16
「おいしかった……」
ララウィンが今生でケーキを口にしたのは、初めてだった。
チョコレート細工の乗った、見目も日本で食べたことのあるものに劣らない、おいしいケーキ。朝と昼を抜いた空腹感があったせいか、より甘さが身に染みて、大満足のひと時であった。
「セスもミッドも、誘ってくれて本当にありがとう。とっても素敵なお店だったわ」
「ねー! 変に格式高いとこじゃなかったのも高ポイント! 嫌な顔されなかったもん!」
そう言いながらお腹をさするモルモは、その小さい体にどうやって収めたのか、ケーキを五ピースも食べていた。確実にホール半分以上は平らげたことになる。ここまでいくとたしかに、格式高い店では嫌な顔をされる可能性も否定できない。
「モルモってば……」「えへへー」と笑いあっていると、ミッドミンが安堵したように息を吐いた。
「喜んでもらえてよかったぁ……。な、泣きそう……」
「ふふ、寮に帰るまでは我慢しようね。……ララウィン、モルモ。私たちからもありがとう。ふたりが来てくれたおかげで、楽しい時間を過ごすことができたよ」
「あれっ、もう解散の雰囲気? せっかくお出かけしてるんだし、お散歩がてらほかのお店も見て回ろうよ」
「えっ! いいの!?」
大声をあげたのはミッドミンだ。彼の期待のこもった目が、ララウィンの方へと向けられる。
「わたしも賛成。このまま帰るのも、もったいないって思っていたところだもの」
「やったあ!」
喜色満面に飛び上がったミッドミンは、セストセールのくすくす笑いを聞いて、すぐに顔を赤らめる。
「ご、ごめん、はしゃぎすぎて……。ええと、それじゃあ……向こうの通りから見て回ろっか」
ララウィンはそれに頷き——自然とミッドミンの腕に手を添えた。行きはそうやってエスコートしてもらったから、とくになにも考えずに行動していた。
途端に、ミッドミンがびくっと肩を震わせる。
「あ……ダメだった?」
「そんなわけない! うう……ごめん、いちいち緊張しちゃって、変な反応しちゃう……」
「ううん。いきなり触られたらビックリするわよね。ちゃんと声をかければよかった」
そう言いながら、ミッドミンほどではないにしろ、ララウィンも内心で驚いていた。
まさかエスコートの申し出があるよりも先に、自分から触れに行くとは。エスコートされるのは当たり前——のような感覚になってしまっていたのだろうか。果たしてそれがいいことなのか悪いことなのかは、議論の余地がありそうだが。
『お前、どうせなら王太子の方に行けばよかったんじゃないか? さっき小娘にとられて不快に思っていただろ。王太子優先の方針にも合致したっていうのに、もったいない』
「でもエスコートで近くにいたおかげか、だいぶ自然体に近づいてきたんじゃない? この調子で成長して、ガンガンアピールできるようになれるといいね!」
ちょうど、ムードとモルモの声が重なった。頭に直接響くぶんムードの方に意識をとられて、モルモの言葉を聞き逃してしまう。
ミッドミンが焦ったように「モルモ!」と叫んだのははっきりとわかったが、流れがわからずララウィンは首を傾げた。
「ほら、あまり店の前に留まり続けても迷惑になるよ。歩きながら話そう」
セストセールに背を押され、ミッドミンが歩き出す。ミッドミンにエスコートされる形になっていたララウィンもつられて歩き出す。セストセールとモルモは、ララウィンたちのうしろに並ぶ形でついてくる。
——あれ? とララウィンは少しだけうしろを振り返った。
セストセールとモルモが、腕を組んでいないのだ。エスコートをしていないし、されていない。
もしや気づかぬうちに喧嘩でもしたのだろうかとも考えたが、ただ腕を組んでいないだけで、ふたりは「思ったんだけど、セスって結構甘いもの好き?」「好きだよ。モルモもスイーツのいい店を知っていたら、ぜひ教えてほしいな」と和やかに話している。
であれば、なぜ腕を組まないのだろうか。いや、ララウィンとしてはふたりが腕を組んでいない方が嬉しいのだが、しかし気になる。
どうやら、疑問に思っているのはララウィンだけのようで、ミッドミンは気にした様子もなく「ララウィン、なにか買いたいものとかある?」と尋ねてきた。
ララウィンは答えに悩むふりをして、さらに考える。
最初は組んだのに、次は組まない理由。……組む必要がなくなったから、とか? なら、最初に組む必要があったのはなぜかという話になって…………やはり、わからない。
結局ララウィンは、思考を切り替えることにした。いくら考えてもわからないことはある。
——仕方ない。ミッドミンから聞かれた『買いたいもの』を考えよう。
けれどララウィンが答える前に、モルモが「そうだ!」と声をあげた。
「あたし、香水を見に行ってみたくて! いい感じのお店って知ってる?」
「香水?」
ミッドミンが不思議そうに復唱する。
「いい感じって言われても、香水ってピンキリだからなぁ……」
「一応、伯爵令嬢が普段使いしてても変に思われない程度の、でも高すぎないやつがいい。パーティー用じゃなくて、学校でも使えそうなやつ」
「む、難しいこと言うね……。うーん、僕は学校じゃ使わないから、どんなのがいいか……。セスは使ってるよね?」
「使ってはいるけれど、モルモの言う条件には当てはまらないんじゃないかな」
「あー。もしかして、王室御用達ってやつ? たしかに欲しいのとはズレてるかも。ララウィンはどう? 気に入ってるブランドとか」
モルモに聞かれて、ララウィンは家で見たことがある香水瓶を思い出そうとした。
しかし、香水瓶に刻まれていたブランド名どころか、どんなにおいのものを使っていたのかさえすっかり忘れてしまっている。
ララウィンとムードの運命にも入学試験にも関係ないことだったので、さもありなんといった感じだ。
「わたし、あまり詳しくなくて。パーティーでも、用意されていたものを使っていただけだから」
ただ、いま現在のララウィンが香水に興味がないかというと、それは違う。
ララウィンは一瞬だけセストセールに視線をやってから、モルモに問いかけた。
「その……香水って、学校でも使った方がいいの? もしかして、ほかの女の子ってみんな使ってる……?」
「みんなってわけじゃないかな。でも、軽い香りのやつを使ってる子は、けっこう多めだと思うよ。だって、流行ってるからね!」
「……そうなの?」
流行り廃りに疎い自覚はあるが、それにしたって香水が流行っているというのは初耳だった。
セストセールやミッドミンも知らなかったようで、「へえ」「そうなんだ~」と相槌を打っている。
「まあ細かく言うと、香水っていうより恋のおまじないが流行ってるって感じだけど」
「恋のおまじない」
とても気になるワードだ。
ララウィンはもはや半分以上うしろに顔を向けながら歩く姿勢で、「もっと具体的に」と要求する。
「やっぱララウィンもこういうの好き? あのね、自分が普段使ってる香水を新品のハンカチにかけてプレゼントしたり、お手紙にかけて贈ったり、そういう使い方がいまのブームなの。わかる? たとえば、お手紙を開けたらふわっと香るの。あっ、あの子のにおいだ——ってなるの! きゃー!」
「なるほど……。お手紙を開けたらふわっと……」
「そう! これを気になってる男の子にすると、めでたく結ばれるっていうおまじない。ロマンチックだよね〜!」
うんうん、とララウィンは頷く。
ふわっと香るにおいで、自分のことを連想してもらう。なかなかの恋愛テクニックだ。
惜しむらくは、この話をセストセールとミッドミンも聞いていることだろうか。まったく同じ手を使ったら露骨すぎて、気を引くどころかドン引きされる可能性がある。
オルカルやジージャ相手になら——と一瞬頭をよぎるが、ララウィンは普段使いの香水なんて持っていない。
当分お披露目する機会のなさそうなテクニックだ——そんな考えを見透かしたように、モルモが高らかに言った。
「だから一緒に買お! 香水!」
「……モルモ、好きな人がいるの?」
「いないよ!」
「…………なのに、香水を買うの?」
「もー! こういうのは流行りに乗ってきゃっきゃするのが楽しいんじゃん。ねっ、ねっ、ララウィンも一緒に買って、一緒に学校で香水つけよ? あっ、ついでにララウィンのお洋服も見ようよ! 化粧品も!」
たしかに、洋服や化粧品は、ララウィンもほしいと思っている。なんなら香水よりも優先的に買うべきだろう。
しかしララウィンは目を逸らすように前を向いて、小さく口を動かした。
「わたし、お金が……」
ララウィンはお小遣いも仕送りももらっていない。いま持っている金銭は、実家の金庫からこっそりくすねてきたものだ。帳簿がずれていても諦めがつく程度の額だけを頂戴したのである。
本日のケーキとお茶代も、これを切り崩して捻出した。驚くほど高くついたわけではないが、学年終わりの長期休暇で帰省するまで新たな金銭を得られないララウィンにとって、すでに散財した一日となってしまっている。
ほしいものはたくさんある。オシャレもしたいし、本当はモルモのようにケーキを何個も食べたかった。
この国にバイトという概念があって、いわくつきの公爵令嬢であっても雇い入れてくれるような職場があればよかったのに。
いつの間にか、ララウィンの視線は下がっていた。前を向いていたつもりが、ワンピースの裾とパンプスばかりが視界に入っている。
「じゃあさ!」
そこへ、明るい声が切り込んできた。
軽やかな足音とともに、モルモがララウィンの前に立ち塞がる。
「あたしが出世払いで貸したげる。利子なしで超お得だよ!」
あまりにもあっさりと言われた言葉を、ララウィンはうまく飲み込めなかった。
「ここを首席で卒業なんてしたら、実家に頼らなくても十分なくらい稼げるようになるでしょ? そうなってから返してくれればいいし」
「そ、んな……」
「ついでに恩返し的な感じで、時々あたしのお願いを聞いてくれたり贔屓したりしてもらえれば万々歳。いわゆる先行投資みたいなもんだって。どうよ!」
足を止めたララウィンの眼前で胸を張るモルモは、本気も本気で言っているようだった。
「と……友達に、そんなこと……」
気が引けるというか、当たり前に困惑してしまったララウィンは、助けを求めるようにミッドミンとセストセールに目を向ける。
「お金の貸し借りは、友情が壊れるキッカケになるとも聞くし……軽々しく借りていいと思うなんて、僕は言えないなぁ……」
「けれど、王太子である私の前でそれを口にしたことは評価できるよ。利子なしで、稼げるようになってから返せばいい——その言葉を反故にすれば、モルモだけでなくハーティ家が私からの信頼を失うも同然だからね」
ふたりの——とくにセストセールの言葉を受けて、ララウィンはモルモへと視線を戻す。セストセールからここまで言われても、彼女は胸を張ったままだった。
「いいでしょう、いいでしょう。望むところだよ! セスが見届け人になってくれるなら、ララウィンも騙されてるかもなんて変な疑いを持たずに済むだろうし」
「でも……わたしにお金を貸しても、モルモにメリットなんて……」
「えー? メリットはさっき言ったじゃん。利子なしでお金を貸すのも本気なら、贔屓してほしいってのも本気。あたしが優しさだけで動く女の子じゃないって、ララウィンは知ってるでしょ? たっぷり恩に着せてあげる。利子はないけど、ないからこそ、あたしにいっぱい感謝して、あたしといっぱい仲良くしてよね!」
ぱちん、とモルモが完璧なウィンクを放った。
数秒呆けたあと、ララウィンは思わずくすりと笑ってしまう。
「モルモってば……はじめましてのとき、卒業まで仲良くしてくださいって言ってなかった? いまの話だと、卒業したあとも貸し借りのせいで関わることになりそうだけど」
「ふふふん。もちろん、それもコミコミでの発言のつもりだもん」
モルモがララウィンの腕——ミッドミンに触れていない、ムードを抱いている方の腕に抱きついた。そして踵をあげ、ララウィンの耳へと顔を寄せる。
「あたしに嫉妬してもいいけど、あたしを一番の友達でいさせてくれると嬉しいな。それくらいララウィンのこと好きになっちゃったし、ララウィンの才能を買ってるんだから」
ひっそりと囁かれた言葉は、ララウィンにしか聞こえなかったらしい。
『嫉妬』——三秒ほど間を空けてから慌ててミッドミンとセストセールを見たララウィンに、ふたりは首を傾げることしかしなかった。
そのことには安堵するが、しかし視線を戻した先のモルモはにまにまと笑っている。どうやら彼女は、セストセールにエスコートされるモルモを見てララウィンがもやもやしていたことに、気づいてしまっていたようだ。
それがわかれば、いまは腕を組んでいない理由も容易に想像できる。つまり、ララウィンと敵対するつもりはないというアピールなのだろう。
「さ、そうと決まればたくさんお買い物するぞー! 男子たちは荷物持ちよろしく!」
元気に歩き出したモルモに引っ張られ、ララウィンはミッドミンの腕から離れてしまう。
「どうやら、エスコート役はお役御免のようだね」
「ひ、ひどいよ、モルモ……。せっかくいい感じだったのに……」
セストセールとミッドミンの声も置き去りにして、モルモはどんどん進んでいく。
『だれを籠絡してるんだ、お前は……』
ため息まじりのぼやきは、モルモの「あのお店よさそう!」という叫びに埋もれてしまった。




