ポエティック・ロス
ストーカーの取り合いという、言葉にすると一番どうかしている時間がようやく終わった頃には、部屋の中の熱も半端に抜けていた。全員が勝手に自分のところへ来ると思い込み、勝手に根拠を出し、勝手に譲らず、しかも誰一人として本気で傷ついていないせいで、議論なのか自慢なのかも分からないまま散っていったのだ。斎太はその空気だけが妙に腹立たしくて、台所から缶飲料を二本持って自室へ戻った。
アキは窓の近くに立っていた。カーテンは閉めてあるのに、彼女は何かを見ている時と同じ顔をしている。斎太が缶を一本渡すと、礼も言わずに受け取り、そのまま指先で冷たさを確かめた。
「先に切るけど、お前じゃないだろ」
問いというより、確認だった。アキは缶の縁を親指でなぞり、それからすぐに答えた。
「ええ。少なくとも、本命ではないわ」
斎太は椅子に座り、まだ缶を開けない。
「本命じゃない、ね」
「向いたのは事実だと思う。でも最初から私だったわけじゃない。妥協してこっちへ寄ってきた感じの方が強い」
そこでようやく斎太は缶を開けた。短い炭酸音が部屋に鳴り、すぐに消える。
「理由は」
アキは一口も飲まず、言葉を先に出した。
「接触がないから。会話もない。大学生で初恋って時点でかなり遅いのに、その上で一度も言葉を交わしたことのない相手に、いきなりあの段階まで執着が進むのは不自然よ。普通こういうのって、もっと小さい入口があるでしょう。自分を見た、自分を覚えた、自分の話を聞いた、自分を認めてくれた。本人の中ではそれだけで十分な理由になる。でも今回は、その最初の入口が見えない」
斎太は何も挟まない。アキが自分を低く見積もっているのではなく、順序の話をしているのが分かるからだ。
「だから私に向いた理由は、私だったからじゃない。見える場所にいた、近かった、届きそうだった、その程度の理由で流れてきた可能性が高い」
「敵意は」
「あるかもしれない。だから無関係ではないわ。私か、お義母さんの方に敵意を持っている線はある。でも、それが主軸じゃないと思う」
そこでアキはようやく缶を開け、小さく飲んだ。
「本命候補は、お義父さんかお姉さん」
斎太は缶を持ったまま、少しだけ視線を上げる。
「父と姉、まぁどっちもモテるか」
「ええ。父の方は導線が多い。家の外でも中でも成立しやすい。お姉さんの方も、見た目と生活圏を考えれば十分あり得る。しかも質が悪いことに、片方を見ながら片方へ妥協するのも不可能じゃない。最初から一直線じゃなくても成立してしまう」
斎太はその言い方を頭の中で反転させた。妥協、流用、乗り換え。そこまで行くと感情というより、寄生先の選定に近い。
「伊行は」
そこだけはアキが即答した。
「時期だけ見れば一番疑いやすい。でも、現実には薄い」
「薄いで済ませるなよ」
「済ませてないわ。切ってるの」
アキは缶を持ったまま、机の角に背を預けた。
「あっちは個人情報の管理がほぼ完璧。無駄に出さないし、接触もほとんど作らない。生活圏も固定されていて、しかもマンションのセキュリティが硬い。侵入者が入った瞬間、管理会社より先に大学の連中が反応するわよ」
斎太はそこで少しだけ顔をしかめた。
「ウチのやべぇアスリート共か」
「ええ。スポーツマンシップも人道も、その時だけ綺麗に蒸発するやつら」
「なんでチーム競技が強い学校って、ああ血の気が多いんだろうな」
「連帯感を言い訳にしやすいからじゃない?」
真面目に答えているのに、内容は最悪だった。斎太は缶を口に運びながら、伊行の線を一度きれいに外す。あそこに向かうのは合理的ではない。あまりに難易度が高いし、何より侵入した側が無事で済まない。
「姉の方は」
「問題ない、とは言えない」
アキの返事は速かった。
「下手すれば、お姉さんも同時に見られてる。あなたに向いたと思っていた視線が、実は横に流れているだけかもしれないし、その逆もある。今の段階だと、並行して拾っている可能性は普通にある」
「器用だな」
「器用というより、固定してないのよ。一度妥協した個体って、すぐ替えるから」
斎太はそこで缶を置いた。
「替える」
「依存先も、希望も。最初に思い描いていた形に届かないと分かると、その周辺で代わりを探す。近いもの、届くもの、見えるものに向きを変える。だから、最初に向いていた相手だけを見ていても意味がない」
部屋が少しだけ静かになる。エアコンの弱い送風音だけが続いていた。
「じゃあ消去法で父か」
「そうなる」
アキはそこで初めて缶を握る指に力を入れた。アルミがわずかに鳴る。
「というより、一度妥協したやつはすぐに変えるのよ。依存先も、希望も。だから固定で考えると見誤る」
斎太はその言葉をそのまま飲み込んだ。感情の深さではなく、向き先の軽さが恐ろしい。執着しているくせに、対象の交換だけは驚くほど速い。重いのに浅い。壊れているのに柔軟だ。そこに一番ぞっとする。
「……悍ましいな」
アキは頷かなかったが、否定もしなかった。
「ええ。だから嫌なの。恋愛の形をしてるくせに、恋愛の入口がない。相手を見てるんじゃなくて、相手の上に何かを置いて見てる」
斎太はそこでようやく窓の方を見た。カーテンは閉まっている。だが、外に何もないと断言できる感じもしない。
「父で確定はできない」
「できないわ。でも、今のところ一番近い」
「姉も並行で見られてる可能性がある」
「ある」
「伊行は薄い」
「薄い」
「お前は本命じゃない」
「少なくとも、最初からではない」
一つずつ、置くように確認していく。言葉にすればするほど気分の悪い整理だったが、曖昧にしたままよりはましだった。
その後で、アキは少しだけ声を落とした。
「でも厄介なのは、こっちに向いたのが妥協だとしても、妥協した相手にそのまま執着が定着することはあるってことよ」
「最悪だな」
「最悪よ。最初の本命が誰かとは別に、今見てる相手が次の依存先になるかもしれない」
斎太は缶の残りを一気に飲み切った。炭酸が喉を焼く。
「だったらなおさら、父一本で見るわけにはいかないか」
「そう。父が一番近い。でも、お姉さんを捨てていい理由にはならない」
そこで会話はいったん止まった。結論が出たわけではない。ただ、間違った絞り込みを一つ避けただけだ。それでも、さっきまで身内がやっていた馬鹿みたいな取り合いよりは、ずっと現実に近い。
アキは最後に一口だけ飲み、缶を机に置いた。
「私じゃない、で終わらないのが一番嫌ね」
「妥協して向いたなら、なおさらな」
「ええ。最初から選ばれていない方が、むしろ処理しづらい」
斎太は返事をせず、閉まったカーテンを見たまま動かなかった。向こうが誰を見ているのかはまだ分からない。だが、一度妥協したものをすぐ替えられる手合いなら、父か姉か、あるいはそのどちらも同時に視界へ入れている可能性は十分にある。
そう考えた瞬間、相手の顔が見えないことよりも、相手の中で対象が固定されていないことの方が、よほど気味が悪かった。




