらしき古い野良着を身につけている。その目だけが、やけに澄んで、二人の顔をじっと見つめていた。
「な……! 何か……」
名方も驚いた様子で、慌てて窓を開けた。
「気をつけるんじゃぞ」
老婆は前置きもなく、しゃがれた声でそう言った。
「はい? 何が……」
美藍が戸惑いながら聞き返すと、老婆はゆっくりと、境内の方角――今しがた二人が下りてきた石段の上を指し示した。
「蝉が鳴き止んだでな」
「えっ」
美藍の背筋に、冷たいものが走った。あの、境内の中でだけ聞こえなくなった蝉の声。まさか、この老婆はそれを知っている――いや、知っていて当然だと言わんばかりの口ぶりだった。
「お主らは、受け入れられたんじゃ」
「受け入れられた……? 何にですか?」
美藍は思わず身を乗り出したが、老婆はそれには答えず、ただ皺だらけの顔に、微かな笑みとも、憂いともつかない表情を浮かべるだけだった。
「だから、気をつけるようにの」
それだけ言うと、老婆は踵を返し、木々の陰へと消えるように歩き去っていった。腰の曲がった後ろ姿が、あっという間に緑の茂みに紛れて見えなくなる。
車内には、しばらくの間、重い沈黙が漂っていた。
「……名方さん、今の」
「……ああ」
名方はしばらく黙ったまま、老婆が消えていった木々の方角を見つめていた。
「地元の人、ですかね。それとも……」
「分からん。だが、少なくとも、俺はこの神社に何十回と来てるが、あんな婆さんは見たことがない」
美藍はシートに深く身を沈め、両腕で自分の身体を抱くようにした。
「気をつけろって……。何に、気をつければいいんでしょう」
「さあな。だが」
名方はエンジンをかけ直しながら、硬い声で続けた。
「昨日からの黒いセダン、教授の態度、そして今の婆さんの言葉。……偶然が重なりすぎてる」
車はゆっくりと駐車場を出て、山道を下り始めた。バックミラーに映る神社の入り口は、木々に覆われ、あっという間に見えなくなっていく。
美藍は窓の外を見つめながら、老婆の最後の言葉を、頭の中で何度も反芻していた。
(受け入れられた……。一体、何に……)
蝉の声は、もうすっかり元の賑やかさを取り戻していたが、美藍の心の中には、言いようのない不穏な余韻だけが、いつまでも残り続けていた。
しばらく無言のまま車を走らせていた名方だったが、麓の道に出たあたりで、ふと空気を変えるように口を開いた。
「なあ、美藍ちゃん」
「はい?」
「さっき、拝殿で手ぇ合わせてただろう。……お前さん、何を願った?」
不意打ちのような質問に、美藍は一瞬、言葉に詰まった。
「え……。言うんですか、それ」
「言いたくなきゃ別にいいが」
「いや、普通は言わないもんなんじゃ……。願い事って、口に出したら叶わなくなるっていうか」
「ほう、そんな迷信気にするタイプだったか、お前さん」
名方はニヤニヤしながらハンドルを握っている。美藍はしばらく口ごもっていたが、やがて観念したように、ため息をついた。
「……まさか、恋愛成就でもなかろうって顔してますよね、今」
「え、違うのか」
「はあ!? 違いますよ! 何でそうなるんですか!」
「いや、女子大生が神社で願い事っていったら、まずそっち系だろうと思ってな」
「ホントに、そう思ってました?」
「まあ、半分くらいはな」
美藍はムッとした顔をしながら、頬を膨らませた。
「違いますよ、全然。……邪馬台国四国説を、教授にわからせますようにって。それだけです」
「……そうか」
名方は前を見たまま、少しだけ口元を緩めた。
「相変わらず、ブレないな、お前さんは」
「当たり前じゃないですか。こんな状況になってまで、他に願うことなんてないですよ」
美藍は少し照れくさそうにそう言うと、話題を逸らすように、今度は自分から名方に尋ねた。
「な、名方さんは、何て願ったんですか」
「俺か?」
「まさか、恋愛成就じゃないでしょうね」
「おお、鋭いな。惜しい」
「え、まさか本当に――」
「冗談だ、莫迦」
名方は苦笑しながら、信号待ちで車を止めた。
「俺は……。お前さんが、納得いくまでこの説を突き詰められるように、ってとこかな。それと、三十年前の宿題に、ちゃんとケリをつけられるように、とも」
思いがけず真面目な答えが返ってきて、美藍は一瞬、何も言えなくなった。
「……名方さん」
「なんだ」
「柄にもなく、良いこと言いますね」
「うるさいな、たまにはな」
名方は少し照れたように鼻の頭を掻くと、信号が青に変わったのを合図に、再びアクセルを踏み込んだ。
車内に流れる空気は、先ほどまでの不穏な緊張から、どこか温かなものへと変わっていた。だが、美藍の心の奥底には、あの老婆の言葉――「気をつけるように」という一言だけが、まだ小さな棘のように残り続けていた。
車は吉野川沿いの道を、再び上流の集落を目指して走り出した。




