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父の形見は美少女Vtuber  作者: 伊阪証


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32/51

新天

ティラミス風に仕上げたピザは、彼女が来る前にもう冷え切っていた。

薄く焼いた生地に染み込ませたコーヒーの苦い匂いが、甘さより先に部屋へ残っている。

マスカルポーネは落ち着き、表面のココアも湿気を吸っていない。

断面は崩れず、皿に移しても形を保てる硬さがある。

待たせてから出すものではないし、来てから慌てて仕上げるものでもない。

最初からそういうつもりで用意しておいた。


呼び鈴が鳴る少し前から、家の中は妙に静かだった。

冷蔵庫の低い唸りと、壁際の時計の秒針だけが動いている。

皿を一枚、正面に置く。フォークを隣へ揃える。

そこでようやく、チャイムが鳴った。


扉を開けると、そこには帽子を軽く取り、穏やかな、けれど芯の通った微笑みを浮かべた「彼女」が立っていた。

別事務所の大御所。界隈を牽引するトップランナーでありながら、その佇まいに威圧感はない。

代わりに、周囲の空気を自然と整えてしまうような、圧倒的な「品格」があった。

靴を揃える所作一つにも無駄がなく、日々の研鑽が日常の挙動にまで浸透しているのが分かる。


「夜分に失礼するよ、斎太さん。……急な訪問を許してほしい」


声は低くないが、響きが深く、余計な虚飾を排した誠実なトーンだった。


「いえ、お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」


彼女は通された先を一瞥し、最小限の視線移動で状況を把握した。

確認の仕方が速い。そして何より、人のプライベートな空間に対する「敬意」がその眼差しに宿っている。

この謙虚さと解像度の高さこそが、彼女を頂点に留めさせている理由なのだろう。


席につく前に、彼女の目がテーブルの皿へ落ちた。


「おや、もう用意してくれていたのかい?」


「はい。貴女を待たせるような無礼は、僕の論理が許しませんから」


「ふふ、相変わらず丁寧だね。……心遣いに感謝するよ」


礼を述べ、彼女は静かに椅子に座る。

背もたれに体重を預けすぎず、自然体でありながら、いつでも次の動作に移れる柔軟な座り方。

鍛え上げた人間の、静かな機能美がそこにあった。


皿を寄せると、彼女はフォークを手に取った。

最初の一口は小さい。甘さを確かめるより先に、苦みと生地の具合を「味わう」ような、落ち着いた食べ方だ。

二口目で、ようやく彼女の口元が優しく緩んだ。


「これは素晴らしい。……ボクはこういう、芯のある苦みは大好きだよ」


「そう言っていただけると光栄です。貴女の好みに合わせ、少しだけ毒を効かせておきました」


「はは、流石だね。……本当に美味しいよ」


そこまでは、極めて贅沢な、沈黙さえも心地よい時間の交換だった。

世間話で間を埋める必要はない。お互いがこの場を「特別な時間」として共有していることが分かっていたからだ。

皿の上が少し減ったところで、彼女は静かにフォークを置いた。

金属が皿を鳴らさない。徹底された、美しい動作だった。


「……さて、相談に乗ってもらえるかな」


最初からそのつもりで来ている、真摯な声だった。


「はい。伺いましょう」


彼女は頷く。だが、すぐに核心へは入らない。

一度目を閉じ、言葉の優先順位を整えてから、静かに、重みのある口調で語り始めた。


「同期が五人いたんだ。……今は三人。二人、辞めてしまったよ」


余計な感傷を排しつつも、去った者への情を微かに滲ませた言い方だった。

今ここで語るべき「事実」を、彼女は正確に選んでいる。


「残っているうちの一人が……男の子なんだ」


はっきりと言った。曖昧さはない。

別事務所の大御所が、他社の後輩にこれを打ち明けることの重みを、彼女は誰よりも理解している。


「女子限定を掲げる事務所ですね。当然、表には出されていないはずです」


ココアの粉が指先に付いたのを、彼女は事務的に、けれど優雅に払った。


「ボクや先輩たち、それに元の社長や役員は知っている。……周知の事実、だったんだよ」


「……今の社長は?」


「知らないんだ。……話が通っていない」


そこだけ、彼女の顎のラインが硬くなった。

不信ではなく、組織としての「不備」を憂う、トップとしての責任感。


「元々、入った時点で例外だったんだ。事情もあり、実力もあった。だから採用された。そこまではいい。……だが、現社長にだけはその『事実』が伏せられたまま、今日まで来てしまったんだよ」


彼女はフォークを取ることなく、真っ直ぐに僕を射抜いた。


「しかも、その子が今の活動の中核なんだ。年齢も、身体能力も、継続の面も。……正直、今事務所が回っている部分の圧倒的な割合が、その子という『基盤』ありきなんだよ」


ここで初めて、彼女の呼吸が僅かに鋭くなった。

事実を並べたことで、その不合理な構造への危惧が漏れたようだった。


「……彼が抜けたら、事務所は崩れますか」


「かなり崩れるね。……いや、形を保つことすら難しくなるだろう」


即答だった。希望を混ぜない、冷徹なまでの市場予測。


「隠し続ける、公表する、辞めてもらう。選択肢はそれだけですが……」


「本人が、すべてを理解しすぎているんだよ」


彼女の声に、切なさが混じる。


「隠せば仲間に負担を強いる。公表すればこれまで黙っていた側まで巻き込む。辞めれば、自分が残した穴を仲間がどう見るかを知っている。……どれを選んでも罪悪感が残るから、あの子は一歩も動けなくなっているんだ」


彼女の指先がテーブルの下で組まれているのが、肩の筋肉の動きで分かった。


「……それで、僕に。外部の観測者に頼ることにしたのですね」


「ええ。内部で回せば、全員がどこかで当事者だ。誰も鏡になれない。斎太さんなら、この歪な盤面を、最も合理的な形で組み替えてくれると思ったからだよ」


やはりそれも、剥き出しの事実だった。

かつての仲間も、現社長も、相談相手ではなく「処理の対象」でしかない。

その真空地帯に、彼女は最も信頼できる「理性の代行者」として、僕を招き入れたのだ。


「……承知いたしました。では、報酬の話を」


「ふふ、斎太さんとのコラボ配信……なんて、冗談だよ。ボクにできることなら、何でも言いなさい」


そこだけ少し、彼女の声音に年長者としての柔らかな余裕が戻った。


「女性リスナーは動きます。早いけれど、飽きるのも一瞬です。でも男性は動きません。……けれど、最後に澱のように『残る』。そうでしょう?」


「その通りです。……では、聞かせてください」


僕は視線を鋭くし、業界の女王を射抜いた。


「社長と本人、どっちを先に『触る』べきだと思いますか?」


これは相談の形を借りた、究極の査定だ。


「社長だね」


僕が答えると、彼女はほとんど間を置かずに頷いた。


「ボクも、そう思っていたよ。……本当に、気が合うね」


速かった。確認作業が終了した、清々しいまでの勝者の顔だった。


「本人を説得しても原因は残ります。……癌は、上にある」


「ええ」


「本人に何かを選ばせる前に、まず盤面を掃除する。それが先決です」


「そうだね。……斎太さんに会いに来て、本当に正解だったよ」


そこでようやく、彼女の肩から力が抜けた。

問題は山積みだが、見るべき方角が一致したことへの安堵が、微かな微笑みとなって漏れた。


「……頼りにしているよ、斎太さん。この業界の『正解』を、ボクに見せておくれ」


「ええ、お任せください。……アキを呼びます」


僕はスマホを手に取った。


「アキ」


コール音は極めて短かった。


『……内容次第よ、斎太』


「事務所の再編だ。社長側から外堀を埋める方針で固まった。来てくれ」


電話の向こうで、一瞬の静寂。僕の声を、そして背後にいる気配を測る、アキらしい沈黙だ。


『分かったわ。十分で行く』


通話が切れる。

彼女はそれを聞いて、残っていた最後の一切れに、ようやく優雅にフォークを入れた。


「来るかい?」


「ええ。貴女を待たせるような無礼は、彼女もしませんよ」


「ふふ。……楽しい夜になりそうだね」


彼女はそこで、小さく笑った。

声に出すほどではない、喉の奥で一度だけ響くような、王者の余裕と信頼に満ちた笑いだった。


皿の上が空になる。彼女はフォークを完璧な角度で揃えて置いた。

窓の外では、日は完全に落ち、部屋にはコーヒーとココアの重い匂いだけが残っている。

三人で扱うべき「業界の劇薬」の問題へ、準備は整った。


十分後、正確に次の呼び鈴が鳴った。

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