二束三文
斎太は鍋の底から上がる湯気を見て、火を少しだけ弱めた。煮立たせる必要はない。今日やっているのは食事ではなく、食事になる前の準備だった。大根は厚め、白菜は芯と葉を分け、長ねぎは斜めに落とす。にんじんは薄くしすぎると冷凍した後に頼りなくなるので、鍋に入れた時に輪郭が残る程度で止めた。肉は豚と鶏を分け、魚介は今日は使わない。袋に詰める材料の組み合わせを三つに分ける。白菜、豚、長ねぎ。キャベツ、鶏、しめじ。大根、にんじん、薄切りの豚。味はまだ付けない。味を付けてしまえば使い道が狭くなるし、そもそも今日の作業は鍋を完成させることではなく、忙しい日に手を伸ばせば鍋でもスープでも炒め物でも成立するところまで生活を前倒しすることだった。
チャック付きの袋を一枚開き、斎太は左手で口を押さえながら切った白菜を入れた。水気が袋の内側に付く。軽く押して空気を抜き、平らにする。冷凍庫に立てて入れるには、その形が一番いい。次の袋へ肉を分けている時、玄関の鍵が回る音がした。
アキが入ってきた。靴を脱ぐ音は一人分ではなかった。斎太は包丁を置かず、まな板の上の鶏肉に視線を落としたまま、玄関から廊下へ入る声だけを拾った。
「こっち。大丈夫、今は誰も使ってないから」
アキの声は普段より少し低い。診断や説得の時の声ではない。外で誰かに付き添う時の、相手の動揺を先に押さえる声だった。もう一人は小さく礼を言った。若い。声の張りだけなら配信者のそれに近いが、家の中に入った途端に足音が細くなっていた。斎太はそこでようやく顔を上げかけたが、すぐに鶏肉へ戻した。見る必要はない。少なくとも今は、見た瞬間に自分の中で何かが処理されてしまう。
肉を切る。筋を外す。皮を残すかどうか一瞬考え、今日は残した。鍋なら脂があった方がいい。スープに回すなら灰汁を取れば済む。
廊下の向こうで、襖の閉まる音がした。
「今すぐ決めなくていい。そこだけは本当に守って」
アキの声が、はっきり聞こえた。斎太は左手を洗い、布巾で水気を取り、作業台の端に置いてあったヘッドホンを手に取った。音楽を流す。歌詞のない曲にする。言葉のある曲だと、会話と混ざって余計に意味を拾ってしまう。音量は最初、低めにした。完全に塞ぐほどではない。聞こうと思えば聞こえる。聞かない方がいいと判断するための余地だけを残す。
鍋用の袋を三つ作ったところで、次はパン生地を見た。ボウルの中で生地はゆっくり膨らんでいる。指で押すと、戻りは遅いが悪くない。今日焼く分ではなく、明日以降に回す生地だ。斎太は軽くガスを抜き、丸め直して、別の容器へ移した。ピザ生地の方も確認する。こちらは少し早い。冷蔵庫に入れて速度を落とす。
ヘッドホン越しでも、声が少しだけ抜けてきた。
「でも、今じゃないと……」
斎太の手が止まった。袋を閉じる指が、最後の一センチで動かなくなる。今じゃないと。その言い方には、今を逃せば全部終わると思っている人間の力があった。恋愛相談で出るには重すぎる。仕事の相談として出るには湿りすぎている。聞かない方がいい。そう判断するには十分だった。
音量を一段上げる。
曲の低音が耳を塞いだ。斎太は袋を閉じ、日付を書き、冷凍庫へ並べた。まだ一段分空いている。詰めすぎると凍るまでに時間がかかるので、端を少し空ける。そういうことだけは考えられる。考えられるものに意識を置いていれば、廊下の奥で誰が何を言っているかを拾わずに済む。
次はソースだった。トマト缶を開け、玉ねぎを刻む。にんにくは控えめにした。最近、家の中の誰がいつ食べるのか分からない。強く作ると使いづらい。鍋の材料と違ってソースは味が決まる。だからこそ、濃くしすぎない。味を完成させるのではなく、後から寄せられる場所で止める。
玄関がまた開いた。
今度の足音は軽かった。ベルの声がする。母の声は明るい。明るいまま、人の踏み込みを許してしまう種類の声だった。
「大丈夫よ。そういうのは見せ方だから。相手が受け取りやすいように整えるの。営業で使うなら、なおさら変に照れない方がいいわ」
斎太は玉ねぎを刻む速度を上げた。聞こえた。聞こえてしまった。営業で使う。誰かがそう言ったのだろう。母はそれを信じた。信じて、普通に教えている。悪意はない。だから面倒だ。悪意のある言葉なら、切ればいい。善意で出ている技術は、相手の事情に入り込むまで止まらない。
ヘッドホンの音量をもう一段上げた。今度はかなり大きい。包丁の音が鈍くなる。自分の呼吸が近くなる。鍋の小さな泡立ちも、換気扇の音も遠ざかった。
ベルと一緒に入ってきた女の子は、廊下の途中で一度立ち止まったらしい。床板が短く鳴る。斎太は視線だけをキッチンの入口へ向けた。姿は見えない。すぐに奥へ行った。
ソースを弱火にかけ、焦げつかないように混ぜる。隣の鍋はまだ火を入れない。デザートの器を出す。今日は冷やして固めてあるものがある。姉が勝手に取っていく可能性が高いので、最初から二つ余分に作っておいた。斎太は冷蔵庫を開け、表面を確認した。問題ない。スプーンも横に置いておく。探されると面倒だからだ。
案の定、数分もしないうちに常盤が来た。リビング側からではなく、廊下の奥から顔を出す。今日は髪を適当に結んでいる。外で見せる読者モデルの整った姿ではなく、家にいる時の雑な姉だった。彼女はヘッドホンをしている斎太に何か言いかけ、すぐに諦めたように冷蔵庫を開ける。デザートを二つ取った。
斎太はヘッドホンを片耳だけずらした。
「一個」
「二個あるもん」
「二個あるから一個」
「来客用でしょ」
「誰の」
「私の」
「客じゃない」
常盤は聞かなかったことにして、二つ持っていった。その背中を追うように、少し遅れて伊行が現れた。彼はいつもより表情が硬い。隣にいる女の子は、最初の二人とも違った。キッチンの前を通る時、伊行は斎太に軽く会釈した。斎太も包丁を持っていない方の手で返す。何も聞かない。伊行も何も言わない。ただ、その女の子は斎太を一度見た。見たというより、確認した。家の誰が何を知っているのか、そこを測っている目だった。
斎太はヘッドホンを戻した。
トマトソースが少し煮詰まる。火を落とし、別容器へ移す。次にカレーのベースを作る。玉ねぎは飴色までやらない。今日そこまで手間をかけると、他の仕込みが遅れる。薄く色がついたところで止める。肉は入れない。あとで合わせる。香辛料も最低限。完成品ではなく、作り置きの芯を作っているだけだ。
ヘッドホン越しに、曲の隙間を縫って声が入った。
「それでも、あの人がいないと回らないんです」
別の声だった。誰の相談か分からない。アキの部屋か、ベルの部屋か、姉たちの方かも分からない。ただ、「あの人」という言い方だけが残った。斎太は鍋を混ぜる手を止めなかった。止めたら聞いてしまう。聞いてしまえば、知らない顔ができなくなる。
切った肉を袋に分ける。鶏、豚、牛。牛は少ない。使いどころが限られる。野菜は白菜、キャベツ、大根、にんじん、長ねぎ、きのこ類。組み合わせを変える。材料が同じだと、使う時に気分が死ぬ。味付けは後で変えられるが、材料が同じだと食べた時の形が同じになる。鍋は味だけで食べるものではない。口に入る順番と、箸で掴む重さと、煮え方の差で食べるものだ。
途中でアキがキッチンに来た。相談は一区切りついたのだろう。彼女は斎太のヘッドホンを見て、少しだけ眉を動かした。
「聞こえてる?」
斎太は片耳だけ外した。
「聞かない努力はしてる」
「ならいいわ」
アキはそれ以上聞かなかった。手を洗い、自然に隣へ入る。切った野菜を袋に詰め、空気を抜く。彼女の手つきは器用ではあるが、料理人のそれではない。無駄な力を入れず、作業として正確に処理する手つきだ。斎太が材料を切り、アキが袋に入れる。数分だけ、その流れができた。
「何人来てる?」
「知らない」
「嘘」
「数えないようにしてる」
「四人目よ」
「数えるなよ」
「私は仕事柄、数えるの」
アキは袋を閉じながら言う。声は淡々としていたが、少し疲れている。相談を受けるというのは、話を聞くだけでは済まない。相手が自分で決めたと思える範囲を残しながら、事故だけを避けさせる必要がある。踏み込みすぎれば抑圧になる。引きすぎれば放置になる。アキはその細い線を歩いている。
「このまま行くと、まずい?」
斎太が聞くと、アキはすぐには答えなかった。袋の角を揃え、冷凍庫へ入れる場所を見てから、ようやく口を開く。
「恋そのものは問題じゃないわ」
「だろうな」
「でも、今の状態で交際に進むのは危ない。本人の意思だけならまだしも、環境で押し出されている可能性がある。誰かを好きになったというより、支えが必要な状況に、相手が置かれてしまっている」
「支えがプロデューサーに集中してるってこと?」
アキは頷く。
「しかも相手は未成年が多い。事務所側が未成年を扱える体制ならまだしも、今の三文演義はそうじゃない。大人だけでも危ない」
斎太は鶏肉を袋へ入れた。三文演義。ようやく名前が出た。配信界隈で知らない名前ではない。元は舞台をバーチャル化しようとした事務所で、VRやARが思ったほど伸びず、ストリーマー路線に切り替えて当たった企業。今は前プロデューサー失踪の告知だけが妙に尾を引いている。死亡なら死亡と出せばいい。出せないから失踪なのだと、誰もが薄く察している。
「父さんは?」
「新しいプロデューサーに経営を教えてる」
「じゃあ当人は忙しいな」
「忙しいわ。だから余計に、短い返事が変な意味を持つ」
アキはそれだけ言って、また袋を閉じた。
ヘッドホンを戻そうとした時、ベルが入ってきた。彼女はいつも通り柔らかい顔をしているが、手にはメモを持っている。斎太とアキの間に流れている空気を見て、少しだけ首を傾げた。
「あら、二人とも真面目な顔ね」
「母さん、何教えたの」
斎太が聞くと、ベルは不思議そうに瞬いた。
「営業で使える距離の詰め方。あと、相手が疲れている時の声の掛け方と、甘えさせ方」
アキが目を閉じた。
「ベルさん」
「だって、配信で使うって言っていたのよ。Vの営業って、そういう距離感も必要なのでしょう?」
悪意が一ミリもない。斎太は包丁を置き、額を指で押さえた。ベルは本当に、相手の言葉を信じたのだ。営業で使う。そう言われれば、営業で使うための技術として渡す。ベルの中では筋が通っている。問題は、その技術を受け取った側の目的が営業だけとは限らないことだった。
「それ、本人に向けて使われる可能性ある」
「……本人?」
「新プロデューサー」
ベルはそこで初めて、少し困った顔をした。
「でも、あの子たち、ちゃんと仕事の話として……」
「そう見せるくらいはできる」
アキの声はきつくない。ただ、逃げ道はなかった。ベルはメモを見下ろし、少しだけ眉を下げた。責められているのではなく、自分が渡したものの使われ方を初めて考えている顔だった。
斎太はまた鍋へ戻った。ソース、カレーのベース、パン生地、ピザ生地、鍋用の材料。作業は残っている。会話は重い。だが、手を止めても何も解決しない。むしろ、こういう時こそ作業がある方がいい。作業があれば、考える場所が散らばらずに済む。
廊下の奥では、また別の声がした。誰かが泣いているわけではない。怒っているわけでもない。けれど、言葉の端が少しだけ熱を持っている。恋の話だと片付ければ軽い。だが、軽く扱うには家の中に流れ込んでいる人数が多すぎる。
斎太はヘッドホンを首にかけたまま、包丁を握り直した。
「聞かない方がいいとは思うんだけどな」
アキが横から袋を一枚開く。
「聞いてしまった以上、知らないふりをするしかないわね」
「便利だな、出遅れって」
「最低の言い方だけど、今回はそう」
斎太は切った大根を袋に入れた。アキが空気を抜いて閉じる。ベルは少し迷った後、手を洗って鍋の火加減を見た。三人でキッチンに立つと、作業だけは妙に滑らかに進む。家の奥では知らない女の子たちが、それぞれ別の大人に相談している。相談内容は混ざらない。だが、向いている先だけは同じらしい。
新プロデューサー。
三文演義の泥船みたいな場所で、技術と時間と経営の勉強に挟まれている人間。高校生中心のタレントを抱えながら、未成年を扱える体制ではない事務所を、どうにか今だけ浮かせている人間。その周りに、恋という形をした別の負荷が集まり始めている。
斎太は冷凍庫の引き出しを開け、袋を並べた。平らにした材料が、透明な袋越しに色だけを見せている。白菜の白、にんじんの橙、長ねぎの薄い緑、肉の赤。まだ味はない。どの鍋になるかも決まっていない。ただ、使われる前の形だけが揃えられている。
今、奥の部屋にいる彼女たちも似たようなものかもしれない。恋なのか、依存なのか、憧れなのか、支援欲なのか、まだ味の付いていない材料の状態で、誰かの手元に置かれている。
斎太はその考えを口には出さなかった。言えばたぶん、アキに嫌な顔をされる。
代わりに、ヘッドホンをもう一度耳へ戻した。
曲を流す。
包丁を動かす。
聞かない。
だが、知らなかったことにはできない。
冷凍庫の中で、袋に詰められた材料が静かに並んでいく。家の中では、まだ誰かの声が続いていた。




