25
約一年ぶりに実家へと戻ったララウィンを出迎えたのは、腹違いの妹の罵声だった。
「アンタのせいで! 帰ってきてんじゃないわよ、この疫病神!」
怒りで逆立ちそうなダークレッドの髪。剣呑な瞳の色はヘーゼル。ひとつ下のこの妹は、メルリリ・アートブレスという名前だ。
発育の差なのか、年下ながら彼女の身長はわずかにララウィンを越えている。
学校に入学する前は自分の方が勝っていたのに、とララウィンは少しおもしろくない気持ちになった。
「なんとか言ったらどうなの!? 謝罪くらいしなさいよ!」
「……わたし、お父様に挨拶しに来ただけだから。お父様はどこ?」
控えている老齢の執事に問うと、彼が「旦那様は——」と口を開いた瞬間に、メルリリが「ふざけないで!」と被せた。
「アンタなんかに構ってる暇、お父様にあるわけないでしょう! どうせろくな話もないくせに! さっさと出て行きなさい! ——出て行けってば!」
「やかましいぞ。屋敷内とはいえ、はしたない真似をするな」
低い、重圧のある声が響いた。メルリリが弾かれたように背後を振り返る。
騒がしさで気づいたのか、父親と——血の繋がりはないが戸籍上は一応母親となっている夫人が階段を下りてきていた。
階上には、こちらの様子をうかがうように腹違いの兄も立っている。彼の目と髪はメルリリと同じ色。ララウィンがララウィンの実母に似たのと同じように、彼らもまた彼らの実母によく似ている。
父親とその妻。さらにララウィンと兄妹の計五人。珍しいことに、家族の揃い踏みだ。
「メルリリを黙らせておけ」
父親が夫人に目配せをする。夫人は嫌そうに片眉をあげたが、なにも言わずにメルリリのもとへと歩み寄った。
代わりに父親は、ララウィンの隣まで近づいてくる。
「よく帰った、ララ。お前の優秀さは、理事長からも伝え聞いている。なにやら黄金世代とまで言われている学年らしいな? もし主席から陥落してしまっても責めないでやってほしいと釘を刺されたくらいだというのに……どうも、理事長殿の杞憂だったらしい。さすがは我が娘だ」
満足げに喋る父親——彼は、メルリリと夫人が睨んできていることに気づいていないのだろうか。それともあえて無視しているのだろうか。
あえてなのだとしたら、賢くないやり方のような気がする。
案の定、我慢ならなくなったのか、メルリリが夫人を押しのけてまで口を挟んできた。
「なんでそんなやつを褒めるの! ちゃんと見てよ、お父様! そいつ、化粧なんかしてるじゃない! 色気づいて、なんのために学校に行かせてやってると——」
「それはお前が口にすることじゃないな、メルリリ。入学資格を得たとはいえ、ノーラインの身の上で」
『はっ。ノーラインかよ』
やめて——とララウィンは心のなかで、ムードに届かない制止をかける。ムードがいくら馬鹿にしても父親やメルリリには悟られないだろうが、ララウィンはつられて笑ってしまいそうになるのだ。
——無理してわたしと同じ学校を受験しなくてもよかったのに。
必死に唇の裏を噛んで堪えていると、「だって!」とメルリリが涙のにじむ声をあげた。
「お父様、新しい杖を買ってくれなかったじゃない! 友達はみんな新しい杖だった! そんな状態で試験なんて……おさがりなんてひどい! なんでわたしだけ!」
娘の訴えを、父親は「はあ」とため息で流す。
「ララは私の古い杖で主席合格だ。いまの杖は、その褒美に買ってやった物。試験の条件に差はない。お前の結果は、ただの実力不足だ」
「ちがう! ちがうちがうちがう! わたし、知ってるもの! こいつの杖は、お父様の私財のほとんどを食い尽くしたんでしょう! 二年連続でそんな大金動かせない! だから、こいつのせいで、こいつさえいなければ、試験前にわたしは新しい杖を——」
ララウィンはちらりと自分の杖に視線を向ける。
値段など気にしたことがなかった。公爵家当主の私財がそんなに減っていることも知らなかった。興味がなかった。
「いい加減にしろ、杖ひとつでいつまでも。お前にはドレスも宝石も要求されるままに買い与えてやっただろう」
「こいつだってドレスは持ってるじゃない!」
「ララのドレスは最低限のものを私が勝手に用意しただけだ。ララが望んだものは、この杖のみ。この子の謙虚さを見習え」
「わたしがちゃんとした娘なのに! そんな偽物ばっかり……お父様なんて嫌い!!」
捨て台詞を吐いたメルリリは、その勢いのまま走り去って行った。
その背を無感動に眺める父親を夫人が睨み、彼女もメルリリのあとを追って去ってしまう。父親は、その夫人の行動にすら興味がなさそうだ。
「ロロ」
父親が、ずっと階上にいた兄へと呼びかける。
「聞いていただろう。ララウィンは非常に優れた結果を持ち帰ってくれた。お前も兄として鼻が高いだろう」
「……そうですね。がんばったな、ララウィン」
兄の目が、まっすぐララウィンを見たことはない。いまもそうだ。ぎこちない労いを受け取って、ララウィンは「うん」とだけ返す。
「ララ。ロロは騎士養成校を、見事首席で卒業した。この私の苦手分野を、ちょうどロロが埋めてくれることだろう。後継としてこれほど頼もしいことはない」
「……おめでとう、ロロウィン」
ララウィンはまっすぐに見つめて告げたが、兄からの返事は「ああ」だけだった。
そんな兄妹らしくもないやり取りに、父親だけがご機嫌にうんうんと頷いている。
「さあ、ロロは私の執務室に来なさい。いくつか簡単な仕事を任せてみよう」
「……はい」
「ララはいつも通り、別邸に行きなさい。掃除は済ませてある。あとで私も行くから、そのときにゆっくり学校生活を語っておくれ」
「……わかった」
兄が父親のことをどう思っているのか、ララウィンのことをどう思っているのかは知らない。
ララウィンは彼のことをべつになんとも思っていない。毒にも薬にもならない、いてもいなくても関係ない人間だ。
ただ、欲を言うのなら、ジージャみたいなお兄ちゃんだったらよかったのに、と。
もっとわかりやすく褒めるとか、遠慮なく頭を撫でてくるとか、ちゃんと欲しいものをお祝いとしてプレゼントしてくれるとか。
そういう人だったなら——きっと血縁のなかで唯一、親しみを覚えることもできたと思うのだ。
◇
父親、夫人、兄、妹。その四人は、同じ建物のなかに自室を持っている。
けれど、ララウィンは別邸——馬車で移動するような広い庭の片隅にある建物のなかに、自室を持っていた。
常駐している使用人はいない。別邸自体、ララウィン用の食事などを持ち込むために、日に一度人が出入りする程度だ。それもララウィンが学校に行ってからは、ゼロになってしまっていたことだろう。
「ふーん。本当に掃除は済ませたみたいだな。使う予定のない部屋まで……ご苦労なことだ」
だれもいないのをいいことに、のびのびと人の姿をとったムードが、扉を閉める。そこはララウィンが自室にしている部屋の隣だった。
「ムードが使いたいなら、使ってもいいわよ」
「用事があるたび、いちいち移動しろって? そんな面倒は御免だ」
ムードは勝手知ったる様子で、ララウィンの自室を開け放つ。
彼のあとに続いて入室したララウィンは、ぐるりとあたりを見渡して、ほっと息をついた。
「よかった。変わってない」
ベッドの位置、デスクの位置。カーテンの色、本の並び。どれも出て行ったときのままだ。
トランクケースを床に置き、ララウィンはベッドに腰かける。
荷解きらしい荷解きはしない予定だ。なにせ、私物のほとんどは寮に置いてきている。贈ってもらった物や、モルモのお金を借りて買った物——なくしたり壊れたりしたら困る物はとくに、だ。
ケースの中身のほとんどは、休暇中の課題で使う本やレポート用紙、最低限のスキンケア用品くらいなので、都度取り出して都度仕舞うだけでも十分なのである。
「先に着替えた方がいいんじゃないか?」
「え?」
ムードに言われて、ララウィンは首を傾げる。
寮を出てから移動する道中、そしていまに至るまでララウィンはいつも通りの制服を着用していた。
外着のままベッドに座るなという意味だろうか。しかし、寮ではそんな細かいことなんて言わなかったのに。
いまいち意図を飲み込めないララウィンを、ムードがじとりと見据えてくる。
「あの父親、あとで行くって言ってただろ。制服、大切なんじゃないのか?」
「あ……」
ようやく得心がいった。そういう意味か。
たしかに、どうなったって構わない服装でいるべきだ。
「ありがとう。久しぶりで、ちょっと気が抜けてたかも」
「杖もこっちに置いておくぞ。父親が来たら、オレは杖の横にいるから」
「うん」
ムードがデスクに杖を立てかけるのを見ながら、ララウィンはクローゼットを開けた。
ドレス、ドレス、ドレス——相変わらずドレスしか入っていない。見たことがないドレスもある。とりあえずララウィンは、新しい赤色のドレスを手に取って着替えた。
「ムード、ファスナーあげて?」
「はいはい」
ムードの指が背中から首まで動いたのを確認してから、ララウィンは鏡の前に立つ。
……もう少し、胸が豊かな方が似合いそうなドレスだ。けれど、べつに見る人間はあの父親だけなのだからこれでいいか、とララウィンは改めてベッドに座った。
「なんか……もう学校が恋しい」
「奇遇だな、オレも同意見だ。とはいえ、学校じゃなくとも、ここ以外ならどこだって構わないが」
「それもそうね」
「——ああ、ほら。ここを厭う元凶が来たぞ」
言いながらムードの姿がぬいぐるみへと変化する。そして、デスクの上——杖に寄りかかるように座った。
間髪を入れず、扉がノックされる。
本当はそんなこと一ミリだってしたくないが、仕方なしに扉を開けて、相手を迎え入れる。
「いらっしゃい、お父様」
「ああ」
「どれくらい、ここにいられるの?」
扉を閉めるのもおざなりに、ララウィンはそう問いかける。
それを父親は、すぐに帰ってしまわないか不安になっている、と受け取ったらしい。「心配するな」なんて見当違いなことを言ってくる。
「急ぎの仕事はない。細かいものもすべてロロに任せてきた。明日の朝までは戻らずとも問題ない」
「……そう」
「それより」
父親の視線が、嫌な含みを持ってララウィンの体をなぞった。
「少しばかり丸くなったか? 母親に似てきた」
「……自分ではあまりわからないけど」
ララウィンは己の体を見下ろしてみるが、そこまで変化があったようには思えない。むしろ直近は試験のストレスのせいで、一時期より痩せてしまったくらいだ。
「後期の始まりくらいは、もっと丸かったかも。友達に三食しっかり食べるように促されるし、お菓子もよくもらうから」
「ほう、友達か」
父親がベッドに腰を下ろす。
ひどく不愉快ではあったが、魔術師の父はいまローブを着て、杖を握っている。ララウィンは目を細めるだけに留めた。
「それは男か?」
「女の子も男の子もどっちも」
「男の方はどこの家の馬鹿だ? 軽々に触れていい娘ではないのだがな」
「どこの家っていうか……王太子とその取り巻き」
ララウィンはあえて突き放した表現をした。
「派閥がどうのって言ってくるけど、よくわからないって答えてる」
「なるほど、別方面の面倒事か。それでいい。ふたりきりにはなるなよ」
「うん」
案の定、セストセールたちのことにはほとんど触れないまま話が終わった。
友人関係であることに加えて、派閥的な意味でも仲良くしていくつもりだということを知られると厄介だ。隠せるところまでは隠すべきだろう。
「さて」
父親がララウィンの腕を引いた。ララウィンの膝がベッドに乗り上げると、次は肩を押されて仰向けに転がってしまう。
——いよいよか。
ララウィンは心を冷たくした。
「この一年、どれほどお前を待ちわびていたことか」
ララウィンの肩を押さえたまま、父親が上から顔をのぞき込んでくる。
そっとララウィンが目を逸らすと、ムードと己の杖が視界に入った。ムードが微かに、頷くような動きをする。
父親の手が肩から胸へと撫で下ろされる。そしてもう片方の手がスカートの裾をめくりあげ、ララウィンの素肌——脚に触れた。
「お父様。指輪、冷たい」
そう言った瞬間、父親の手が脚から離れる。
「ああ、すまない。お前はこれが嫌いだったな」
父親の指には、三つの指輪が嵌っている。アートブレス家の家紋が入った当主の指輪、夫人との結婚指輪、そして防護魔術が付与された指輪だ。
父親はなぜか、ララウィンが夫人との結婚指輪を目の敵にしていると思っている節がある。
それを肯定したことはないのだが、否定するつもりもない。都合がいいからだ。
父親は一度体を起こし、ローブ——こちらも防護魔術のかかっているものだ——を脱ぎ、ベッドサイドのテーブルに放る。すでにそこに立てかけられていた父親の杖が、少しだけ揺れた。
それから今度は、指輪を三つとも外し、ローブの上に置く。
最後にシャツのボタンを外して首元を緩めてから、改めてララウィンに覆いかぶさってきた。
——みんなもこれくらい間抜けだったら簡単なのに。
すべてをきっちり見届けたララウィンは、うっすらと微笑む。
それを父親がどう解釈したのかは知らない。
頬に伸ばされた手に、ララウィンも手を重ねる。微笑むララウィンの目と、だらしのない父親の目が、しっかりと合わさった。
——ここまで条件がそろえば十分だ。
杖も防護魔術の装備も遠い。ララウィンの素肌に接触している。ララウィンと見つめ合っている。
父親は凄腕の魔術師であるらしいが——いや、だからこそ、だろうか。いくら主席だなんだと褒めたたえようとも、杖を手にしていないときのララウィンのことを、きっと侮っているのだ。
魔術で害されるわけがない、と。
「オッ」
言葉にならぬ声をあげて、父親の目がぐるりと回った。
ララウィンはそれを確認してから、父親の手を払いのける。
「邪魔。ベッドから下りて」
「——カシコマリ、マシタ」
たどたどしく返事をした父親が、ララウィンの言った通りに動く。
これこそが、幼いララウィンが真っ先に開発した魔術にして、現在習得しているなかで最高難易度の魔術——籠絡魔術である。
人間を手懐け、従わせる——もちろんそんな強力な魔術は、本来杖なしでほいほい使えるものではない。ただ、ララウィンたちには秘策があるのだ。
実は、命が繋がっている影響か、ムードが杖に触れていればララウィンも杖の恩恵を受けることができるのである。
他者は再現不可能なこの芸当により、父親の油断を幾度も誘うことができ、こうして支配することができている。
……とはいえ強力すぎる故に、杖の恩恵があってもそうそう成功する魔術ではない。
相手が杖を持っていないこと、防護魔術の影響下にないことが最低条件で、身体接触面が多く、目をきちんと見ることができていて、かつ好意を持たれているとよりよい効果を得られる——というのが経験則。条件が最高潮に整っていると、父親以外——悪魔のムードすら支配下に置けるのは、ムード了承のもと実証済みだ。
ぴょん、とデスクから跳び下りたムードが人型になる。そして、父親を指さした。
「四つん這いになれ。そのあとは動くな」
「ハイ」
すぐさま父親は、その場に膝と手をつく。それを鼻で嗤ったムードは、遠慮なしにその背中に座った。
この魔術がかかった相手は、ララウィンだけでなくムードの言うことも聞くようになるのだ。だからこうなった状態の父親を、ムードはよくオモチャにして遊んでいる。
「お前も座るか?」
「いい。汚い」
体を起こしたララウィンは、ベッドから下りてドレスを軽く整える。
父親は、明日の朝まで本邸に戻らないつもりだった。ならば、少なくとも明日の朝まで別邸から出すわけにはいかない。
この間の記憶は父親には残らず、べつの記憶に差し替わっている。本邸に帰るころには、娘と楽しんだという充足感で満たされていることだろう。
けれど記憶は残らずとも、心の底に残るものはあるらしい。
たとえば、ララウィンに従いたくなる気持ち。ララウィンを喜ばせたいという気持ち。ララウィンの敵を嫌う気持ち。
どれもわずかな澱でしかないが、回数が増えるほど積み重なっていく。
父親はもう——どこまでが本来の自分か、わかっていないだろう。
公爵家当主としての威厳を保ち、仕事や魔術師としての役割もきっちり果たす。そういった父親本来の気質も、しっかり残ってはいる。だからこそ、周りの人間はだれも気づかない。
ただ単純に、外部にはいくらでも厳しくするくせに、かわいい娘には弱くて甘いだけの、よくいる『父親』に見えるだけだ。もちろん、そのかわいい娘はララウィンのことであって、ララウィンを敵視するメルリリのことは、もはや娘とすら認識していないだろうが。
——まあ、それはともかくとして。
ララウィンはデスクに向かい、自分の杖を手に取る。
父親がいるのは明日の朝まで。
それならそれでちょうどいい——生身の人間に試したい魔術が、たくさんあるのだ。
「お父様。死にそうになったら、ちゃんと自分で治癒魔術を使ってね?」
ララウィンが杖を向けると、父親は虚ろな眼差しのまま「ショウチ、イタシマシタ」と口を動かした。




