第14話:蝉時雨の石段
車を停めたのは、鬱蒼とした木々に囲まれた小さな駐車場だった。名方がエンジンを切ると、それまで車内に響いていたエアコンの音が消え、代わりにけたたましい蝉の声が一気に押し寄せてきた。
「うわ……。すごい声」
美藍は車を降りながら、思わず耳を塞ぎたくなるほどの音量に顔をしかめた。
神社の入り口には、素木造りの鳥居と、その奥へと続く長い石段が見えている。両脇には古い石灯籠が控え、苔むした石柱には「信徒中」の文字が刻まれていた。鳥居をくぐった瞬間、美藍はふと、まるで見えない壁を越えたかのような感覚を覚えた。
「気のせいかもしれませんけど……。鳥居の外と中で、空気が違う気がします」
「気のせいじゃないさ。ここは古くからの聖域だ。空気が変わって当然だろう」
名方は涼しい顔で答えると、石段を登り始めた。美藍もその後を追う。
石段は思いのほか長く、両脇には樹齢を重ねた巨木が枝を伸ばし、日差しを遮るように鬱蒼とした緑のトンネルを作り出していた。一段一段、上へと進むごとに、蝉の合唱はいっそう激しさを増していく。
「ミーンミンミンミン……ジジジジジ……」
無数の蝉の声が重なり合い、もはや一つ一つの鳴き声を聞き分けることもできないほどの、分厚い音の壁となって境内全体を包み込んでいる。まるで、この先へ進む者を試すかのような、あるいは何かを警告するかのような、圧倒的な音量だった。
「な、名方さん……。これ、蝉の声にしては、ちょっと異常じゃないですか?」
美藍は額の汗を拭いながら、半分冗談、半分本気でそう漏らした。
「毎年、この時期はこんなもんだろう。まあ、確かに、今日は心なしか、いつもより騒がしい気もするな」
名方も苦笑しながら、石段を登り続ける。
美藍は石段の途中で一度足を止め、振り返った。眼下には、緑の樹海の向こうに、徳島の平野が広がっているのが見える。だが、視線を上げれば、うっそうと生い茂る木々が、まるで境内を外界から隔絶するかのように、深い影を落としていた。
(何だろう、この感じ……。子供の頃に来た時は、ただの神社だとしか思わなかったのに)
蝉の声はさらに大きくなり、耳の奥にまで響いてくるようだった。美藍は無意識のうちに、鞄の中の風呂敷包み――昨日名方から一時的に返された古文書の写し――を、ぎゅっと抱きしめるように持ち直した。
「行くぞ、美藍ちゃん」
名方の声に、美藍は我に返り、再び石段を登り始めた。
一段、また一段。石段を登るごとに、蝉の声はまるで境内そのものが発する唸り声のように、二人を包み込んでいった。
石段を登り切ると、木漏れ日の差し込む境内が開けた。正面には、堂々とした唐破風の屋根を持つ拝殿が、静かに佇んでいる。両脇には苔むした狛犬が控え、注連縄からは白い紙垂がいくつも下がり、風もないのにかすかに揺れていた。二人は拝殿に向かって手を合わせ、しばしの間、頭を垂れた。
「よし。それじゃあ、奥の院に行くか」
「奥の院……。あの、古墳跡があるっていう場所ですよね」
「ああ。表の拝殿はよく観光客も来るが、奥まで足を延ばす人間は、実はそう多くない」
名方は拝殿の脇にある、細い山道を指し示した。踏み固められただけの、案内板もほとんどない、地元の人間しか知らないような道だった。
「行くぞ。足元、気をつけろよ」
二人は境内の裏手から、さらに山の奥へと分け入っていった。石段とは違い、こちらは剥き出しの土と木の根が絡み合う、険しい山道だった。蝉の声は相変わらず激しく、時折、名も知らぬ鳥の鳴き声が、その合間を縫うように響いてくる。
二分ほど登っただろうか。木々の間から、ふいに開けた場所に出た。
そこには、青みがかった結晶片岩を積み上げて作られた、正五角形の基壇のような石組みがあった。その中央には、扁平な一枚岩を屋根のように載せた、小さな石の祠がひっそりと据えられている。長い年月を経て苔むしてはいるものの、その規則的な石の積み方は、自然に形成されたものとは到底思えない、明確な人為的意図を感じさせた。
「……これが」
美藍は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「これが、卑弥呼の墓とも言われる磐座だ。正式には『八倉比売古墳』とか呼ばれてるが……。実際のところ、誰の墓なのか、はっきりしたことは分かっていない」
名方は基壇の周りをゆっくりと歩きながら、静かに言った。
美藍はしゃがみ込み、石の表面にそっと触れた。ひんやりとした岩の感触が、指先から伝わってくる。
「子供の頃、家族でここに来た時は……。ただ、変わった形の石だなって、それだけしか思わなかったんです」
「今は、どう見える?」
名方の問いに、美藍はしばらく黙り込んだまま、基壇の輪郭を目で追い続けた。
蝉の声が、ここでもなお激しく降り注いでいる。まるで、この場所に眠る何かを守るように、あるいは近づく者を威嚇するように。
美藍の脳裏に、これまでに見聞きしたあらゆる情報の断片が、ゆっくりと像を結び始めていた。忌部教授の研究室で見た洋書のタイトル。磐境神明神社の幕屋との一致。そして、名方が語った三段構えの防衛ライン。
「……五角形の基壇の上に、小さな祠……」
美藍はぽつりと呟いた。
「まるで、何重にも石を積んで囲んでるみたいです。しかも、この場所自体が、山の斜面の奥深く、意図的に人目につきにくい場所に作られてる。下界からは完全に隔絶されてて、蝉の声だけが、まるでこの場所を包み込む結界みたいに鳴り響いてる……」
「まるで、外の世界と切り離すためのようにか」
「はい。……何かを、封じ込めるための」
美藍の声が、自分でも驚くほど真剣なトーンを帯びていた。いつもの早口のオタクトークではない、もっと静かで、確信めいた響きだった。
名方はそんな美藍の様子を、黙って見守っていた。
風が一瞬、木々の梢を揺らした。蝉の声が、ほんの一瞬だけ、途切れたように感じられた。
その静寂の中で、美藍は石の祠を見つめながら、小さく呟いた。
「名方さん……。ここ、本当に卑弥呼のお墓なんでしょうか。それとも――」
言葉を切った美藍の視線の先で、石積みの隙間から、一匹の蝉が力尽きたように、ぽとりと地面に落ちた。
「……そろそろ、行くか」
名方が静かに口を開いた。美藍は名残惜しそうに、もう一度石の祠を見つめてから頷いた。
「はい……。何だか、答えの出ない宿題を残してきたみたいな気分ですけど」
「その宿題は、剣山まで持ち越しでいいさ」
二人は来た道を引き返し、山道を下り始めた。
石段を下るにつれ、美藍はふと、あることに気がついた。
(あれ……?)
先ほどまで耳が痛くなるほど激しく鳴り響いていた蝉の声が、いつの間にか、ほとんど聞こえなくなっていた。
「名方さん……。蝉の声、いつの間にか静かになってません?」
「……ん? ああ、確かに」
名方も足を止め、周囲に耳を澄ませた。木々のざわめきと、遠くの鳥の声がかすかに聞こえるだけで、あれほど分厚かった蝉の合唱は、まるで嘘のように消え去っている。
「気温のせいか、それとも……」
美藍は振り返り、今登ってきたばかりの石段の上――木々の陰に隠れて、もう見えなくなった奥の院の方角を見つめた。
言いようのない違和感が、背筋をすっと撫でていく。
「……行きましょう、名方さん」
美藍はそう言うと、逃げるように石段を下り始めた。名方もまた、何かを振り切るように、その後を追った。
素木の鳥居をくぐり、駐車場に戻る頃には、蝉の声はすっかり元の――いや、それ以上の賑やかさで、辺り一帯に鳴り響いていた。まるで、あの境内の中だけが、別の時間の中にあったかのように。




