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父の形見は美少女Vtuber  作者: 伊阪証


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意向

夜の空気は肺の奥まで入り込み、気管の粘膜を冷たく撫で上げる。歩道を進むたびに、斎太の視界の端では街灯のナトリウム灯が規則的に背後へと流れ、アスファルトに落ちた二人の影が伸び縮みを繰り返していた。隣を歩くアキの歩幅は、斎太のそれと完全に同期している。厚手のコートが擦れるカサカサという乾燥した音と、合成ゴムの靴底が地面を叩く周期的な振動。それだけが、静まり返った住宅街の底に沈んでいた。


最初にその周期を乱したのは、鼓膜の端に引っ掛かる微細な摩擦音だった。

自分たちの足音が途切れる僅かな空白。そこに、コンマ数秒だけ遅れて重なる音が混じる。それは「歩行」というよりも、重心を極端に低く保ったまま、足の裏全体を滑らせるような接地音だった。斎太は視線を前方の一点に固定したまま、うなじの産毛が逆立ち、背筋の起立筋が不随意に収縮するのを自覚する。隣のアキの呼吸が、一段と浅くなった。彼女の右手がコートのポケットの中で強く握り込まれ、布地が不自然に引き連れている。


交差点の信号が赤に変わる。

二人が足を止めると、数秒の遅滞を置いて、後方の「滑る音」も消失した。沈黙が降りる。通り過ぎる軽自動車のエンジン音だけが周囲を支配し、その排気音が遠ざかるにつれ、背後に残された空白が鋭利な重さを持って膨れ上がっていく。斎太はあえて振り返らない。網膜が捉えているのは、正面の横断歩道を照らす青白い光と、隣に立つアキの、白く濁った短い呼気だけだ。


信号が青に変わる。

一歩目を踏み出した瞬間、背後の気配も同時に動いた。今度は隠そうとしていない。捕食者が獲物との距離を測り終え、最終的な追走段階に入った時の、独特の加速感が空気を伝って背中に張り付く。


「……コンビニ、寄るぞ」

斎太の声は、乾燥した夜気に吸い込まれるように短く響いた。アキは答えず、ただ微かに顎を引いた。


自動ドアが開く。

店内の白濁した蛍光灯の光が、網膜を刺すように照らした。人工的な暖気が皮膚を叩き、鼻腔には揚げ物の油と洗剤の混じった臭いが流れ込む。アキは真っ直ぐに飲料の冷蔵棚へと向かった。斎太はその一歩後ろを歩き、視線だけを店内の凸面鏡と、ガラス戸の反射へと向ける。

アキが扉に手を掛ける。その透明な面を介して、通路の入り口で静止している男の姿が浮き彫りになった。男はフードを深く被り、雑誌棚に顔を向けている。だが、その視線は紙面を追っていない。両足の踵を僅かに浮かせ、大腿四頭筋を常に緊張させたまま、いつ死角へ飛び込むべきかを探っている「肉体」の構えだった。


アキが取り出したペットボトルが、棚の奥でカタンと硬い音を立てる。

会計を終え、自動ドアから再び夜の闇へと足を踏み出す。店内の光から切り離された瞬間、瞳孔が収縮し、視界が一時的に情報量を失う。その数秒の空白を突くように、背後の音が明確な殺意を帯びて周期を早めた。


次の角を曲がると、道幅は急激に狭まり、街灯の間隔が広がった。左右を古いブロック塀に挟まれた、逃げ場のない路地。足音の数は、はっきりと三つになった。

最後尾の音が、一気にアスファルトを蹴り上げる。摩擦音が消え、空気が切り裂かれる鋭い風切り音が背後から迫る。


その直後だった。

「――ッ!」

何かが空気を圧殺するような、重い唸り音が路地を通過した。

肉に硬質で重い物体が、音速に近い速度で衝突する。鈍い破砕音。

「が、あ……っ!」

短い悲鳴と共に、コンクリートの地面に金属が跳ねる乾いた音が響いた。十センチメートルほどの細い刃が、僅かな月光を反射しながら転がっていく。


斎太が振り返ったとき、そこには右腕の関節を不自然な方向に弾かれ、膝をついて悶絶する男の姿があった。

そして、その数メートル後方。

街灯の光が届かない闇の境界線に、一人の人影が立っていた。

赤花芯――ミミヨンだ。

彼女は右肩の回旋を終えた姿勢のまま、無機質な視線を男へと向けている。その足元には、数個の硬球が、まるで使い捨てられた薬莢のように転がっていた。指先にはまだ、白球の縫い目から伝わった摩擦の熱が残っているようだった。


男は顔を歪め、痺れた腕を胸元に抱え込むようにして立ち上がった。ナイフを拾う余裕すらなく、もつれる足取りで路地の奥へと逃走する。その足音が遠ざかり、やがて夜の底に溶けて消えるまで、ミミヨンは一歩も動かなかった。


「……折れてはいないだろうが、当分は握れねえよ」

ミミヨンが静かに吐き出した言葉には、正義感も、救済の意図も含まれていない。ただ、目的の部位に、目的の質量を叩き込んだという、アスリートとしての技術的な確認だけがそこにあった。


アキは荒い呼吸を整えようと胸元を押さえ、地面に転がったナイフを凝視している。斎太は、ミミヨンの無機質な輪郭を見据えたまま、硬直していた身体の筋肉をゆっくりと弛緩させた。

「……最近、よく見る女だったからな。お前の隣、空けとくのはリスクが高すぎる」

ミミヨンはそれだけ言うと、落ちていた硬球の一つを拾い上げ、ポケットに収めた。なぜ彼女がこの時間に、この場所にいたのか。その理由は語られない。ただ、夜のトレーニングという日常の延長線上に、この物理的な排除が存在していたという事実だけが提示された。


路地裏に残されたのは、冷えた空気と、場違いな野球ボールの転がる音だけだった。

斎太はアキの肩に手を置き、彼女の心拍が僅かに落ち着くのを待ってから、再び歩き出した。ミミヨンの影は、追うこともなく、ただ闇の中に静止したまま二人を見送っていた。

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