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父の形見は美少女Vtuber  作者: 伊阪証


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隣接

外へ逃げる、という選択肢は最初からなかった。窓の向こうはウラジオストクの夜で、笑えるほど容赦がない。二人とも薄着のまま部屋にいたのは、いつもの悪い癖だったが、こういう時に限ってそれが逃走経路を潰す。下手に外へ出れば、ストーカーより先に寒さで行動が鈍る。だから最初に斎太が切ったのは、逃走ではなく室内戦だった。


廊下のカメラに映った位置は隣室。だが、そこに「いる」と確認できた時点で、既に壁一枚の距離だと考える方が自然だった。クローゼットの奥が妙に静かすぎる。しかも、音が消えた後の沈黙が長い。喚くタイプならもっと分かりやすい。だが今いる相手はそうではない。静かに詰めてくる。声を荒げない分、むしろ手段の選択が早い。殺しに入ると決めたら、火を使うことも躊躇しない。現状、一番確率が高いのはそこだった。


斎太はドア側へ本棚を押していき、そのままクローゼットの前にももう一つ寄せた。見た目には明らかなバリケードだ。扉を塞ぎ、侵入を遅らせるための応急処置にしか見えない。実際、アキも最初の数秒はそう受け取った。


「な、なにをしてるの斎太……」


口ではそう言う。だが表情はそこまで崩れていない。目線が一瞬だけ机の下、次に壁際のコンセント、最後に自分の鞄へ落ちる。まだ盗聴器が残っているかもしれない。そう考えている時の顔だ。理解していないふりをしながら、理解している側の警戒をしている。口と顔の方向が違う。


斎太は本棚の位置をさらに数センチだけずらし、床との噛み合わせを確認した。重みが一点に乗る角度へ、静かに整える。


「姉のストーカー処理を何度してきたと思っているんだ」


言い方だけ聞けば無駄に頼もしい。だが実際のところ、壁の向こうの気配をカメラで拾って焦っているだけだと、アキは半分くらい思っていた。問題は、その焦り方が妙に手慣れて見えることだった。


ドアの向こうで、何かが一度だけ擦れた。金属ではない。布か、靴底か、その程度の軽い音だ。だが、それだけで十分だった。相手がそこにいるのではなく、既に「どう入るか」を考えている段階にいると分かる。クローゼットの奥も同じだ。穴を開けているか、もう開けている。どちらにせよ、待てば有利になる状況ではない。


アキは息を殺しながら、斎太の手元を見る。本棚はドアとクローゼットの前を塞いでいる。けれど、斎太の足の位置だけが妙だった。防ぐ位置ではなく、踏み込む位置にある。腰も落ちている。押し返す準備ではなく、突っ込む準備の身体だった。


「……少し静かにしてろ。とっておきがあるんだ。アスリート共から教えてもらったものだがな」


その瞬間、アキはようやく本棚の意味を理解した。バリケードではある。だが、本命はそこではない。重くて、正面に面が広くて、勢いが乗れば壁ごと持っていける。塞ぐために置いたように見せて、最初から反撃用に立てている。


壁の向こうは相変わらず静かだった。その静けさがかえって悪い。交渉の余地がある相手なら、もう少し音が出る。ドアノブを試すとか、呼びかけるとか、こちらの反応を見るための揺さぶりが入る。今の相手にはそれがない。沈黙を貫いたまま、必要ならそのまま燃やす。そういう種類の静けさだった。


斎太は本棚の側面に肩を当て、アキへ顎だけで合図した。


本棚はドアとクローゼットを塞ぐ形で置かれている。外から見ればただのバリケードだ。だが斎太の足の置き方だけが違う。押し留める配置ではなく、踏み込むための角度にある。重心も前へ寄っている。


アキはそれを見て、意図だけを拾う。口はそのまま、表情も遅らせる。分かっていない側を崩さない。盗聴が残っている前提なら、ここで理解を出す方が危ない。


クローゼットの奥で、壁の内側を押すような圧が一度だけ走る。音はほとんど出ない。だが距離が近すぎる。向こうも既に同じ壁を見ている。


斎太は本棚の側面に肩を当てる。手で押さない。体重を一点に集める位置へ微調整する。石膏ボードの面、柱の入っていない箇所だけを狙う角度に合わせる。


合図は出さない。


斎太の踏み込みと同時に、本棚が前へ滑る。押す動きではなく、衝突させる動きに変わる。床を擦る音より先に、壁の方が割れる。石膏の軽い破断音と同時に、面が内側へ抜ける。


アキも同時に体重を乗せる。遅れない。巻き込まれる形ではなく、最初から同じ方向へ押し出す。


クローゼット内の壁が崩れ、そのまま隣室へ抜ける。


向こうにいた人影は、反応のための時間を取れない。押し出された本棚の面と質量をそのまま受ける。逃げる方向はない。


斎太は崩れた開口部を踏み越え、倒れた相手の上半身に体重を落とす。腕が動く前に手首を潰し、アキが反対側から肩口を押さえる。刃物に触れる動線だけを先に切る。


抵抗は一瞬で止まる。声も出ないまま、力が抜ける。


石膏の粉だけが、遅れて空気に広がる。


斎太が肩からぶつかった瞬間、本棚は「押す」ではなく「発射する」物体に変わった。床を削る音と、脆い壁材が割れる音が同時に鳴る。アキもそのタイミングに合わせて体重を乗せる。板が裂け、石膏の粉が吹き上がり、隣室との境界が一気に崩れた。


向こうにいた人影は、一歩引く判断より先に本棚の質量を受けた。逃げる余地はない。斎太はそのまま崩れた面を踏み越え、押し倒された相手の上半身へ体重を落とす。アキは反対側から腕を押さえ、刃物へ伸びる動きだけを先に潰す。確保と制圧に要したのは、まともな悲鳴が出るより少し短いくらいだった。


相手はそこでようやく声にならない音を漏らしたが、遅い。本棚の角と床と人の体重で挟まれた状態では、身体の自由が残らない。斎太が手首を踏み、アキが肩口に膝を入れる。気絶までは一瞬だった。沈黙型の相手は、崩れた時もやはり静かだった。


粉塵の中で、アキは咳き込みながら隣室を見渡した。クローゼットの内壁には、こちらへ抜く途中だったらしい穴が確かに開いている。まだ完全に貫通していないが、あと少しで手が届く大きさだった。最初から壁一枚の話だったのだ。


斎太は相手が完全に落ちたのを確認してから、ようやく肩の力を抜いた。頬に石膏の白い粉がついている。息も少し上がっている。格好はつけているが、近くで見ると普通に必死だ。


「……実家リフォームするから壊していいって許可は取ってある」


本棚の残骸を一度見て、それから壁の穴へ視線をやる。


「親父につけといてくれってな」


アキはその言葉を聞いて、一瞬だけ本気で呆れた。緊張が抜けたせいもあるが、今の一連の流れのあとに出す台詞ではない。


それでも、相手を押さえたままの斎太の横顔は、石膏まみれで妙に真面目だった。だから余計に、全部計算通りだったように見せようとしているのが透ける。


――いや、これ絶対、途中から勢いで押し切ったでしょ。


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