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父の形見は美少女Vtuber  作者: 伊阪証


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与太話

桜太の部屋は、家の中で一番生活感がないくせに、一番人間の逃げ場みたいな匂いがした。机の上には音響機材と古いノートパソコン、資料の束、何本も色の違う付箋が貼られたファイルが積まれている。どれも整っているようで、よく見ると整っていない。使用頻度の高いものだけが手の届く範囲に寄せられ、使わないものは美しさよりも圧縮を優先して隅へ追いやられている。斎太はその部屋に入る時だけ、わずかに呼吸を浅くした。父親の部屋だからではない。ここにあるものは大抵、見たくないものほど正確に整理されているからだ。

桜太はモニターの前に座っていた。画面には三文演義の資料が出ている。所属タレントの一覧、過去の収益推移、買収前後の契約変更、前プロデューサーの失踪告知、そこから派生した噂のまとめ。斎太は椅子を引かず、入り口近くの棚に背を預けた。長居するつもりはなかったが、長くなることは分かっていた。

「三文演義の件」

斎太が先に言うと、桜太は振り返らずにマウスを動かした。画面が切り替わり、別の資料が表示される。

「一か月前からだ」

「……一か月?」

「相談自体はな。お前のところに見え始めたのが遅いだけだ。アキちゃんもベルも、個別に受けていた」

斎太は目を細めた。昨日のキッチンで聞こえた声の量を思い出す。女の子たちが家族の別々の場所へ流れ込んでいた。あれが発生したばかりの異常ではなく、一か月かけて家の中に入り込んできた結果なら、既に形は出来ている。自分が聞かないふりをしていたのは、問題が小さかったからではない。自分がその時点まで追いついていなかったからだ。

「かにゃの時期と丸被りか」

「そうだ」

桜太は短く答えた。斎太は棚にもたれたまま、指先で自分の袖を軽く摘んだ。かにゃの件は、ただでさえ家の処理能力を食っていた。あちらの対応に意識を割いている間に、三文演義の相談は別の経路で家へ流れ込み、アキとベルと常盤と伊行を別々に使って、各自の形で進んでしまっていた。斎太が出遅れた理由としては成立している。だが、理由が成立していることと、出遅れの穴が小さいことは別だった。

「前プロデューサーは?」

桜太はそこで初めて椅子を少しだけ回した。顔は斎太へ向けたが、目だけはまだ画面の数字を追っている。

「告知では失踪」

「実態は」

「逃亡寄りだな。少なくとも死亡処理ではない。死亡なら死亡で出せる。出さない理由がある」

「二週間調べたんだろ」

「調べた。見つからなかった。だから告知した」

「二週間で告知か」

「短いと思うか?」

斎太は少しだけ考えた。死亡なら確認が必要だ。事件性があるなら警察の領分になる。借金関係で連れていかれた、あるいは上層の使い込みに巻き込まれて逃げた。そういう噂が立つ状態なら、二週間の沈黙は長くも短くもない。企業としては、何も言わずに続けるには長い。だが、真実を確定させるには短い。つまり、見つからないから出したというより、見つからないまま出さなければいけなくなったという方が近い。

「三文演義って、元々は舞台のバーチャル化だったよな」

斎太が言うと、桜太は頷いた。

「リアル舞台を仮想空間へ持っていく予定だった。VR、AR、どちらも思ったより跳ねなかった。そこで一気にストリーマーへ切った」

「それで当たった」

「当たった。海外勢の元個人勢が三人、大きく伸びた。数字で言えば大御所と同じ棚に置ける。事務所としては、それだけで十分に商品価値があった」

「なのに沈みかけた」

「それを超える速度で金を使った連中が上にいた」

桜太は淡々と言った。怒りを乗せない。怒っていないわけではないのだろうが、怒りで語るには数字の方が強すぎる。斎太は画面に映るグラフを見た。ある時期から支出の線が不自然に跳ねている。設備投資や海外展開のように見える項目もあるが、内訳が雑だ。雑というより、後からそれらしい名前を貼ったような形をしている。

「プロデューサーより上が食ったのか」

「食った。使った。溶かした。言い方はどれでもいい。借金は嵩み、レーベルは抱えすぎた。ストリーマー流行が落ちたタイミングで耐えきれなかった。買収され、元々企業に所属していたタレントはほぼ抜けた」

「残った七人のうち、三人は元個人勢」

「そうだ。あの三人は一人でも稼げる。三文演義に依存していない。上の膿が消えたなら、むしろ楽になったと見ている」

「なら放っておけばいいって判断もできる」

「できる。だが、内部統制が狂えば巻き込まれる。そこだけ嫌がっている」

桜太がファイルを一つ開いた。七人の名前が並ぶ。三人は登録者数も売上も桁が違う。海外視聴者の比率が高く、グッズよりも配信内収益と外部展開で稼いでいる。その下に、今回家へ流れ込んできている四人の名前があった。朱木榊、碧野畏敬、新緑抹茶、菫天紫。斎太は名前を見て、昨日の声を思い出そうとした。だが、あえて聞かないようにしていたせいで、声と名前はまだ結びついていない。それでいい。今はまだ、知らない顔で入れる。

「新プロデューサーは」

「俺が見ている」

「経営?」

「経営、契約、資金繰り、最低限の対外対応。プロデューサーと呼ぶには、まだ現場寄りだ。技術はある。配信を落とさない、音を整える、画面を保つ、そういう支え方はできる。だが、金と契約を見ないまま未成年を抱えるのは危ない」

「だから父さんが教えてる」

「教えている。だが、そのせいでタレントへ割ける時間がない」

斎太はそこに少し引っかかった。昨日、アキが言っていた短文の問題だ。忙しい人間は返事が短くなる。返事が短くなると、受け取る側が勝手に意味を詰める。「了解」が肯定に見える。「任せる」が特別扱いに見える。「助かる」が距離の近さに変わる。本人が意図していなくても、弱った環境では短い言葉ほど都合よく膨らむ。

「積極的でも消極的でもアウトだな」

「そうだ。積極的に関われば未成年相手に距離が近すぎる。消極的に距離を取れば、今度は放置と誤読が増える。時間がないから丁寧に分けられない。丁寧に分けられないから、全員が自分の文脈で受け取る」

「流石に大人だし、調子に乗るまではいかないだろ」

斎太がそう言った瞬間、桜太がこちらを見た。目の動きだけで、言葉はなかった。斎太はその視線に少しだけ苛立ったが、反論はしなかった。自分でも分かっている。今の言葉には、自分より年上で、立場があって、経営を教わっている大人なら最低限踏み外さないはずだという見積もりが混じっていた。だがそれは、相手を信じているのではなく、自分が人をそこまで馬鹿だと思いたくないだけでもある。

「お前は時々、大人を過大評価する」

桜太が言う。

「子供扱いするよりマシだろ」

「同じくらい危ない。大人は大人だから踏み外さないんじゃない。踏み外した後の言い訳が上手いだけだ」

斎太は返事をしなかった。否定したいが、父に言われると妙に腹が立つ。何より、その父自身が踏み外したものを理屈で整えてきた側の人間なので、説得力がありすぎて不愉快だった。

「恋愛側は、アキちゃんたちが見ている」

「見ているって言っても、ベルがもう教えてる」

「聞いた」

「営業で使うって言われて素直に信じたらしい」

「ベルらしい」

「ベルらしいで済ませると事故るだろ」

「だからお前が来た」

斎太は小さく息を吐いた。桜太は自分を責めても慰めてもいない。ただ、位置を置いているだけだった。出遅れた。だが、出遅れたからこそ、斎太はまだ当事者の相談内容を直接知らない顔で入れる。アキやベルに話した内容が、斎太へ漏れていないと相手に思わせることができる。これは弱みではなく、使い方次第で強みになる。

「正面から聞くのは駄目だな」

「駄目だ」

「相談された内容を知ってる顔をしたら、アキとベルの信用が死ぬ」

「そうだ」

「なら雑談だ。コラボで見る。ロールプレイと炎上リスクで抑制がかかる場所に置いて、どこまで維持するか見る。相談じゃない。追及でもない。本人の言葉じゃなくて反応を見る」

桜太はそこで、ようやく少しだけ口元を動かした。

「お前らしい嫌なやり方だ」

「父さんに言われると本当に嫌だな」

「褒めている」

「だから嫌なんだよ」

斎太は資料の四人の名前をもう一度見た。朱木榊。碧野畏敬。新緑抹茶。菫天紫。本人たちはそれぞれ理由を持っているのだろう。身を滅ぼすほどの献身に惹かれる。外部要因でダメになっている相手を支えたくなる。躊躇い続けた過去から消去法のように選ぶ。志望先と友人を失った穴に、別の支えを見つける。だが、それらはあくまで本人たちの主張だ。事実かどうかは分からない。恋なのか、依存なのか、憧れなのか、錯覚なのか。少なくとも、家の台所で聞こえた声だけで決めるものではない。

「アスリート共は?」

桜太が聞いた。

「再収集する」

「恋愛に使うのか」

「使わない。濁る」

「なら何に」

「旧プロデューサーの捜索。借金関係、失踪後の動線、外部の噂、上層の使い込み。そっちを追わせる。見つかるとは思ってないけど、探した結果見つからないのと、探さないで見つからないのは違う」

「見つからない前提か」

「たぶん。二週間で出てこなかったなら、もう本人を拾うより、消え方を拾う方が現実的だろ」

桜太は頷いた。アスリート共は恋愛相談に向かない。共感しないし、恐怖も理解しないし、情緒の扱いは荒い。だが、捜索や観測、足で情報を拾う役には向いている。何より、今回の恋愛問題に直接関係ない。関係ないから、余計な感情を持ち込まない。

斎太はスマホを取り出し、連絡先を開いた。ミミヨン、虎尾一、夢夢六句、丁字咲耶。名前を見るだけで少し疲れる。だが、必要だった。四人に恋愛問題を触らせるつもりはない。旧プロデューサーの空白を追わせる。三文演義が今どれだけ揺れているかを、恋愛ではない側から押さえる。

送る文面は短くした。

『三文演義の旧P失踪について調べたい。恋愛方面には触るな。捜索と外部状況だけ』

数秒後、最初にミミヨンから返事が来た。

『了解。借金筋から?』

続けて虎尾一。

『動線なら見る』

夢夢六句。

『外で走るやつ?』

丁字咲耶。

『噂の出所を整理するわ』

斎太は画面を見て、少しだけ肩の力を抜いた。仕事が早い。余計なことは言わない。恋愛に関わるなと書けば、少なくとも最初は守るだろう。最初は。

「動くか」

桜太が言う。

「動く。出遅れた分、まず外側を埋める」

「四人の方は」

「コラボを組む。知らない顔で」

「上手くやれ」

「父さんに言われると失敗しそうで嫌だ」

「なら失敗しない理由ができたな」

斎太はスマホをポケットへ戻した。資料の四人の名前がまだ画面に残っている。家の中では、昨日の相談がまだ続いているかもしれない。ベルが教えた言葉が、誰かの中で形を持ち始めているかもしれない。アキはそれを抑えようとしている。常盤や伊行も別の線を持っている。新プロデューサーは桜太から経営を学びながら、短い返事で複数の期待を生んでいる。

斎太はその中心へ直接入るつもりはなかった。直接入れば、相談を漏らされたと思われる。踏み込めば、アキとベルの場所を壊す。だから雑談で入る。知らない顔で、ただ話す。ロールプレイの奥で何が揺れるのかを見る。炎上しない範囲で、抑制が抑圧にならない場所を作る。

「恋を否定する気はないんだよな」

斎太はぽつりと言った。

桜太は返事をしなかった。

「本人の意思があって、理性的な理由があって、相手側にも問題がなくて、事務所の管理上も事故らないなら、別にいい。付き合って、失敗して、次に行けばいい。最初から一生を賭けるみたいな顔をされる方が、俺には分からない」

「アキちゃんとは違うな」

「違う。アキはちゃんと考える。俺は、そんなに考えるほどのものかと思ってる」

「だから見落とす」

斎太は口を閉じた。反論は出せた。だが、出す意味がない。見落としはある。新プロデューサーがJKに好かれて調子に乗らないか。大人なら大丈夫だろうという自分の雑な信頼。そこはまだ、斎太の中で危険として完全には立ち上がっていない。

それでも、動くしかなかった。

「まずは旧プロデューサーの方を掘る。恋愛側は、雑談で見る」

「それでいい」

桜太は画面を閉じた。資料が消え、黒い画面に二人の顔が薄く映る。親子の顔は似ている。嫌になるくらい、判断の癖も似ているところがある。斎太はその反射を見ないように、部屋のドアへ向かった。

「斎太」

呼ばれて振り返る。

「三文演義は、まだ沈んでいない。だが、沈まない理由が人間の踏ん張りだけになっている。そういう船は、穴より先に人が壊れる」

「分かってる」

「分かっている顔ではない」

「じゃあ分かるまで見る」

斎太はそう言って部屋を出た。

廊下に出ると、家の奥からまた声がした。昨日より少し小さい。誰の声かは分からない。斎太は足を止めず、自分の部屋へ戻る。スマホにはもう、アスリート共から追加の返信が来ていた。旧プロデューサーの名前、最後に確認された場所、借金関係の噂、上層の使い込みに関する断片。恋愛とは別の、事務所の底に溜まった泥の匂いがする情報だった。

斎太は画面を伏せ、息を吐いた。

出遅れた。

だが、まだ知らない顔で入れる。

それだけは、今のところ唯一の利点だった。


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