Diamond to Dust
ドアを閉めた瞬間、収録後の雑多な音は綺麗に切れた。防音の利いた社長室は広いわけではないが、必要以上に物を置かないせいで視界がよく通っていて、壁際の棚に並ぶ試作品めいた機材と、机の端に積まれた契約資料の束だけが、この部屋の主が未だに現場と数字の両方を手放していない人間だと語っていた。六芒星まぐれはドアの前で一度だけ呼吸を整え、それから机の正面まで歩いた。社長は既に座っていた。背もたれに深く沈むでもなく、迎え入れるように身を乗り出すでもなく、ただ仕事の続きを始める人間の姿勢で視線を上げる。その顔には、呼びつけた側の苛立ちも、話しづらいことを告げる側の逡巡もなかった。あるのは、決めたことを順番に口へ出すだけの静かな整頓だった。
「座れ」
六芒星まぐれは従った。革張りの椅子は柔らかいのに、妙に落ち着かなかった。社長は目の前の資料から一枚だけ抜き、机の上で軽く指先を滑らせて位置を直してから、最初に結論を出した。
「先に言う。交渉の余地はない。契約は満了で切る」
言い方が簡潔すぎて、逆に言葉の輪郭が強く立った。曖昧に濁す余地が最初から残されていない。六芒星まぐれは数秒だけ黙り、その後でようやく口を開いた。
「理由は、聞かなくても分かりますけどね」
「なら話は早い」
「早くはないですよ」
六芒星まぐれは椅子の背に体重を預けなかった。肘も置かず、膝の上で組んだ指先にだけ僅かに力を入れる。感情で噛みつくつもりはなかったし、社長を言い負かせるとも思っていなかった。ただ、ここで何も言わなければ、社長が業界を知らない人間の論理で切っていることになってしまう。その誤解だけは置きたくなかった。
「でも、確認だけはさせてください。別の事務所もテレビ関係は多い。名義が違っても、掘れば運営がテレビメディアの子会社だったり、出資に絡んでたり、制作ラインで繋がってたりする。表に見える看板が違うだけで、この業界にいる以上、関係なんて切れないでしょう。そこから漏れる可能性も、悪意ある拡大解釈も、外から塩を塗って騒ぎを育てる連中がいることも、あなただって一番分かっているはずだ。だったら、ここだけ切っても綺麗にはならない。ここで切る合理を置いたところで、別の場所に行けば同じ構造はまた出る。違いますか」
社長は最後まで聞いた。遮らないし、途中で頷いて理解の演技をすることもない。ただ、聞き終えた後に視線を逸らさず、そのまま短く言った。
「その通りだ」
六芒星まぐれは眉を動かした。反論が来ると思っていたわけではないが、あまりにもあっさり肯定されたせいで、逆に次の言葉が一瞬遅れた。社長はその遅れすら織り込み済みのように続ける。
「他も同じだ。別名の会社でも、運営を辿ればテレビの血が入っていることは珍しくない。切れない。綺麗にもならない。秘密があるのは素敵だが、その秘密を秘密のまま愛する人間ばかりじゃない。脛の傷でもないものを傷に見せるやつもいるし、擦り傷を腐った脚みたいに拡大して喜ぶやつもいる。悪意と欺瞞に満ちているし、それが時に双方へ快感をもたらす。人間の愚かさも、どうしようもない無垢も、そういう時に一番露呈する。否定するには十分なくらい汚れているし、否定するにはあまりに煌びやかすぎる。だから、構造の話はもう終わっている。私が今しているのは構造の議論じゃない」
社長はそこでようやく資料から手を離した。その動きには芝居がなかった。大仰な間も作らず、ただ机の上の紙から話題の重心を自分へ引き戻しただけなのに、室内の空気が少し変わった。
「私は経営者として切る。これは合理だ。景気がいい悪いの話でもない。今後テレビメディアが持ち直そうが、もっと不調になろうが、守るとは思えない相手に継続前提で秘密を預けるつもりはない。信用できない中で雇い続けるのは、こちらにも向こうにもデメリットがある。そこは覆らない」
ここまでは六芒星まぐれにも分かっていた。いや、分かっていたからこそ、社長室へ呼ばれた時点で胸の奥に冷たいものが沈んでいたのだ。社長は情で判断を曲げる人間ではないし、曲げないからこそここまで来た。その代わり、切ると決めた時も言い訳を作らない。だが、社長の声はそこで終わらなかった。
「その上で問うている」
社長はほんの僅かに身を乗り出した。威圧ではなかった。言葉の射程を縮めただけだ。
「今は私のタレントである、六芒星まぐれ。君に彼の命を預かる覚悟はあるか」
六芒星まぐれは目を細めた。社長は逃げなかった。
「事務所に残すか、契約をどう動かすか、どの口実で切るか、そんなものは枝葉だ。私はもう合理で切ると決めている。だが、合理の上に立ったまま、それでもなお命を取るなら、私は会社ごと差し出す。かにゃという稀有な人間を使い潰すのか、それとも本気で生かすのか。その判断を、君が自分の意志で持てるかと聞いている」
言葉が滑らかすぎて、一瞬だけ何を言われたのか遅れて理解した。六芒星まぐれは反射的に息を吸い、それからようやく絞り出した。
「それを、私に選ばせるんですか」
「選ばせる。強制しても意味がないからな。責任は強制された側ではなく、選んだ側が負うべきだ」
「……重すぎるでしょう」
「重いから聞いている。重圧は大事だ。重圧はダイヤを生成することもあれば、その宝石ですら塵に変えられる。軽いものに命は乗らない」
六芒星まぐれは視線を落とした。机の木目がやけに鮮明に見える。社長はいつもこうだった。優しくないし、甘くもない。だが、人を騙す軽さを一切使わない。だからこそ、言葉の重さがそのまま手渡される。逃げ場がない。
「君達からどのような非難をされようと、脱退されようと、彼の命に比べたらこの会社一つ安いものだ」
社長の声は変わらなかった。熱を帯びないのに、内容だけが容赦なく重い。
「彼がこれから作るであろう実績に比べたら、まして安い。君達は一人でもできるし、人望もある。私を見捨てるなら今の内だ。私はこの会社を立ち上げたが、失敗する時は失敗する。それだったとしても、所詮失敗が一度増えるだけだ。再挑戦はいくらでもできる金は手に入った」
六芒星まぐれはそこで初めて顔を上げた。社長は平然としていた。虚勢ではなく、本当にそう思っている顔だった。会社を守るために命を切り捨てる人間なら世の中にいくらでもいる。逆に命を守るために会社を賭けると言いながら、実際にはどちらも失いたくなくて中途半端に濁す人間も腐るほどいる。だが、目の前の人間は違った。会社を切ると決めた合理も本物で、会社を燃やせると言い切る覚悟も本物だった。その両方を一つの口で矛盾なく言えるのは、失敗を恐れていないからではない。失敗の価値を知っているからだ。
社長は軽く顎を引いた。
「私は残酷で、冷酷で、無慈悲だ。上に立つ人間として、全部背負い込む。その自覚がある。だから言う。君がどう選ぼうと自由だ。どう選ぼうと、私は嘆かない。社員の自由は約束している。私は元から嫌悪で成り上がってきた人間だ。虫が嫌いで、防虫剤の開発と流通から始めた。その次に別の会社で虫をレーザーで殺す装置を作った。カメラ関係を研究するついでに、動きを感じない絵が嫌いだからとモーションとトラッキング技術を研究した。そして今、この会社を立ち上げた。次の目星もついている。私はどう足掻いても希望と未来に満ちている。会社が潰れたところで終わらない。だから、怖がる理由がない」
それは普通なら笑ってしまうような経歴の並べ方だった。虫が嫌いだから防虫剤を作り、その次は虫をレーザーで殺す装置に行き、そこからモーションとトラッキングへ飛び、最後に事務所を立ち上げる。一本の人生として見れば偏執狂だ。だが、社長の口から出ると奇妙なくらい筋が通っていた。嫌いだから観察し、嫌いだから手を打ち、嫌いだから構造に変える。感情を放置せず、次の事業へまで押し出してきた人間の履歴だった。だからこそ、「会社一つ安い」と言っても空疎に聞こえない。潰した後の自分まで既に見えている人間の言葉だからだ。
社長はそこで初めて、ごく薄く笑った。
「その上で問う。この会社が嫌いなのか」
六芒星まぐれは答えなかった。すぐには答えられなかった、という方が正しい。嫌いかと問われれば違う。この会社に不満がないわけではないし、危うさも知っているし、社長のやり方が時々あまりに極端で腹が立つこともある。だが、嫌いかと聞かれて首を縦に振るには、ここで見てきたものが多すぎた。切る時に情へ逃げず、守ると決めた時に保身へ逃げず、人へ自由を与えながら責任だけは曖昧にしない。その筋の通し方は、少なくとも軽蔑の対象ではなかった。
「ずるい質問ですね」
やっと出た声は、思ったより掠れていなかった。社長は肩を竦めない。
「経営者らしいだろう」
「そういう意味じゃなくて」
六芒星まぐれは苦く笑いかけてやめた。
「その聞き方をされたら、嫌いだなんて言えるわけがない。私は会社に恩もあるし、この場所で作れたものもある。かにゃのことだって、事務所の外で勝手にどうにかできるなんて甘いことは思ってない。ここが綺麗じゃないことも分かってるし、他がもっと綺麗だとも思ってない。だから、あなたの合理も分かる。満了で切る、それ自体は間違ってない。むしろ経営としては正しいんでしょう」
社長は何も言わない。六芒星まぐれは続けた。
「でも、それで終わらないから、今こうして私を座らせてる。あなたは切ると決めた上で、それでも命を取る覚悟があるなら会社を燃やすと言った。そこまで言われて、私だけ安全圏から『分かります』なんて返したら、それこそ一番みっともない」
胸の中で何かが静かに定まっていくのが分かった。交渉の余地がないというのは、本当にその通りだった。条件を擦り合わせる余地も、もう少し穏当な着地点を探る余地もない。社長は決断を終えている。残っているのは、そこへ自分が乗るかどうかだけだ。ならば、ここで迷いを長引かせる方が醜い。
六芒星まぐれは背筋を伸ばした。
「私はあなたをネガティブだとは言いません。むしろ逆だ。そこまで前を向いた人間が、会社一つ安いと言い切って、それでも私に選べと言うなら、逃げる方が失礼だ。かにゃを使い潰したくはない。生かします。そのためにこの会社が揺れるなら、その揺れも引き受ける。あなた一人に背負わせるつもりもない。私は残ります」
言ってしまえば、妙に静かだった。劇的な音も、何かが変わった手応えもない。ただ、口にした言葉がそのまま部屋に残り、もう回収できないものになっただけだった。
社長は数秒だけ六芒星まぐれを見た。その沈黙には値踏みがなく、確認だけがあった。相手が本当に自分の言葉で立ったかどうかを見ている目だった。やがて社長は頷いた。大仰ではなく、業務上の合意を取った時と同じ程度の動きだったが、それで十分だった。
「よろしい」
机の上の資料へ手が戻る。
「では、ここからは感傷を捨てろ。私は会社を賭ける。君は彼を預かれ。守るという言葉を軽くするな。生かすために使うべき場面では使い、止めるべき場面では止めろ。君が今引き受けたのは好意ではない。運用だ」
六芒星まぐれは短く息を吐き、それからはっきりと答えた。
「分かっています」
「いいや、今はまだ分かっていない」
社長はそこでようやく、ほんの僅かに口元を上げた。
「だが、分かろうとしている顔はしている。十分だ。六芒星まぐれ、君は今夜から、私のタレントとしてではなく、彼の命を預かる人間として働け」
六芒星まぐれは立ち上がった。さっきまで重さとしてしか感じられなかった部屋の空気が、今は不思議と澄んでいた。怖さが消えたわけではない。ただ、怖さの置き場が決まっただけだ。ドアノブに手をかけたところで、背後から社長の声がもう一度だけ飛んだ。
「六芒星まぐれ」
「はい」
「この会社が嫌いになったら、その時は遠慮なく去れ。だが、彼を嫌いになったら去る前に私へ言え。私が先に君を止める」
六芒星まぐれは振り返り、そこで初めて笑った。
「そんな心配をするくらいなら、最初から私に預けないでしょう」
社長は否定も肯定もせず、ただ次の書類へ目を落とした。
「そうだな。だから預けた」
その一言で対談は終わった。社長室のドアを開けた外の廊下は、さっきまでと同じようにスタッフの足音と機材の移動音に満ちていたのに、六芒星まぐれにとってはもう別の場所になっていた。会社はまだそこにあり、契約もまだ残っていて、満了で切るという決定も何一つ覆っていない。それでも、今しがた社長が渡してきたのは猶予ではなく、命を扱う側の責任そのものだった。六芒星まぐれは一度だけ目を閉じ、それから迷いなく歩き出した。




