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父の形見は美少女Vtuber  作者: 伊阪証


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ウォーターズ・カタストロフ

スタジオに入ると、空気の質が変わる。廊下までは人の呼気と機材の熱が混ざっただけの、どこにでもあるテレビ局の匂いだったのに、扉を一枚くぐった瞬間から、そこは光に支配された別の場所になる。天井から吊られた照明が肌の色を均一に塗り潰し、観客席は暗く沈み、代わりにカメラの赤いランプだけが規則正しく瞬く。名前を呼ばれれば拍手が起こり、決められた位置へ立てば、それだけで「海外で活躍した子役」という肩書きが画面の端に現れる。そういう仕組みだった。


彼女はその仕組みをもうよく知っていた。問われる内容も、求められる反応も、笑うべきタイミングも、外していい範囲と駄目な範囲も、年齢に似合わないくらい正確に分かっていた。


「海外の現場って、やっぱりすごいの?」


司会者が明るく振ると、彼女は同じ明るさで返す。


「スタッフさんの数が多いですね。あと、お菓子の種類も」


観客が笑う。軽い笑いだ。正解の音が返ってくる。隣の出演者が「そこなんだ」と被せれば、さらに一段だけ空気が柔らかくなる。全部、予定通りだった。成功している子役としてそこに立つことに、何の難しさもなかった。怖いのは、立つことではない。その先だった。


番組の中盤で、海外特集の一環として短いVTRが差し込まれた。かつて子役として名を売った者たちの「その後」を辿る、よくある構成だった。スタッフは事前に「しんみりしすぎないように編集してます」と笑っていたし、司会者も「ちょっと考えさせられるけど、面白い映像ですよ」と軽く前振りしていた。だから最初は、いつものように処理できるものだと思っていた。


映像の中の元子役たちは、誰も不幸の記号としては映っていなかった。別の仕事をしている者、名前を変えた者、もう業界と距離を取っている者。笑っている者もいたし、落ち着いた声で当時を振り返る者もいた。ただ、それが余計に悪かった。破滅しているわけではない。だからこそ、もっと残酷に見えた。主役だった顔が、今は「そういえば昔いた人」として紹介される。天才だった才能が、「幼い頃はすごかったですね」と過去形で処理される。栄光が壊れたのではなく、丁寧に過去へ移され、整理され、消費し尽くされた後の静かな残骸として並んでいる。


彼女はそこで初めて、自分が見ているのは個々の人生ではなく構造なのだと気づいた。海外でも同じなのだ。言語が違っても、契約の形が違っても、商品として愛される時期があり、その後に別の棚へ移される。それだけの話だった。今スタジオで向けられている拍手も、好意ではあるのだろう。だが、拍手そのものが支えになるわけではない。拍手は次の企画へ進むための潤滑油でしかなく、人をそのままの形で残すためのものではない。


映像が終わる。司会者がうまくまとめ、観客がほどよく笑い、番組は何事もなかったように次の話題へ移る。彼女もその流れに従った。従えた。だが、喉の奥に一度入った冷たさだけは消えない。


収録後、控室へ戻る途中の廊下で、彼女は初めて足を止めた。今すぐ泣きたいわけではないし、誰かに助けを求めたいわけでもない。ただ、自分がこの先どこまでやるのか、その線を引き直さなければならないと分かっただけだ。子役のうちに辞める。少なくとも、その判断だけはそこで固まりかけていた。


「さっきのV、効いた?」


声をかけてきた男は、制作スタッフのような慌ただしさを持っていなかった。プロデューサーの友人で、スポンサー側との話を通す役だと以前紹介されたことがある。桜太と名乗った。現場の人間ではないが、なぜか現場の空気には詳しい。出演者に媚びず、スタッフに威張らず、いつも少しだけ外側に立っている。


彼女は誤魔化す気になれず、短く頷いた。


「同じなんだな、って思いました」


桜太はそこで余計な慰めを挟まなかった。


「そう見えたなら、たぶん合ってる」


肯定とも断定ともつかない、曖昧なくせに逃げ場のない返答だった。彼女はその言い方を嫌わなかった。大人はたいてい「そんなことないよ」と言うか、「でも頑張れば大丈夫」と言う。どちらも、その場を丸めるための言葉に聞こえることが多かった。桜太は丸めない。ただ、彼女が見たものを、見間違いだとは言わなかった。


「辞めたくなった?」


彼女は少しだけ驚いた。質問が速すぎたからだ。だが、それも図星だった。


「はい」


今度は即答だった。


「子役のうちにやめるのが、一番きれいかもって」


桜太は笑わない。むしろ少しだけ考える顔をしてから、廊下の先を顎で示した。


「きれいに辞めるのは、案外難しいよ。辞める時って、だいたい汚れるから」


それから、ようやく少しだけ口元を緩めた。


「でも、汚れても辞める価値があるなら、その判断はたぶん間違ってない」


その言葉は引き止めではなかった。続けろとも言わない。辞めるなとも言わない。ただ、辞める判断を軽く扱わず、その代わり特別視もしない。その温度が妙に心地よかった。


彼女はその日、完全には辞めなかった。辞めるつもりだったし、その決意も本物だった。だが、桜太と会ってからは、その決意にほんの少しだけ猶予が生まれた。業界そのものが怖くなくなったわけではない。むしろ怖さははっきりしたままだ。ただ、その怖さの中で、誰もが同じ調子でこちらを商品棚へ並べてくるわけではないと知った。支えと呼ぶには形が薄い。救済と呼ぶには無責任すぎる。それでも彼がそこにいる限り、もう少しだけ頑張ってみてもいいかもしれないと思ってしまった。


だから彼女は、子役のうちに辞めるつもりを抱えたまま、少しだけ続けた。全部を信じたわけでも、未来を託したわけでもない。ただ、この人がまだ廊下のどこかに立っているうちは、今すぐ降りなくてもいい。そういう程度の踏みとどまり方だった。


コーヒー・カタストロフ

私「またの名を飽和水溶液だ」

友「ただの大量の砂糖入りコーヒーじゃねぇか」

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