逃げるは恥ではないし役に立つ
路地に残留していた緊張の熱は、夜気の流入とともに緩やかに霧散していった。
アスファルトに転がったナイフは、アキの靴底によって完全に制圧されたまま動かない。斎太はその傍らで、肺の奥に溜まった熱い呼気を吐き出し、乱れた呼吸の周期を物理的に整える作業に没頭していた。隣に立つミミヨンは、一度だけ肩の回旋を確認するように回し、手元に残った硬球をポケットの奥へと収容した。
数分後、遠方からパトカーのサイレンが住宅街の静寂を切り裂いて接近してきた。回転灯の赤光がブロック塀を周期的に舐め、抑えられた排気音と共に二人の警官が路地へと踏み込んでくる。
「……誰が投げた」
先頭の警官が、地面に転がる刃物と、男が逃走した方向に残されたわずかな靴跡を一瞥し、短い問いを発した。
ミミヨンが沈黙を保ったまま、右手を垂直に上げる。
「私だ。腕から落とさせた」
「……落とさせた、か」
警官の視線は、ミミヨンの細い指先から、地面に残された硬球の凹みへと移動した。次に逃走経路の闇を凝視し、彼女の肩の可動域を確認するような鋭い一瞥を投げ、深く息を吐き出す。
「やりすぎだ。自覚はあるか」
ミミヨンは表情を変えず、ただ肩を僅かに竦める動作で応えた。
「刃物が見えた。握らせたままにする選択肢はなかった」
「だからといって、この距離で腕の機能を物理的に停止させる必要はないだろう」
「潰してはいない。一過性の握力低下を狙っただけだ」
「結果としてナイフが弾け飛ぶほどの衝撃だ。理屈は後で聞く」
警官の声に、公務としての硬質な威圧感が混じる。だが、アキの足元の証拠品と、彼女の蒼白な顔色を確認すると、それ以上の追及は一旦停止された。
もう一人の警官が手帳を開き、アキの正面に立った。
「以前から、特定の個人による接触や付き纏いに関する相談は」
「……している。警告も行われているはずだ」
アキの声は、微かに喉の奥で震えていたが、事実に徹した回答を維持していた。
「了解した。データと照合する」
警官はペンを走らせる。
「通常、法的な警告が入れば、対象の行動は抑制される。統計的にはそこで終息するはずだ」
ペンが止まる。
「だが、稀に、警告という外部刺激によって行動原理が変質する個体が存在する」
斎太はその言葉に反応を示さず、ただ暗闇の中で自分の指先が冷えていく感覚を注視していた。警官はピンセットでナイフを回収し、透明な証拠袋へと密閉する。
「今回はこれで処理する。だが——」
提案の途中で、警官は言葉を断ち切った。現状でこれ以上の踏み込みは、職務権限を逸脱すると判断した動きだった。
「……いや、いい。今日はもう帰れ」
ミミヨンが鼻から短く息を抜く。
「次は投げるな、とでも言うつもりか」
「当然だ。次は正当防衛の枠を越える」
「無理だな。同じ状況なら、また投げる」
「無理でもやるなと言っている」
温度を欠いた短いやり取りの後、パトカーは再び住宅街の闇へと消えていった。
翌日。
前日と同じ時間、同じ帰路。
路地に漂う違和感は、排除されるどころか、その質を変えて定着していた。
音がない。
背後に確実に「存在」しているはずの気配があるにもかかわらず、足音一つ、衣擦れの音一つとして物理的な現象が観測されない。ただ、周囲の空気の密度だけが、不自然な重みを帯びて皮膚に圧し掛かってくる。
アキが不意に足を止め、視線だけを周囲の住宅へと向けた。
視界の端、街路に面した一軒の窓。カーテンが半分だけ開かれたその隙間に、光を遮る不透明な塊がある。人影である確証はない。
だが、その窓の配置は、一つ前の角を曲がった際に見かけた光景と、奇妙な既視感を持って重なっていた。
「……中か」
斎太の呟きは、誰の耳に届くこともなく夜風に霧散した。
その住宅は、数日前に居住者が入れ替わったばかりの空き家だった。近隣住民との接触は一切なく、噂すら形成されていない空白の空間。
後日、警察から届けられた報告書には、断片的な事実が羅列されていた。
「家出中」という虚偽の説明で親族を欺き、その住宅に入り込んでいたこと。
「虐待からの避難」という大義名分を盾に、そのまま一室に居座り続けていたこと。
そして、その窓の隙間から、二十四時間にわたってこちらの動線を監視し続けていたこと。
物理的な接触はない。足音も残らない。
警察の巡回すら、室内の平穏を装った壁の前では無効化される。
ただ、一方的な「視線」だけが、絶対的な暴力として成立していた。
その日の深夜。
斎太はデスクに向かい、ペンを走らせていた。
指先の動きは一定だが、その軌道は思考の速度と同期せず、時折不自然な停滞を見せる。ふと顔を上げ、正面の鏡を見つめた。
白い。
数日前まで漆黒だった髪の一部が、根元から急速に色素を失い、銀白色の筋となって浮き上がっていた。照明の反射ではない。
「……いいな。分かりやすい」
小さく漏れた声には、動揺の色はなかった。むしろ、内面で進行している摩耗が物理的な現象として可視化されたことに、論理的な納得を見出していた。
過度のストレスによる身体反応。それだけの事実として、彼はその変化を受容した。
同じ時刻。
モニターの中では、美少女VTuber「スチーラット」が配信を継続していた。
声のトーンは一定。
呼吸の乱れは皆無。
言葉の選択に淀みはなく、計算し尽くされたテンポで視聴者と対話している。
「今日も来てくれてありがとう。ゆっくりしていってね」
現実の摩耗など、そこには欠片も存在しない。
完全に分離された、無機質な理想の虚像。
その画面を見つめる「彼女」は、深い混乱の中にいた。
目の前の「佐倉」は、明らかに生命力の一部を剥ぎ取られ、肉体的な限界へと近づいている。
それなのに、画面の中の存在は、微塵の揺らぎも見せずに完成された安定を維持している。
現実と虚構。その二つの情報が、脳内で致命的な不一致を起こしていた。
「……なんで」
言葉が、制御を離れて漏れ出す。
視線を外すことができない。
一度でも目を離せば、その瞬間に取り返しのつかない崩壊が起きるような、根拠のない予感に支配されていた。
だが、どれほど注視を続けても、納得できる答えは提示されない。
距離を詰めたいという衝動が、指先を痙攣させる。
直接、その肌の温度を確かめたい。
だが、その一歩が、相手を完全に破壊する引き金になることも理解していた。
相手は、既に一線を越えた狂気に晒されている。
引っ越すという選択肢を脳内でシミュレートする。
だが、移動した瞬間に、相手の「視線」を制御可能な範囲から見失うことになる。
今の状態は、少なくとも「見えている」という点において、制御下にあると言えるのだ。
「……でも。私の、好きな佐倉が」
思考が、出口のない循環に陥る。
客観的な観測結果と、主観的な感情が噛み合わず、火花を散らす。
結論を出せないまま、夜の深まりとともに、現実の解像度だけが残酷に上がっていった。




