洩光
次のスケジュールは、すでに冷徹なまでに決まっていた。
誰がどの時間帯に動き、どの経路を選び、誰と誰を接触させないか。検証としての体裁は完璧に整っている。話し合いの中身は、途中から犯人の正体を探る不毛な当て推量に変わっていたが、それでも計画の骨組みだけは崩れていない。現場の空気は、停滞よりはむしろ、望まぬ方向へ加速している側だった。
そのはずなのに、アキは肌に張り付くような居心地の悪さを拭えずにいた。
斎太の態度が、微かに、だが決定的に違う。
露骨に避けてくるわけではないし、問いかければ言葉も返ってくる。内容も整合性は取れている。だが、以前なら呼吸と同じ速さで返ってきていた言葉の間に、今は一拍の「検品」が挟まる。手渡していたはずの前提が、彼の前で一度止まる。視線が合っても、そこには見えない膜が一枚挟まっているようだった。
最初は、自分の考えすぎだと思った。
ストーカーという実害が出ている。警戒して当然だし、悪意の矛先すら曖昧な現状で、いつも通りの距離感を保てと言う方が無理な話だ。自分だって、日常を浸食されている。窓の位置を無意識に確認し、カーテンの揺れに怯え、外で鳴る靴音の数を数えてしまう。多少のぎこちなさは、この「異常な時期」の副作用に過ぎない。理屈では、いくらでもそう説明できた。
ただ、理屈で納得できることと、心が削られないことは別だった。
会話の最中、斎太が慎重に言葉を選んでいるのが分かる。今までなら共有されていたはずの情報が、彼の喉元でせき止められる。自分が信用されていない、と断言できるほど明確な拒絶ではない。だからこそ厄介だった。責める理由はない。喧嘩にもならない。だが、無視していいほど軽くもない痛みが、澱のように溜まっていく。
アキは自分に何度も言い聞かせた。これはストーカーのせいだ。こっちだって同じくらい神経質になっている。だからこれは個人的な感情の摩耗ではなく、状況に引きずられた一時的な変質だ。
分かっている。分かっているのに、心が沈む。
斎太が何かを隠している、という確信があるわけではない。むしろ隠し事をするなら、彼はもっと露骨に壁を作るはずだ。そうではなく、情報の「共有の作法」だけが少しずつ変わっている。自分だけが一歩説明の輪の外に置かれているような、その半端なズレが一番きつかった。
その日も、翌日の動線を確認するために同じ部屋にいた。
机の上には時刻と経路が記されたメモが並んでいる。斎太はそれを見つめ、最低限の修正を書き加えていたが、アキの方を一度も見ていない。
アキは何度か口を開きかけ、そのたびに呑み込んだ。問い詰めたいわけではない。だが、この沈黙に耐え続ければ、自分の中で膨れ上がる被害妄想に食い殺されるのも分かっていた。
「……何か、隠してない?」
できるだけ軽く聞いたつもりだった。だが、放たれた声は自分でも驚くほど固く、震えていた。
斎太は返事をしない。書きかけの文字の上で、ペン先がピタリと止まる。それだけで、アキの胃のあたりがじわりと重くなった。
何もないなら、即座に否定すればいい。
問いを受けてから生じた、この数秒の空白こそが答えだった。アキはそんな受け取り方をしたくなかったが、本能が先に絶望を選択してしまう。
「別に、ならいいんだけど」
付け足した言葉は、情けないほど弱かった。
斎太はようやく顔を上げた。だが、その視線はアキの状態を「確認」するようで、余計に堪えた。やっぱり自分は、彼が守るべき「内側」から外されたのではないか。ストーカーへの警戒という名目のもと、その警戒の輪の中に、自分は入れてもらえていないのではないか。
馬鹿みたいだ、と自嘲する。こんな状況で、距離感ひとつに傷ついている場合ではない。ナイフまで持ち出され、家族の誰が狙われているかも分からず、家の内側すら安息の地ではないというのに。自分の感情の機微など、この事態の前では足を引っ張る重りにしかならない。
そう自責すればするほど、逆に意識は沈んでいく。
斎太は再びメモに視線を戻した。アキはその横顔を見て、胸の奥がきりきりと締め付けられるのを感じた。責めたいわけではない。怒りでもない。ただ、自分が少しずつ、彼という存在から切り離されていく感覚だけが残る。
部屋には、紙を擦るペンの音だけが響いていた。アキは何か手伝おうかと考えたが、今のこの空気の中で言葉を発する勇気が出ない。立ち尽くしたまま、鞄の持ち手を無意識に握りしめた。金具が掌に食い込み、冷たい。
不意に、斎太が手を止めた。
「……すまない」
謝罪が先に来たことで、アキは逆に息を詰まらせた。謝られるということは、やはり「隠し事」があったのだと、認められたも同然だからだ。
「……何が」
「このままだと、お前に余計な負担をかける」
「だから、何の話をしてるの。はっきり言ってよ」
刺々しくなるのを止められなかった。
斎太が椅子から立ち上がる。その瞬間、アキは彼の動きが「いつもの冷静な斎太」と決定的に違うことに気づいた。迷いがない。何かを誤魔化している人間の動きではなく、最優先事項が決まった人間の、苛烈なまでの速度。
斎太は机の横を通り抜け、アキの鞄をひったくるように取った。
「ちょ、何、いきなり!」
「動くな」
ジッパーが乱暴に開かれる。中身が机の上に並べられていく。ノート、ペンケース、ポーチ。几帳面な彼にしては、その手つきには焦燥が滲んでいた。
鞄が空になったところで、斎太は内側の布地に指を這わせた。
アキは意味が分からないまま、その光景を見ていた。
次の瞬間、斎太の爪が底の端を強く引っ掛けた。裏地が剥がれ、その隙間に、小さな黒い部品が埋まるように貼り付いているのが見えた。
斎太がそれを摘み上げる。
「一つ」
アキの思考が停止した。
冗談ではないと理解するまでに、永遠のような一秒が必要だった。こんな爪先ほどの金属ひとつで、さっきまでの「沈み方」の意味が、世界ごと反転する。
「……え?」
ようやく出た声は、掠れていた。
斎太は答えず、今度は壁際のコンセントへ向かった。カバーを外す手つきが、異様に早い。差し込み口の内側に指を入れ、同様の部品を引き抜く。
「二つ」
机の上に、二つの「耳」が並んだ。
アキは呼吸が浅くなるのを自覚した。さっきまで感じていた「信用されていない」という苦しさが、形を変えて、別の悪寒となって背筋を駆け上がる。
斎太はクローゼットから上着を出し、裏地を返す。ポケットの影、縫い目の裏、常人なら決して目を向けない場所を、彼は確信を持って暴いていく。
「三つ」
その瞬間、アキの頭の中で何かが音を立ててひっくり返った。
信用されていなかったのではない。
斎太は、自分が「信用できない情報源」にされている可能性を、必死に殺そうとしていたのだ。共有の仕方が変わっていたのも、自分を外したわけではない。この部屋のどこに、そしてアキの持ち物のどこに「敵の耳」があるか分からない状態で、情報を守るために言葉を切り捨てていただけなのだ。
真相が分かり、安堵が来るかと思った。だが実際に来たのは、想像を絶する恐怖だった。
「いつから……」
「わからない。気づいたのは、さっきだ」
「さっき?」
「カメラの映像を見ていて、部屋の音の入り方が変だった。……ノイズが、規則的すぎた」
そこでアキは、恐怖と混乱の真っ只中にいながら、妙に冷めた「気づき」を拾ってしまう。
――いや、この人。
今、さも冷静に状況を支配しているような顔をしているけれど。
――要するに、パソコンでカメラ見てて、異変に気づいて、内心パニックになりながらここまで走ってきただけじゃないの。
表情には出さない。今それを指摘すれば、この張り詰めた空気が妙な方向へ霧散してしまう。
斎太はアキの内心など知る由もなく、並べた部品を睨みつけた。
「外から仕掛けられた量じゃない。この家の中に、もう『いる』前提で考えた方がいい」
アキの喉がひりついた。
「中って……家族の中に、協力者がいるってこと?」
「いや」
斎太は短く否定した。
「入り込める位置にまで手が伸びている、ということだ。出入りの隙を突かれたか、接触されたか。どっちにしろ、聖域はもうない」
彼は黒い部品を一つ、指で弾いた。カツン、と軽い、けれど凶悪な音が響く。
「それと、もう誰を狙っているかなんて段階でもない。家族なら、誰でもいいんだ。こいつは」
「どういう意味……」
「対象を固定していない。依存先も、憎悪も、執着も。その時々で、最も『喰いやすい』に切り替える。悪食だよ、こいつは」
その表現が、吐き気がするほど腑に落ちてしまった。
一人に執着しているのではない。家族というコミュニティそのものを、境界を曖昧にしたまま丸ごと齧りに来ている。
斎太は部品をまとめ、遮蔽性の高い袋に放り込んだ。
「今日はもう、ここまでだ」
「予定は?」
「組み直す。まずはこれの処理と、経路の洗浄が先だ」
ようやく、視線が正面から合った。
さっきまでの「一拍置かれる」ような、あの嫌な距離感が消えている。アキは、彼との絆が繋ぎ直された安心感と、家の中にまで魔の手が伸びている絶望感の、その両方に引き裂かれそうになった。
斎太は袋の口を閉じ、少しだけ声を落とした。
「……悪かった。不安にさせた」
今度の謝罪は、すとんと胸に落ちた。アキはそこでようやく、自分がどれほど追い詰められていたかを思い出し、反動で少しだけ腹が立った。
「……そりゃ、あんな態度取られたら、嫌われてるって思うでしょ」
「分かっている。……だから、ここで止めた」
「もっと早く教えてよ」
「気づくのが遅すぎたんだ」
そこまで真顔で、悔しそうに返されると、もう怒る気力も失せた。
アキは、机に並んだ証拠品と、ノートパソコンの画面、そして斎太の横顔を順番に見た。
見た目だけなら、彼は完璧な「守護者」の顔をしている。冷徹に、迅速に、敵の策を暴いてみせた頼もしいパートナー。
でも、その実態は。
カメラの異音に気づいて血相を変え、アキが一人でいる間に何かが起きていないか焦り、必死に順番を整えて、ようやく「格好がつく形」で種明かしをしただけなのだ。
その温度差を思うと、さっきまで自分を潰そうとしていた絶望の底に、ほんの少しだけ別の空気が入り込む。
「……なんか、すごい格好つけてるけどさ」
「何がだ」
「別に。何でもないわよ」
アキはそこで初めて、手元にあった缶を開けた。プシュッ、と炭酸が弾ける。
「あとで、たっぷり文句言うから」
本当に「あと」があるのかどうか、確信はない。
けれど少なくとも今は、そのくらいの皮肉を挟める程度には、自分の感情が自分のところへ戻ってきていた。




