第12話「大国を背負う顔面国宝殿下に同情はしますが、我が首の防衛線を丸投げする理由にはなりませんわ」
深い闇が王宮の廊下に重く澱み、月明かりすら忌避して立ち入らないような静寂の刻。
私は王家の私室区域へ至る最奥、第一王子セオドール・アルヴェインが好んで使用する裏書斎の重厚な扉の前に立っていた。
深夜徘徊をとがめる近衛の巡回ルートは、わが優秀なる影の実務者によって十日前から徹底的に割り出されている。魔術的防壁が敷かれているような厳重な場所にはまだ近づけないが、彼が最近一人きりで『結界のもろいほころびと隠蔽処理の決裁』をしているこの薄暗い文書室の隙間なら、天界の加護という名のアナログ情報戦で容易に到達できるのだ。
(いくら強権で蓋をしたって、私が地道に足で稼いだ調査データのほうが一歩早いんだってこと、脳髄まで教え込んでやりますわ!)
脳内で法螺貝を高らかに吹き鳴らし、私は純白のショールを淑女らしく上品に整える。あくまで神に仕える清らかな聖女として、一切のよどみない動作で真鍮のドアノブへ手をかけた。
カチャリと冷ややかな金属音が響く。鍵はかかっていなかった。暗闇の奥、微細な魔石灯だけが頼りなく照らしている卓上の山が目に入る。
そこには、国を守護する孤高の第一王子殿下ご本人が、蝋人形のように顔色を失ったまま羽ペンを握って固まっていた。
「……何の真似だ、聖女」
扉が開いたことによる僅かな風が書類を揺らす中、彼はペンを止めずに私の名さえ呼んだ。視線をこちらへ寄越すことすらない。声には地吹雪を圧縮したような無慈悲な冷徹さが張り付いていた。
本来であれば、うら若い令嬢など一瞥で心臓を凍らせて這いつくばるほどの圧である。
「何の真似も。神より賜りし安らぎの微睡みの中、天の御導きが殿下の元へ足を踏み入れるようにと囁きましたのよ」
「この場に近衛を呼ばれなかっただけの僥倖に縋って、己の寝所へ引き返せ。神殿への報告期限を明日に延ばす手形なら昨日下ろしてあるはずだが」
「お優しいこと。ですが、わたくしのお望みは一時しのぎの手形ではございません」
一歩、また一歩と厚い絨毯を踏みしめる。王子の冷たい拒絶のオーラを全身に浴びて、私は足が勝手に裏返りそうになる恐怖を気合いだけで捩じ伏せた。
(ひえええ……目ぇ合わせてくれないこの完全拒絶スタイル、ガチの絶対零度じゃん! なになに? 私が少しでも結界の問題に首突っ込んだら自分が全部対処しなきゃならなくなるから、本能レベルで視界からシャットアウトしようとしてるワケ!? マジで防御壁こじらせ王子だな!)
内心では極太フォントで悲鳴を上げつつも、私の背筋には一本の鋼が通っている。先ほど、自室で整理した彼を取り巻く現状のピースたちだ。
私は王子の真正面にまで至り、彼の手元の羊皮紙を神聖なる慈悲の微笑みとともに静かに見下ろした。北の守備と魔石供給量のつじつまを合わせようとする、血を吐くような調整の跡だった。
「随分と独り善がりな防衛戦を敷かれておいでですね、セオドール殿下」
「……」
「北の兵の動き、治癒院に伏せられた見えない結界崩壊の痕。そのすべてをたった一人のお立場で押さえ込み、誰もが眠りにつく刻に黙々と火を消しに回るそのお姿。天が賞賛の賛美歌をお送りしそうですわ」
「……踏み越えるな。それは偽物のお前が語って許される政の秤ではない」
ピクリ、と。王子の手がようやく止まった。
初めてこちらを見上げた彼の黒水晶のような双眸に、殺気じみた鋭利な苛立ちが満ちる。しかしその苛立ちは、怒りというよりは己の手持ちの薄さを直視された痛みのようだった。
だが私は一歩も引かない。
「王妹殿下もお隠しになり、血に連なる者たちの名をも遠ざけた。あなたが抱え込んでいるのは玉座という巨大な機構のはずなのに、たった一つで全てを補おうとなさるなんて」
「やめろと言っている……!」
低く叩きつけられた怒声に、思わず肩がすくみそうになる。けれど彼の手を見下ろせば、私の言葉を封じ込めようと羊皮紙を押さえつけた指先は、まるで限界を超えた負荷をかけて骨のきしむような悲痛な力を帯びていた。
(ほーら来た。痛いところ全部突かれたから、怒りの衣で蓋をしようとするこのワンパターン。だめよ。今回ばかりは私、絶対にこの分厚すぎる仮面をカチ割るって決めたんですからね!)
「その脆弱な均衡の末に切り捨てる先が、たまたまご自身の視界の中にお邪魔していた哀れで何の役にも立たない”このわたくし”という生け贄でしたのね」
「――!」
「あなたは自分が何百万という民衆を導く正解を持たないことに震えていた。見えない危機に恐怖し暴走するかもしれない王都の群衆を前にして、誰かに事実を分担することすら怖かった。だから『無実かもしれないが肩書きだけの偽聖女』をたった一つの巨大な避雷針に据えて、黙って差し出すしかないと思っていらしたのですね」
彼自身の絶望の論理。彼が前の世界で、なぜ私を生かさず死に絶える処刑の壇上で泣くような顔をしていたかの真理だ。
冷徹に打算を尽くし、政治という大きな秤のために喜んで命を消費したのではない。
ただ単に、手の中に守るための武器がなかった。全方向から押し寄せる破綻を食い止めるために、背負ったものがデカすぎて一歩でも違う手順を踏めば崩落すると思い込まされていたからだ。
「……私の判断の及ぶことではない。神が導いた偽りの聖女という烙印を前にして、己一人で歴史を書き換えるほどの力を王族とて持ち合わせてはいないのだからな」
「持ち合わせていなくても、本当は庇おうとしていただければよかったのでは? ……ですが、庇ってしまえば今度はご自身への信用と大局の責任が揺らいでしまうと。だからただただ冷たくあしらい、嵐が私という人間ごとこの歪みを連れ去ってくれるよう天を仰いでいただけですわね!」
(あなた、要するに見捨てる勇気すら未完成で、運命の流弾で勝手に問題ごとぶっ飛んでくれって放置してただけでしょーが!! そうでしょ!?)
「違う!」
痛みを堪えきれなくなった獣の叫びのように、セオドールの口から荒い息が吐き出された。卓上の羽ペンが転がり、インクがぽたぽたと夜の闇へ血の雫のように滴り落ちる。
立ち上がった彼と、真正面から見合う。
王宮で誰よりも美しいとされる青年の相貌は、もはや端正な仮面をかなぐり捨てて無惨に歪んでいた。
「魔石盤だ……! 魔法塔の叩き出したあの忌々しい測定結果の前には、私が何を疑おうともお前の力を証明する事実が何一つ見当たらないんだ! 国の根本たる魔力を一切保有していないと判定が告げ、日ごと力ばかりが先細る姿を見せつけられて、私にどう庇い立てをしろというのか!!」
痛恨。悲壮。喉が裂けそうなほどの彼自身の後悔だった。
「私の目の前で……どれだけこの手が届きそうであっても、事実の前で崩れる者をこの手に留める手段など……。ならば最初から全てを見えない箱に閉じ込める他に何がある!」
あの一言を聞きたかったのではない。
だが、聞けた。
私の推測は間違いではなかった。王子殿下はずっとずっと、「自分が国を守れないかもしれない」恐怖の極限にいたのだ。結果を見せる魔石盤の前で自らを無力だと裁き下し、だから手短に守るべき命すら最初から手放すことで破滅から目を逸らそうとしていた。
――そして彼自身は何も救えていないと、あの血まみれの処刑台で自分の不格好さを死ぬほど悔やむのだ。
空気が凍てつくような裏書斎の中。
私は静かに瞼を伏せた。首もとの、チリチリと灼けるような死の直前の残滓がうずいている。彼が見殺しにしたという明確な痛み。あの時、「何かのために犠牲になった」ことだけを勝手に分かち合った気になって、絶望の中で彼はこちらを傍観していた。
痛いほど同情する。これほどの孤独を強いられながら笑っているだなんて狂気の沙汰だ。
だが……私は、深くゆっくりと首を振った。
「そのご慈悲深い後悔に、この場において最上級の祈りを捧げましょう。まこと哀れなる玉座の守護者」
開いた私の双眸に浮かべるのは、憐憫でも許しでもない。すべてを知ってしまったからこその、退路を断つ刃のような意思。
「ですが、お優しいあなたが自室の影で涙を呑んでいる間にも、神は残酷な宣告を取り消してはくださらない。あなたが手を持たずに遠ざけようとも、私が傷つき殺される結末への免罪符には微塵もならないということですわ」
(アンタの弱さは分かった! でもな! 私に自力で守れっていうその見えざる暴力ルールを甘んじて受ける気なんか、髪の毛一本分だってないのよ!!)
「な、に……」
意表を突かれたのか、私の真っ向からの拒絶に、王子の声が空回りした。
真実を知らしめて絆されたのだと彼が無意識で思っていたのだろうが、おとといきやがれというお話だ。知っていたら私のもとで傷を舐め合う都合のいい小娘でいるとでも思っているのなら大間違いだ。
「わたくしは、もうあなたの孤独に巻き込まれるお人形として退場など致しません。お言葉ですが、もう一度あなたの前で問われるような絶望のまな板になど立ってやる気はありませんの」
「馬鹿なことを言うな。私がどうしてこの暗闇の中で隠蔽していると――」
「ですから! そんなものもう用済みなのですよ!」
しんと冷たい部屋の空気を、私が言い放った確固たる光の言葉が蹴散らす。
私は卓の上で停止しているセオドールの指先を自らの手のひらで無造作に、だが力強く弾いてどかせた。王家の肌に直接触れたなどとバレれば即座に重罪だろうが、もうそんな小さな壁はどうでもよかった。
「庇う手が無いなら無いと、最初に私の顔を見て正直に教えてくださればよろしいでしょう。私はもう神の采配の下でおとなしく震える迷い子ではございません。庇護を持たぬというなら結構。……その絶望たる根本の大前提、すなわち、わたくしを問答無用で”力無き不要物”と仕立て上げたその仕組みそのものを、私自身の手で粉砕するまでです」
「リゼ……?」
「あなたの目を塞ぐ『魔石盤の測定結果』。よろしいですわ。それを私が天界まで丸ごと裏返してみせますから、あなたが国に祈ることでも精々ご思案あそばせ!」
(私が偽物っていうんなら、あの判定そのものがそもそも絶対的に腐り切ってるってこと!! そうよ! 元凶の中間処理は絶対にアソコにあるはず! まずは宮廷魔法使い様ご自慢のびっくり理系魔法アイテム・魔石盤とやらのメッキから丸裸に引っ剥がしてやる!!)
息を飲むセオドール殿下をその場に残し、私は優美な足取りでひるがえった。完璧なる角度でのターンを決め、そのまま白百合のような軌跡を残して裏書斎を後にする。
背中を向けるとき、たしかに彼の手が迷うように伸びかかった気配を感じたが、決して振り向きはしなかった。
私が欲しいのは、理解して共に落ち込んでくれる顔の良すぎる仲間なんかではない。このいけすかない生贄システムの構造を土台ごと引きずり降ろし、私自身がもう二度と「誰の罪もなく仕方がないね」などという言葉一つで処刑台の露と消え去らない強烈な真理だけだ。
「さあ、ご案内をお願いしますわよ、知識の番人様」
深い夜の渡り廊下に出た私の唇は、次の標的に向けて自然と好戦的な弧を描いていた。魔法塔で待つのは、理知と数字の化身たる男。私が避雷針にされるその絶対評価を下す装置を作った者だ。
(待ってなさい! この完璧聖女サマが、あんたらの隠してるクソみたいなトリックを証拠ごと解体してお腹痛くなるまで見せつけてやりますわ!!)
ただ身を委ねる時間を自ら終わらせた胸の内は、底なしの恐怖以上に、腹立たしいまでの希望の輝きに支配されていたのである。




