情けは甘い方が良い
アキは最初から、この会議を長引かせる気がなかった。話したところでどうにもならない。押しても地獄、引いても地獄、その確認をもう一度なぞるためだけに時間を使うくらいなら、早く切って次の手を探した方がまだましだと決めていた。だから扉を開ける前から、頭の中では終わらせ方しか組んでいない。だが、開けた瞬間にその段取りは一度壊れた。斎太が、季節の途中みたいな柔らかいセーターの上に、妙にきっちり結んだエプロンを掛けたまま立っていたからだ。会議に持ち込む格好ではないし、誰かの世話をするつもりならするで、もう少し自然な乱れ方がある。なのにあれは逆だった。変に整っていて、変に気合が入っていて、だからこそ意味が分からない。アキは一瞬だけ、本当に一瞬だけ、金がないとか、家庭内の何かを一人で抱えたとか、そういう生活の側の破綻を疑った。だが斎太の顔に陰惨さはない。ただ真面目に、妙な方へ真っ直ぐだった。
「何、その格好」
アキがそう言うと、斎太は拍子抜けするほど普通に答えた。
「かにゃ用」
「意味が分からない」
「だから、甘やかす。先輩に聞いた。こういう時はママごっこが効くらしい」
アキは数秒、何も返せなかった。理屈が飛んでいるのではない。理屈を通した先で、急に出てくる語がそれなのが納得できないだけだ。しかも本人はふざけていない。エプロンもセーターも冗談ではなく、実行のための装備として選んでいる顔だった。
「……話してもどうにもならない、で切るつもりだったのだけれど」
「だから話してないだろ。用意してる」
「それを用意というのよ」
そこで斎太は少しだけ首を傾けた。反省ではない。修正点の確認でもない。ただ、何が問題なのか本気で分かっていない顔だ。その温度差にアキが更に口を開きかけた時、奥の部屋から声がした。
「遅いぞ」
桜太だった。
斎太が一拍止まる。アキもそちらを見る。開け放したままの隣室には、小さめのテーブルと、その前に座るかにゃ、それからその斜め後ろに立つ桜太がいた。桜太もまた、呆れるほど自然な顔でエプロンを掛けている。こなれていた。そこが一番腹立たしい。斎太の方は意気込みの形がまだ残っているのに、桜太の方はとっくに実行段階に入っていて、しかもそれが日常の延長みたいに馴染んでいる。
「……先越された」
斎太が低く言う。悔しがっているのに、やめる気配はなかった。アキはその時点で、もうこの場の議題が会議ではなくなっていることを悟る。理屈の確認ではない。運用が先に始まっている。
かにゃはテーブルの前に座ったまま、こちらを見た。前回より顔色はある。だが、戻ったわけではないとアキには分かる。持ち直しているというより、受け止められているだけだ。そこへ桜太が、ごく当たり前みたいな手つきで肩にブランケットを掛け直す。過剰だ。普通なら引く。なのに、かにゃは引いていない。むしろ少しだけ、視線が柔らかく落ちる。
「何で成立してるの」
アキの声は半ば呆れに近かった。答えたのは桜太でも斎太でもなく、かにゃ本人だった。
「……古参なので」
恥ずかしそうに、だが否定せずに言う。
「前から、見てました。メン限の、ああいうのも」
そこまで聞いて、斎太の表情が変わる。終わった顔ではない。理解した顔だった。自分のサプライズが潰れたことより、土台が最初からあったことの方へ認識が切り替わる。その速さだけは、やはり桜太の息子らしかった。
「なら別に一人じゃなくていいな」
そう言って斎太はそのまま奥へ入る。止まらない。止められない。桜太が先にやっていたと知って、引くどころか合流する方へ迷いなく振った。
「ちょっと待ちなさい、あなた達、そういう問題では」
アキがそこまで言ったところで、かにゃが二人の間に挟まれる形になる。右から桜太、左から斎太。片方は慣れた手つきで髪を撫で、片方は少しだけぎこちなく肩を抱く。両方とも質が違うのに、かにゃはどちらにも拒絶を出さない。むしろその真ん中で、困ったような、でも明らかに張りつめ方の違う息を吐いた。おそらく医療的には褒められた構図ではない。構造としてもかなり終わっている。だが、終わっているはずのものが、目の前では平然と回っている。
「アキも固い」
不意に斎太がそう言った。何を言っているのか理解する前に、手首を取られる。強引ではないが拒否を挟む余地もない速さで、そのまま引き寄せられた。
「待って、私は別に」
「端で見てる顔じゃないだろ」
「そういう話では」
「今はそういう話でいい」
理屈を挟む前に、物理で潰される。アキはかにゃの横へ半ば強制的に座らされ、そのまま肩ごと抱き込まれた。右から斎太の体温、反対側から桜太とかにゃの熱が寄る。密度が高い。近い。医療的にも家庭的にも色々と線を踏み越えているのに、誰もそこで止まらないし、かにゃも壊れていない。むしろ一番壊れそうだった人間が、その中心でやっと呼吸の深さを取り戻している。
アキは数秒、何も言えなかった。言うべき論理ならいくらでもある。依存の助長、問題の先送り、判断の保留、全部正しい。だが、その全部が、この場の体温に触れた瞬間だけ妙に薄い。少なくとも今、目の前のかにゃは一人で削れていく顔をしていない。それだけは事実だった。
幸福なのか不幸なのか、もう判定できなかった。少なくとも、医学だけでは裁けない種類のものがあるのだと、その時ばかりは認めるしかなかった。




