潮の様に
大御所は机に肘をつかず、背もたれにも預けず、妙に中途半端な姿勢で座っていた。目の前には紙が一枚と、触っていないペンが一本。視線は斎太の顔ではなく、その少し横を見ている。
斎太は距離を詰めて、耳元で短く何かを言った。声は外に漏れない。内容も出さない。
その瞬間だけ、大御所の動きが止まる。
呼吸も、瞬きも、反応も。
机の木目の上に、小さな水の粒がひとつ落ちた。
大御所は何も言わない。拭きもしない。ただ一度だけ視線を落として、すぐに元に戻した。
斎太はそれ以上見ずに、椅子を引いて立ち上がる。
何も残さないまま、その場を離れた。
廊下に出ると、さっきまでの空気が薄くなる。人の声は遠く、生活音に近いものだけが残る。扉をいくつか越えて、奥へ進む。
その先の部屋に、煌美かにゃがいた。
椅子に座っている。姿勢は崩れていない。背筋は伸び、膝の上に置いた手の形も整っている。中性的な顔立ちだが、重心の置き方や指先の扱いは明確に女側に寄っている。作っているというより、身体に馴染んでいる動きだった。
完成されている、という印象が先に来る。
そのまま視線が合う。
「……あ」
かにゃが先に声を出した。
返事はすぐだが、ほんの一瞬だけ間が空く。反応の速度が合っていない。目は合っているのに、認識が遅れて追いつく形になる。
「すみません、ちょっと」
言葉は整っている。笑顔も形としては崩れていない。
ただ、切り替えだけが速すぎる。
呼吸も少しだけ浅い。
斎太はそのまま距離を詰めすぎない位置で止まる。
「待たせたな」
「いえ、大丈夫です」
返答は普通だ。普通だが、やはり一拍だけ遅れる。
所作は崩れない。視線も外さない。だからこそ、そのズレだけが浮く。
このタイプで、このズレは出ない。
斎太はそこで確定させる。
壊れ始めている。
「……あの」
かにゃの方から言葉が出る。止めるか迷って、そのまま出した声だった。
「スタッフの方、ですよね」
「いや、自分がスチーラットだ、驚いてくれ」
「あ、驚いときます。わ!」
視線が一度だけ上下する。露骨ではないが、見ている。
柔らかい、と言い換えてもいい。圧がない。仕事の顔に見えない。
かにゃの肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
意図したものではない。勝手に抜けた。
「……すみません、変なこと言って」
「別にいい」
斎太はそれ以上拾わない。
「座るか」
テーブルの方を軽く指す。
理由はつけない。流れだけ作る。
かにゃは一度だけ頷いて、立ち上がる。動き自体はきれいだ。重心もぶれない。ただ、立ち上がるまでの間がほんの少し長い。
そのまま二人でテーブルの前に移動する。
向かい合う位置に椅子がある。
斎太が先に腰を下ろすと、かにゃもそれに合わせて座る。
正面に顔が来る。
距離が固定される。
かにゃはそこで一度、視線を落としてから上げた。
整った形のまま、ほんのわずかに遅れている。
かにゃは視線を合わせたまま、ほんの一拍だけ遅れて瞬きをした。
「えっと、今日は」
言い出してから言葉を探す。内容自体は決まっているはずなのに、出す順番だけが崩れている。
「その、確認とか、ですよね」
「そうだな」
短く返すと、かにゃはすぐに頷く。頷きは綺麗だ。角度も速さも整っている。けれど戻す時の首の動きがわずかに遅れる。
「すみません、ちょっとだけ、ぼーっとしてて」
「見りゃ分かる」
強く言っているわけでも、責めているわけでもない。ただ事実だけを置く。
かにゃは一度だけ口を閉じた。そのまま笑顔の形を作る。作れているが、維持の方に意識が行っているのが分かる。
「大丈夫です、すぐ戻ります」
戻す、という言い方をする。
戻っていない自覚がある。
斎太はそれ以上踏み込まない。ここで「無理するな」と言えば、そのまま崩れる。逆に放置すれば、この状態のまま削れていく。
どちらも使えない。
「最近、忙しいか」
問いとしては軽い。返答の幅も広い。
かにゃは一度、視線を横にずらしてから戻す。
「……普通です」
即答ではない。言葉を選んだ形でもない。どれを出すか決まっているのに、そこへ辿り着くまでに時間がかかっている。
「配信も、いつも通りですし」
続ける。整えに入る。
「レッスンも、そんなに増えてなくて」
一つずつ並べる。並べ方は正しい。順番も間違っていない。
ただ、間が合わない。
言葉の切れ目ごとに、呼吸が遅れる。
「だから、別に」
そこで止まる。
“別に何でもない”を言い切る前に、喉だけが先に詰まる。
かにゃは一度だけ息を吸い直した。深くではない。浅く、急いで整えるための吸い方。
「……大丈夫です」
最後は押し切る。
押し切った形のまま、視線を逸らさない。逸らさないことに集中している。
斎太はその顔を見たまま、何も言わない。
整っているものは全部整っている。姿勢も、手の位置も、言葉の内容も。
ただ、処理だけが追いついていない。
「昨日、寝たか」
「……はい」
間。
「寝ました」
言い直す。
一回目の返答が曖昧だった自覚がある。
「何時間だ」
「……」
かにゃは答えようとして、数を探す。探している間に、表情の形が一瞬だけ崩れる。すぐに戻す。
「えっと、三時間……くらい」
確定していない数字を出す。
「その前は」
「……覚えてないです」
そこで初めて、言葉が落ちる。
整えきれない部分が出る。
かにゃは一度だけ、唇を噛んだ。噛む強さは弱い。癖としてやっている動きだが、やめるタイミングが遅れる。
「でも、ほんとに、大丈夫で」
続けようとする。
続けるための言葉は用意できている。
ただ、次の一語が出ない。
空白が伸びる。
視線だけが固定されたまま、口が少し開いて閉じる。
そのまま、何も出てこない。
呼吸だけが一拍ずれて、戻らない。
かにゃはそこで初めて、目を細めた。泣きそうな顔ではない。ただ、焦点を合わせようとしてうまくいっていない顔だった。
「……すみません」
小さく言う。
謝る必要のない場面で謝る。
どこが崩れているのか、自分でも把握できていない。
「ちょっと、だけ」
言葉を足す。
「ほんとに、ちょっとだけなんで」
“ちょっと”で押し込もうとする。
斎太はそこで判断を切る。
このまま会話を続けても、戻らない。むしろ削れる。
言葉は使えない。
使えば、その分だけ崩れる。
斎太は椅子から少しだけ体を離した。
視線を外さずに、短く言う。
「待ってろ」
それだけ残して立ち上がる。
かにゃは止めない。
止める言葉を出すまでに、もう一拍必要だった。
斎太はそこで線を切る。
これ以上は触れない。触れても戻らない。
言葉を重ねれば、その分だけ崩れる。
解決は出来ない。
だから一旦、対症療法に留める。
「待ってろ」
短く残して立ち上がる。
止める声は来ない。来る前に動く。
台所へ入る。
新しく何かを作る時間は取らない。
残っているものでいい。
さっきの分の、余り。
鍋に残った味噌汁。
少しだけ減っただし巻き。
米もある。
西京焼きも一切れ残っている。
手を加えるのは最小でいい。
火にかけ直す。
温度だけ戻す。
味はそのままにする。
器に盛り直す。
量は増やさない。
ただ、もう一度“食える形”に整える。
それだけでいい。
盆に乗せて戻る。
かにゃはさっきと同じ位置にいる。
姿勢は崩れていない。
だが、動きが止まっている。
視線が固定されたまま、何も処理していない。
斎太は向かいに座らない。
横に置く。
「食え」
説明はしない。
理由も言わない。
かにゃは一度だけ斎太を見る。
その視線も少し遅れる。
「……今ですか」
「今だ」
間を置かず返す。
かにゃはそれ以上言わない。
言えない。
箸を取る。
持つまでに一拍。
そこから先は止めない。
だし巻きを一口。
噛む。
飲み込む。
そこで初めて、呼吸が変わる。
続けて味噌汁。
湯気に顔を寄せる。
そのまま口をつける。
手元がわずかに揺れる。
落ちた一滴が椀の中に混ざる。
止めない。
そのまま飲む。
米を口に入れる。
噛む。
飲む。
順番は崩れない。
考えずに動ける形に戻る。
かにゃは何も言わない。
言葉にする余裕がない。
ただ、手だけが止まらない。
斎太はそれを見ている。
それ以上はやらない。
戻しているわけじゃない。
ただ、崩れ続ける流れを切っているだけだ。
それで十分だった。
かにゃの手は止まらない。
だし巻き、味噌汁、米。
順番は乱れない。考えなくても辿れる動きに戻っている。
さっきまで引っかかっていた間が消えている。
呼吸も浅いままではあるが、途切れない。
斎太は何も言わない。
視線も合わせない。ただ、崩れが進まないことだけを確認する。
完全には戻っていない。
戻るとも思っていない。
それでも、さっきまでのように削れ続ける状態ではない。
かにゃが箸を止めた。
「……すみません」
小さく言う。
謝る理由はない。
それでも出てくる声だった。
斎太は返さない。
返す言葉が必要な場面じゃない。
かにゃは一度だけ目を閉じて、開く。
視線が合う。今度は遅れない。
「……助かりました」
そう言って、少しだけ息を吐く。
そのまま姿勢を崩さない。
崩さないまま、力だけが抜けている。
斎太はそれを見て、初めて椅子にもたれた。
ここまででいい。
それ以上は、自分の領域じゃない。
何かを変えたわけでも、解決したわけでもない。
ただ、落ち切るはずだった流れを一度だけ止めた。
それだけで十分だった。
アキに聞く為の録画は切った、これ以上心労は与えれない、親父に言ってコラボ相談で覆い隠して休ませるべきだだ。




