悪辣
アキは、電子カルテの画面を閉じる直前の手つきだけが、少し遅い。
忙しい日の終わりにはよくあることだった。指先の疲れではない。脳の方が先に終業を宣言していて、身体だけが律儀にその後処理を続けている。モニターの白い光に照らされた机の端には、技師が置き忘れたらしいメモが一枚残っていた。捨てていい紙なのか、一応返すべきなのか、判別するほどの内容でもない。なのに、その日は妙に目についた。
その字を見た瞬間、昔の記憶が、思い出そうとして思い出す類のものではなく、最初からそこにあったものみたいに浮いてきた。
あの時も、病院の空気は今と似ていた。清潔で、乾いていて、疲れている人間ほど妙に静かになる時間帯だった。
相手は技師を名乗っていた。名乗っていた、というより、最初にそう紹介された。現場に出入りする外部の人間で、ライバー系のスタッフらしい、とだけ聞かされていたから、アキも最初はその程度にしか見ていなかった。だが、途中で事情が変わった。事情が変わるというより、見ている前で人が崩れかけた。
顔色が悪いとか、手が震えるとか、そういう分かりやすい崩れではない。動けてしまう。喋れてしまう。指示も出せる。だから余計に遅れる。限界の先に入っているのに、本人だけでなく周囲も「まだやれる」と誤認する。あの時の相手は、まさにその種類だった。
本来なら、こちらが関わる範囲を越えていた。ノウハウを持ち込むのも、責任を負うのも、本筋ではない。だが、放っておけばそのまま倒れると分かったから、助けざるを得なかった。処置そのものより、その後の方が異様だった。相手は一度沈黙して、それから、守秘を破る形で話した。
昔、有名だったのだという。
有名、で済むような規模ではなかったのかもしれない。だが、その時のアキには名前の価値はどうでもよかった。重要だったのは、その後に続いた話だけだ。
事務所は回す。レッスンを入れる。ライブも重ねる。移動もある。収録もある。人が生き物であることなんて知っているくせに、それでも動かす。人気があるほど止めにくい。本人も止まらない。止まれない。やる気がある、責任感がある、ファンがいる、期待がある。全部が美徳に見えるせいで、壊れていくまでの工程だけが綺麗に隠れる。
そして、ある日突然死ぬ。
そこまで言った時の相手の顔を、アキはまだ覚えている。脅かそうとしていたわけではない。自分の業界の醜さを告発したかったわけでもない。ただ、現に起きたことを、知っている人間にだけは分かる言葉で共有しようとしていた。それが一番近かった。
あの時に聞いたのは、病名の話ではなかった。病名は後からいくらでもつく。過労、循環器、神経、内分泌、精神、どの系統からでも説明はできる。だが、本質はもっと単純だった。
人体のポテンシャルを超えれば、それはただの負荷でしかない。
モチベーションは人を動かす。場合によっては、人を生かす。けれど、回復させるわけではない。燃やしているだけだ。火力が強いほど立っていられる時間は伸びるが、燃料そのものが戻ってくることはない。本人の気合いで立ててしまうせいで、周囲はさらに誤る。まだやれる。まだ大丈夫。まだ一回くらいは、と思っている間に、取り返しのつかない線を越える。
アキは、その話を忘れていなかった。忘れる理由がない。医者になる人間にとって、あれは症例ではなく警告だったからだ。
画面の脇で通知音が鳴る。
斎太からだった。
本文というより、記録に近い。装飾の少ない文で、見たこと、聞いたこと、返答の遅れ、呼吸の浅さ、姿勢は崩れていないのに処理だけが追いついていないこと、そして会話を切り、食事に入れたことが順に並んでいる。
アキは一行目から読み返した。読み飛ばす気になれない。斎太の文は感情を省く分だけ、観測の輪郭がむき出しになる。普段ならそこに助かる。今は逆だった。
視線は合っているが認識が一拍遅れる。
大丈夫と言うための処理が崩れる。
睡眠時間の把握が曖昧。
反射では返せるが、その先が続かない。
食事を入れた後、一時的に呼吸が戻る。
戻る、と言っても回復ではない。処理の連続性が切れただけだ。斎太もそれを分かって書いている。直したとは一言も書いていない。止めた、それだけだ。そこが余計に重かった。
アキは端末を伏せ、目を閉じた。
一致している。
断定はできない。できないが、軽症の側へ逃がす材料もない。あの時の話にあった崩れ方と、斎太の記録が示す綻びは、嫌になるほど噛み合っていた。
押しても地獄、引いても地獄。
頭の中で言葉が先に固まる。
活動を続ければ、負荷は増える。本人のモチベーションが高いほど、さらに危ない。頑張れる人間ほど止まれないからだ。しかもライバーは企業所属でも個人寄りだ。自分の責任、自分の意志、自分の愛着、自分の数字、自分のファン、その全部を自分で抱え込む。誰かに無理やり走らされているだけの人間より、もっと厄介だ。自分の足で走っていると思っている分、折れるまで速度を落とさない。
だから止めるべきだ、と論理は言う。
けれど、引けば助かるわけでもない。
活動から引かせれば、別のものが崩れる。支えになっていたものが消えた時、人間は急に良くなったりしない。むしろ、立っていた理由ごと失う。寿命は戻らない。消耗はなかったことにならない。その上で、苦しみだけが手元に残ることもある。明かしても、隠しても、苦しい方へ転ぶ可能性がある。
アキは自分の指先を見た。静かだ。震えてはいない。震えていないことに安心はない。こういう時に手が震えない人間は、たいてい判断だけが残酷になる。
医者になる人間として、何を選ぶべきか。
問いの形にすると綺麗だが、実際はもっと汚い。目の前の命を優先するなら、他のものを傷つける。特に斎太を。斎太はもう、かにゃの中に入っている。他人だから助けられないと理解しながら、それでも止める側へ立っている。そこにさらに重いものを渡せば、今度はあちらが削れる。
では、斎太を守る方へ寄るか。
そうすれば、かにゃの方を見捨てることになる。見捨てる、と言い換えないための表現はいくらでもあるだろう。慎重に距離を取る。過剰介入を避ける。構造を壊さない。だが、実態は変わらない。危険域の可能性がある相手から目を逸らすだけだ。
どちらも綺麗ではない。
アキは端末をもう一度開いた。斎太の文面は相変わらず乾いている。そのくせ、一行一行に手触りがある。料理を出したこと。量は最小であること。会話を続けなかったこと。相手が一時的に戻ったこと。それを「助かった」とは書かず、ただ悪化が止まったとしか記さないこと。
そこに救いを見たわけではない。むしろ逆だった。斎太は信じられる。だから余計に逃げ道が減る。
この人は、壊れると分かっている相手でも放っておけない。しかも、正面から抱え込むのではなく、自分で限界を見切った上で、それでも最低限の手を入れる。そういう人間だ。そこまで分かっていて、この人を守るためにかにゃを切る、という判断をアキは取れなかった。
「……最悪」
誰に向けたわけでもない言葉が、診察室の机の上に落ちる。
助けるしかない。
助ける方へ寄せる。斎太を信じて、かにゃを助ける側へ回る。それ以外は選べない。
ここでようやく、決断だけが固まった。
そして同時に、その先に手段がないことも確定する。
薬でどうにかなる段階かも分からない。検査に引きずり込める立場でもない。活動を止めれば改善する保証もない。続ければ悪化する可能性が高い。秘密の扱いも、構造の処理も、人間関係も、どこを触っても別の破綻が起きる。
方針だけ決まって、方法が一つもない。
それでも選ばなければならない。
アキは額に手を当て、そのまましばらく動かなかった。疲れているのではない。疲れていることにして、考える速度を落とそうとしていた。だが、頭の方は止まらない。止まってくれない。
モチベーションだけが人を生かしている状態は、見た目よりずっと長く続く。長く続くから人は錯覚する。まだ保つ、まだ持つ、まだ一回は、まだ今日までは、まだ今月は。その「まだ」の積み重ねが人を殺す。分かっている。分かっているのに、今この場で切れるカードは一枚もない。
通知画面に残った斎太の名前を見て、アキはようやく息を吐いた。
信じると決めた。助ける方へ回ると決めた。だが、それで状況が良くなるわけではない。
誰かが損をする。誰かが削れる。下手をすれば、全員が少しずつ失う。
絶望は、選ばなかった時だけでなく、選んだ後にもちゃんと悪化する。




