一段落
旧プロデューサーの捜索結果を「不在確認」として保存した翌日、三文演義の業務共有枠は、思ったより静かに運用され始めた。派手な宣言もなければ、誰かが涙ながらに方針を改めるような場面もない。ただ、個別DMで流れていた確認が共有チャンネルへ移り、返信に期限が付き、感情の相談と業務の相談が別の場所へ分けられ、深夜に勢いで決めそうな内容は一度置かれるようになった。新緑抹茶が入れた「一杯置く」は、茶を淹れる時間という意味ではなく、即決しないための冷却時間として採用された。最初は冗談みたいな項目だったが、夜中の連絡履歴を見る限り、むしろ一番効いていた。衝動で送られそうになった文面が、十分後には半分の長さになっている。感情は消えていない。だが、送る前に形が変わる。事故を防ぐには、それだけでも十分な差だった。
斎太はそのログを見ながら、キッチンでカレーのベースを冷ましていた。今日は鍋用の材料ではなく、玉ねぎと香辛料を弱めにした作り置きだった。完成したカレーではない。肉も野菜も後から入れる。味を決めきらない芯だけを作って、使う日に寄せる。最近この作業ばかりしている気がして、斎太は少しだけ嫌な顔をした。自分が料理でやっていることと、三文演義でやっていることが似てきている。完成品を渡すのではなく、後から事故らない形にしておく。便利ではあるが、気分はよくない。
アキは食卓でノートを開いていた。ベルは横で果物を切っている。常盤はデザートの皿へ手を伸ばそうとして、斎太の視線で戻した。伊行は、業務共有枠のログを見ながら、問題が起きそうな文面だけを別に抜き出している。家の中での相談は続いているが、昨日までのようにそれぞれ別方向へ流れてはいない。アキへ来る相談は、交際に進むかどうかではなく、今の自分の感情をどう扱うかに変わりつつある。ベルへ来る相談も、営業のためのテクニックというより、配信者として距離感をどう見せるかに寄っている。ベルはまだ純粋に信じるところがあるが、一度自分の言葉が燃料になったことを理解したせいで、前より少しだけ確認を挟むようになった。
「四人とも、落ち着いているように見えるわね」
ベルが果物を切りながら言った。斎太はカレーの鍋を混ぜ、火を止める。
「落ち着いたわけじゃない。手順が増えた」
「手順が増えると、落ち着いたように見えるの?」
「少なくとも、勢いだけでは進みにくくなる」
アキがノートから顔を上げた。
「その言い方で合っているわ。気持ちは残っている。恋をやめたわけでもない。ただ、本人の意思なのか、環境で押し出されたものなのか、確認する時間ができた」
常盤が今度は皿ではなくスプーンだけを持ち、何も乗っていない先端を見ながら言う。
「つまり、告白とか交際とかは一旦なし?」
「即交際はなし」
斎太が答える。
「でも、恋はなしじゃない。本人が本当に選んでるなら、理由があって、相手も受けられて、管理上事故らないなら手は貸す。そこは変えない」
伊行がログから目を離さずに言った。
「その条件、全員が満たすには時間がかかる」
「だからすぐ進めない」
「抹茶さんは急ぎそうだな」
「急ぐ。だから一杯置くが残った」
新緑抹茶の名前が出たところで、ベルが小さく笑った。本人が聞けば「茶を軽く扱うな」と怒りそうだが、実際、彼女の手順は効いている。選ぶことに遅れ続けた人間が、今度こそ選んだことにしたいと焦る。その焦りを、茶を淹れる時間へ一度逃がす。理屈としては歪だが、機能している。三文演義全体が今、そういうものの集合体になっていた。
昼過ぎ、新プロデューサーとの確認通話が入った。斎太はキッチンの片付けを終え、アキと一緒に部屋へ移動した。画面の向こうの新プロデューサーは、以前より少しだけ顔色がよかった。劇的に元気になったわけではない。疲れは残っている。ただ、目の動きが落ち着いている。抱えているものの総量は変わっていないが、どこへ置けばいいかが少し分かってきた人間の顔だった。
『業務共有枠、今のところ助かっています』
彼は最初にそう言った。
『個別の返信が減ったので、同じ説明を繰り返さなくてよくなりました。相談内容も整理されてから来るので、返答が短くても意味が膨らみにくいです。畏敬さんが作った分類表は、正直かなり使えます。榊さんの確認順も助かります。抹茶さんの一杯置くやつは、最初意味が分からなかったんですけど、深夜に決めない効果があります。天紫さんの文面整理も、感情が強い時に直接僕へ来ない形になっていて助かります』
「拘束されてる感じは」
斎太が聞くと、新プロデューサーは苦笑した。
『あります』
「そこは変わらないんだな」
『変わりません。ただ、今の拘束は、制作進行に近いです。締切、確認者、記録、共有フォルダ、修正履歴。そういうものとして扱える。以前の個別相談は、どこまでが仕事で、どこからが気持ちなのか分からなくなる瞬間がありました。今は、少なくとも仕事の置き場は分かります』
アキが静かに聞いた。
「感情の方は?」
新プロデューサーは少しだけ間を置いた。逃げる間ではない。言葉を選ぶ間だった。
『なくなってはいないと思います。僕がそれを受け止める立場ではない、という整理が始まっただけです』
「その整理を不満には思っていない?」
『不満より、安心の方が大きいです。好かれているかもしれないこと自体は、嬉しいと言えば嬉しいのかもしれません。でも、それを嬉しいものとして扱うと、すぐに危ない場所へ行くと思います。相手が高校生で、僕がプロデューサー側で、事務所も不安定なので』
斎太は画面を見た。少なくともこの人間は、今のところ調子に乗っていない。好意を報酬として抱え込むより先に、事故として見ている。だが、それでも安全とは言い切れない。追い込まれれば、人は正しい怖がり方をしていても流される。斎太はそこを、もう「大人だから大丈夫」と処理しない。
「四人が業務共有枠を恋愛の足場にし始めたら止める」
『はい』
「あなたが、四人の好意を制作環境として都合よく使い始めても止める」
新プロデューサーは、今度は少し強く頷いた。
『それもお願いします。自分では、都合よく使っているつもりがなくても、そうなっている可能性があるので』
「自分でそこまで言えるなら、今はまだ大丈夫だな」
アキが横から言った。
「今は、ね」
新プロデューサーは笑わなかった。
『はい。今は、です』
その返事はかなり良かった。大丈夫です、と言い切らなかった。今は、と自分で付けた。斎太はその一点だけ、かなり信用した。永続の自信より、期限付きの自己認識の方が安全だった。
夕方、四人との確認通話が開かれた。画面には朱木榊、碧野畏敬、新緑抹茶、菫天紫が並ぶ。前回より空気は落ち着いているが、軽くはない。四人とも、自分たちの感情が消えたわけではないことを分かっている。その上で、今すぐ交際へ進む話ではないことも理解している。榊は背筋を伸ばし、畏敬は資料を手元に置き、抹茶は本当に茶を淹れており、天紫はいつもより少し静かだった。
斎太は最初に言った。
「恋は否定しない。そこは変えない」
四人の視線が画面越しに集まる。
「ただ、今の状態では即交際に進めない。理由は四つ。本人の意思かどうか、環境による錯覚や依存が混ざっていないか、相手側が安全に受け止められるか、事務所として事故らないか。この四つが確認できていない」
畏敬がすぐに口を開いた。
『条件としては妥当ですわ。ただ、確認という言葉が長期保留の言い換えになる危険はあります』
「ある。だから無期限にはしない。定期的に見る。各自、自分の感情を新プロデューサー本人に処理させないこと。業務共有枠を恋愛戦術として使わないこと。新プロデューサーが好意を都合よく使っている気配があれば止めること。この三つは即時」
榊が頷いた。
『感情の相談は、本人に直接向けない。そこは守ります』
抹茶が湯呑みを置いた。
『でも、好きなものを好きと言えないまま長引くのは嫌』
「言うなとは言ってない。言う前に、自分が何を言おうとしてるか見ろって話」
『それが面倒』
「茶よりは面倒だろうな」
『茶も面倒』
「ならできる」
抹茶は不満そうに黙ったが、反論はしなかった。斎太はその反応を少しだけ安心して見た。彼女が不満を表に出せているうちは、まだ自分の形を保てている。選んだことにしたい焦りはあるが、黙って従うほど弱くはない。
天紫が静かに言った。
『もし、確認した上で、それでも恋だと思った場合は?』
「その時は手を貸す」
天紫は小さく息を吸った。
『本当に?』
「本当に。俺は恋愛を否定したいわけじゃない。むしろ、条件が揃ってるなら進めばいいと思ってる。付き合ってみないと分からないこともある。駄目なら別れることも含めて経験だと思ってる」
アキが画面外から、少しだけ咳払いをした。斎太は横目で見る。
「ただし、今回は普通の恋愛相談じゃない。相手はプロデューサー側で、あなたたちはタレントで、未成年もいる。事務所は前任逃亡と借金と買収の後始末の中にある。だから、経験だから失敗していい、だけでは扱えない」
天紫は頷いた。
『そこは、分かっています』
畏敬が資料に目を落としながら言った。
『新プロデューサー本人への感情を、本人に処理させない。これはかなり重要ですわね。私たちはそれぞれ、支える理由を持っています。でも、その理由を相手に承認させた瞬間、相手は断りづらくなります』
榊も続ける。
『守る側を守りたい気持ちが、守る側への負担になることがある。そこは、気をつけます』
抹茶は少し遅れて言った。
『選んだことにしたいからって、相手に選ばせるのは違うってことね』
天紫は最後に言った。
『失った場所を、相手で埋めようとしていないか。そこは、自分で見ます』
四人はそれぞれの言葉で、同じ線を引いた。斎太はその様子を見ながら、危ういと思った。同時に、強いとも思った。彼女たちは愚かではない。むしろ、かなり考えている。考えているからこそ、自分たちの恋を簡単に諦めない。そこを尊重しないと、この問題はただの大人の制圧になる。だが、尊重しすぎれば、そのまま泥船の上で感情だけが進んでいく。
「業務共有枠は続ける。名前は安全柵として扱う。外堀でも包囲でもない。落ちないための柵。逃げられないようにするものじゃない」
抹茶が小さく言う。
『でも柵があると逃げにくい』
「だから出入り口を作る。新プロデューサーが拒否できる場所。四人の誰かが休める場所。元個人勢三人か桜太が止められる場所。その三つを入れる」
畏敬がすぐにメモを取り始めた。
『拒否権と休止権、第三者停止権ですわね』
「言い方は硬いけど、それ」
榊が少しだけ微笑んだ。
『神社でも、入ってはいけない場所と、休む場所と、管理する人が必要です』
「そういう理解でいい」
天紫は静かに頷いた。
『戻れる場所にも、出口は必要ですね』
「必要。出口がない場所は、居場所じゃなくて囲い込みになる」
その言葉で、四人とも黙った。重い沈黙ではない。言葉が入る場所を探す沈黙だった。斎太は待った。ここで埋めない。彼女たちが自分たちの中で処理する時間がいる。
数秒後、抹茶が言った。
『一杯置く時間、出口にも使える?』
「使える」
『じゃあ、即返事禁止だけじゃなくて、即決退避にも使う。迷ったら一杯置く。戻ってもいいし、やめてもいい』
「採用」
畏敬が即座に書き込んだ。
『表に追加しますわ』
榊が言う。
『相談前の整理にも、休む選択を入れます。相談する、保留する、休む、第三者に回す。この四つ』
天紫が続けた。
『感情が強い時は、言葉を送る前に一度、自分宛てに書く形にします。相手に送る文ではなく、自分が何を感じているかを見る文として』
四人はまた動き始める。斎太はそれを止めなかった。動きが速い。速すぎることもある。だが、今はその速さが安全側へ向いている。恋愛戦術としての外堀ではなく、事故防止としての安全柵へ形が変わりつつある。歪みは残る。感情も残る。新プロデューサーへの好意も消えていない。それでも、昨日よりは沈みにくい。
通話の最後に、斎太は一つだけ確認した。
「今の段階で、新プロデューサーへ告白したい人」
四人は誰もすぐには答えなかった。しばらくして、榊が首を横に振る。
『今ではありません』
畏敬も言う。
『条件が揃っていませんわ』
抹茶は苦い顔をした。
『言いたい気持ちはある。でも今言うと、選んだことにしたいだけになる気がする』
天紫は目を伏せた。
『今言うと、たぶん預けすぎます』
斎太は頷いた。
「なら、今日はそれでいい」
通話が終わった後、部屋には少しだけ疲れが残った。アキは椅子に座り、斎太の横顔を見た。
「応援する気はあるのね」
「ある。条件が揃えばな」
「前より言葉が慎重になった」
「大人だから大丈夫、が使えなくなったからな」
アキは少し笑った。
「使えない方がいいわ」
「だな」
斎太は画面を閉じ、椅子の背にもたれた。四人は、今告白しないと言った。止められたからではない。少なくとも、それぞれが自分の言葉で、今ではない理由を出した。そこは大きい。恋は残っている。だが、即座に進む衝動は一度止まった。
夜、桜太と短く話した。旧プロデューサーは見つからない。アスリート共の捜索も一旦止める。元個人勢三人は、内部統制の警告役として残る。新プロデューサーは業務共有枠の中で経営を学び続ける。桜太は「仮の重し」として関わる。完璧ではない。だが、今の三文演義には重しが必要だった。上層が金を使い込み、前任が消え、残った人間だけで踏ん張っている箱は、放っておくと人間の熱だけで傾く。
「解決した顔をするなよ」
桜太が言った。
「してない」
「これは解決じゃない。沈まない形へ置いただけだ」
「分かってる」
「ならいい」
通話が切れる。斎太はしばらく暗い画面を見ていた。父に言われると腹は立つが、内容は正しい。三文演義の借金が消えたわけではない。旧プロデューサーが戻ったわけでもない。上層の使い込みで失われた信用が完全に戻ったわけでもない。四人の恋が綺麗に整理されたわけでもない。新プロデューサーが安全な大人として証明されたわけでもない。何も完全には終わっていない。
ただ、沈む速度は落ちた。
翌朝、斎太はまたキッチンに立った。鍋用の材料を確認し、昨日作ったカレーのベースを容器へ移し、パン生地の発酵具合を見る。アキが横に来て、何も言わずに袋を開いた。ベルは火加減を見て、常盤はデザートを狙い、伊行は皿を出す。家の動きはいつも通りに戻りつつあるが、完全には戻らない。三文演義の話題は、これからもしばらく家の中へ流れ込むだろう。けれど、流れ込んだ時に誰がどこで受けるかは、前より少しだけ決まっている。
スマホが震えた。業務共有枠に通知が入る。榊が相談前の整理項目を更新した。畏敬が返信テンプレートの注意書きを足した。抹茶が「一杯置く」に水でも可と追記した。天紫が感情メモ用のひな形を置いた。新プロデューサーが、それぞれに短く返している。
『確認しました。助かります。期限までに見ます』
斎太はその文面を見て、少しだけ笑った。
以前なら、誰かがその「助かります」に意味を盛ったかもしれない。今は、業務共有枠の中で、期限付きの返答として置かれている。言葉は同じでも、置き場所が違う。置き場所が違えば、意味の膨らみ方も変わる。
アキが横から画面を覗く。
「良くなった?」
「まだ分からない」
「でも、前よりは?」
「前よりは沈みにくい」
「それで十分ね、今は」
斎太はスマホを伏せ、袋に切った野菜を入れた。味はまだ付けない。使う日に決める。決めるためには、その日の状態を見る必要がある。今の三文演義も同じだった。今すぐ恋を終わらせることも、今すぐ交際へ進めることもできない。ただ、選べる状態を残し、事故る道を減らし、沈まない形へ置く。
旧プロデューサーは見つからない。
空席は空席のまま残る。
新プロデューサーは、その空席に座ったまま、経営と制作と距離感を学ぶ。
四人は恋を否定されないまま、すぐには進まないことを選ぶ。
アキとベルは相談を受け続けるが、今度はそれぞれの言葉がどこへ向かうかを見る。
元個人勢三人は、遠くから内部統制を見る。
アスリート共は、追加情報が出るまで捜索から引く。
歪んでいる。
正常ではない。
だが、悪いとは言い切れない。
斎太は袋の空気を抜き、平らにして冷凍庫へ入れた。中にはまだ味のない材料が並んでいる。どれも完成していない。けれど、使えないものではない。むしろ、未完成だから後で形を変えられる。
三文演義も、今はそれでよかった。
完成ではなく、保存。
解決ではなく、収束。
沈まない形で、一旦、次の日へ送る。
斎太は冷凍庫を閉め、鍋の火を止めた。余熱は残っている。放っておけば柔らかくなりすぎる。だが、見ていれば、まだ形は保てる。




