追記
そういえば、裁判では日記も有効だったか。
最初の三日は、ただ見るだけだった。
それは彼女の中では尾行でも張り込みでもなく、確認に近かった。
見間違いでないこと、思い込みで話を作っていないこと、そしてあの家の美しさが特別な一回限りの錯覚ではなく、ちゃんと日常に沈んでいることを、自分の目で確かめる作業だった。
駅前のベンチは朝の十時を過ぎると半分ほど埋まる。学生、買い物帰りの老人、スマホを見ている会社員、缶コーヒーを持った中年。視線を置く先に困らない場所だ。
彼女はその日、改札の正面ではなく、少し斜めに外した位置に座っていた。待ち合わせを見るにはその方がいい。正面にいると相手に顔を拾われるし、柱の陰に入りすぎると今度は観察の角度が死ぬ。二人が並んだ時の肩の向き、歩き出しの最初の一歩、どちらが相手を見てから動くか。そういうものは、斜めから見た方が分かりやすい。
先に来たのは斎太だった。
十分前。
灰色のパーカーの前を開けたまま、改札から少し離れた場所で立ち止まる。スマホは見るが、必要以上には触らない。落ち着きがあるというより、時間の潰し方に癖がない。暇を持て余している様子を他人に見せない歩き方だ、と彼女は思った。
アキは三分前に来た。
遅れているわけではない。ただ、早く来すぎない。歩幅が一定で、改札を抜けてから斎太を見つけるまでの首の動きに無駄がなかった。見つけた後も手は振らない。少しだけ顎を上げ、斎太の方が先に歩き出す。二人は並んだが、肩は触れない。触れないのに近い。間に風が溜まらない距離だ、と彼女はノートに書いた。
その日の記録は短かった。
『十時〇六分、斎太到着。
十分前。余裕がある。
十時十三分、女到着。
遅れではない。歩幅が一定。
手を振らない。
並ぶ時の距離が近い。』
まだその女を「邪魔」とは書いていない。
ただ「女」とだけ書いて、横に小さく丸をつけた。あとで出てくるだろうから、識別のためだ。
二日目はコンビニだった。
大学から少し離れた通りの角にある、狭くて照明の白い店だ。昼時を外すとレジは片方しか開いていない。彼女は雑誌棚の前に立って、見もしない漫画の背表紙を眺めながら、冷蔵棚の前にいる二人を見ていた。
斎太は温かい飲み物を先に見て、それから冷たいものに視線を移した。甘い炭酸の棚の前で二秒止まり、結局買わなかった。代わりにペットボトルの茶を取る。
アキは飲み物より先にウェットティッシュと絆創膏を籠に入れた。迷わない。斎太がパンの棚を見ている間に、おにぎりの具を二つ見て、鮭に決める。会計は斎太が払った。アキは財布を出しかけて、引っ込めた。
彼女はそれを見て、ノートを開いた。
『生活用品は女が先。
食品は彼が迷う。
甘いものを見るが買わない。
女は実用品に迷いがない。
会計は彼。』
この日もまだ、そこまでだった。
ただ、帰ってから一行だけ書き足した。
三日目は大学の外周だった。
外から見える歩道沿いの銀杏は葉が多く、昼過ぎには歩く人の顔にまだらな影を落とす。講義終わりの学生が散っていく時間帯は人が多い。だが多いからこそ、立ち止まっていても浮かない。
彼女は自販機の横に立って、買わないまま釣り銭口を一度だけ開け閉めした。
斎太は一人ではなかった。
男と二人で歩いている。笑っていた。配信で見せる薄い笑いではなく、呼吸が一回崩れる方の笑いだ。肩が少し落ち、喉が開いて、目尻が下がる。
彼女はその瞬間、妙に腹が立つのを感じたが、すぐに否定した。腹が立ったのではない。確認しただけだ。彼は誰にでも同じ顔を見せるわけではないし、同じでもない。その区別は大切だ。観察の精度に関わる。
男が先に別れ、斎太が一人になる。歩く速度が少しだけ上がった。誰かといる時より、曲がり角に入る判断が速い。
ノートにはこう書いた。
『外では普通に笑う。
思ったより軽い。
会話相手によって顔が違う。
全部を見せていない。』
最後の一行だけ、文字が少し強かった。
四日目、彼女は配信を見た。
絵師ライバーの話をしていた回だった。
彼は絵師ライバーはリピート率が高いが、制作時間が重いため切り抜きが伸びやすいこと、インプレッション率の強さと本編の視聴体験が一致しないこと、ゲーム実況はそれを薄くした構造で、ホラーは短く強いが常に最新を掴み続けなければいけない厳しい登竜門だということを、淡々と喋っていた。
コメント欄は割れていた。
反発するもの、納得するもの、早口で補足を始めるもの、妙に感心しているもの。低評価もついていたが、空気は悪くなかった。むしろ、分かったつもりの人間が増えたことで、欄の温度が少し上がっているように見えた。
彼女は自分だけは正確に聞けていると思った。
彼がしているのはジャンルの上下づけではなく、構造の比較だ。そこを取り違えて怒るのは浅い。そうノートに書いたあと、少し考えて、次の行を足した。
『分からない人間が多い。
分かっている人だけ残る。』
配信事故は、その直後に起きた。
テレビ通話の延長のような気安さで、彼は配信ボタンを押した。しかも顔まで出した。時間は短く、すぐに消えた。出回りはしなかった。だが、見た人間がいた。
彼女も、その一人だった。
保存はしていない。少なくとも、自分ではそう思っていた。実際にはスクリーンショットを一枚だけ取っていたのだが、そのことを彼女は「記録」と呼んでいて、「保存」とは呼ばなかった。言葉をずらせば罪悪感も少しは薄まる。
翌日のノートには、今までより長い文が並んだ。
『噂は間違っていなかった。
外見が良いという話は本当。
親戚説も、妻説も、全部くだらないのに全く的外れでもない。
女の発信が増えるのは分かる。
ただ、外見で寄ってくるものは離れるのも早い。
彼はそれを分かっている。
だから消した。
消したが、なかったことにはしていない。』
その日の夜、メンバー限定に顔が追加された。
彼女はすぐに見に行った。限定の中に押し込めるのは賢い、とまず思った。それから、賢いという感想のあとに、嫌なものが残った。
限定の内側に置かれると、見ている側は急に選ばれたような気になる。その仕組み自体が嫌だった。開くなら開けばいいし、閉じるなら閉じればいい。半端な管理は、見ている側に余計な意味を持たせる。
ノートには途中から主語が減った。
『分ける必要があるのか。
見せたなら同じだろう。
でも全部にしないのは分かる。
全部にしたら軽くなる。
軽くしてほしくない。』
五日目、彼女は病院の近くにいた。
アキがそこから出てくるのを見たのは初めてではない。だが、その日は今までより長く見ていた。勤務明けなのか、白衣ではなく薄い色の上着を羽織っている。髪は後ろでまとめられ、歩き方は駅前の時より少し重い。それでも崩れない。疲れているのに背中が落ちないのが妙に腹立たしかった。
コンビニの前で水を買い、蓋を開ける。少し飲む。立ったまま飲む。壁にもたれない。
その後、通りの向こうから来た斎太と合流した。
彼は何か言った。アキは小さく鼻で笑った。笑うというより、息を一つ短く出しただけの顔だった。
距離が近い。
また近い。
彼女はその時初めて、記録の中で「女」という言葉の代わりに名前を書いた。
『アキ。
先にいる。
疲れているのに崩れない。
彼の近くにいる時だけ少し緩む。
位置が自然すぎる。』
その一番下に、インクが掠れた文字で、後から一言だけ加えられた。
『自然なのがよくない。』
六日目、家の周りを見た。
昼と夜では意味が違う。
昼は窓が暗く、外の反射が強い。夜は内側の明かりで位置が分かる。誰がどの部屋を通るか、カーテンがどの高さで揺れるか、明かりが落ちる順番がどうか。そういうものは夜の方が取れる。
ただ、一階しか見えない。二階の窓の奥は街路樹と角度のせいで死角が多い。
彼女は十分ほど家の前の歩道をうろついたあと、少し離れた場所の電柱を見上げた。
高くはない。太さもある。上部の補助線に手をかければ、途中までは足を掛けられる。作業員ではないから当然登ってはいけないが、見たい角度がある以上、他に方法がない。
道の向かいに自転車が二台停められていた。
人は来ない。
彼女は電柱に手をかけた。
登る、というほど滑らかな動作ではなかった。靴底が一度滑り、膝を擦った。掌に灰色の粉がつく。肘で支え、足の置き場を探し、二回目で安定した。
上まで行く必要はない。二階の窓の下端が見えれば十分だ。
そこからはカーテンの隙間が取れた。
窓際に斎太がいた。
座っている。手元に光るものがあって、スマホかタブレットか、どちらかは分からない。少し離れた場所をアキが横切る。
見えたのはそれだけだった。
それでも十分だった。
彼女は降りてから、息を整え、ノートを開いた。
『二階は電柱から見える。
右足を先。
街路樹が邪魔。
夜の方が取れる。
斎太は窓際に座ることがある。
アキは奥を通る。
近い。』
最後の「近い」だけ、丸で囲んだ。
その日から、観察日記の文体が少し変わった。
時刻と場所のあとに、判断が増えた。
「〜だった」ではなく、「〜のはずだ」「〜するべきだ」「〜が邪魔」という形が混じる。
七日目。
駅前。二人の待ち合わせ。
アキの方が先に来た。珍しい。斎太は二分遅れた。アキは時計を見なかった。
彼女はノートに書いた。
『待つ側になっても苛立たない。
慣れている。
待つ位置を知っている。』
八日目。
スーパーの食品売り場。
斎太が桃を手に取って、値段を見て戻した。アキがそれを見て、無言で違う棚のゼリーを籠に入れた。
彼女は書いた。
『甘いものを選ぶ権利まで先回りされている。』
九日目。
配信のコメント欄。
親父の顔予想絵選手権。アキの補足が刺さりすぎて、コメント欄が喜んでいる。
彼女は書いた。
『あの女は間に入るだけでなく、流れも作る。
必要以上にいる。
受け答えの速度が邪魔。』
十日目。
家の前。
カーテンの閉まる時間が前日より遅い。二階の窓に人影が二つ映る。片方が立ち、もう片方が座る。
彼女は書いた。
『二人でいる時間が長い。
長すぎる。』
十一日目。
大学の外周。
斎太が女子学生に資料を渡され、礼を言っている。別に何もおかしなことではない。
なのに彼女は、その場でノートにペンを押しつけすぎて、紙を破いた。
『誰にでもではない。
でも誰にもでもできる。
そこがよくない。』
ここで初めて、斎太に向いた感情の中に、執着とは別の硬いものが混じった。
思った通りにそこにいてくれない。
見たい角度に固定されていない。
アキが近くにいるだけでなく、斎太自身も勝手に動く。
その事実が、観察を邪魔し始める。
それでも彼女はまだ、自分がストーキングをしているとは思っていなかった。
確認しているだけだ。
観察しているだけだ。
間違えたくないから見ているだけだ。
そう思っていた。
その週の終わり、彼女は新しいノートを買った。
前のノートはまだ三分の二以上空いていたが、途中から文字が荒れて見返しづらくなっていたからだ。
表紙の硬い黒いノート。罫線の細いもの。
最初のページの一番上に、丁寧な字でタイトルを書く。
『佐倉観察日記 二冊目』
少し考えて、その下に追記した。
『アキ観察を含む。』
その瞬間だけ、彼女は自分の中で比重が変わっていることを正確に理解した。
斎太を見るために始めた記録のはずなのに、アキの行動や位置やタイミングが、無視できない量にまで増えている。
ただの同伴者ではない。生活の角にいつもいる。待ち合わせの先にいる。窓の奥を横切る。配信に声を差す。買い物で先に籠を持つ。
先にいる。
いつも少しだけ先にいる。
彼女はそのページを見下ろし、ゆっくりと呼吸した。
怒ってはいない。少なくとも、そういう激しいものではない。
ただ、配置が悪い。
それだけだと、自分に言い聞かせる。
次は、もう少し近い場所で見る必要がある。
偶然を装って近づくのは難しくない。駅でも、店でも、病院の前でもいい。
話しかける必要はまだない。
先に、どちらが誰を庇うかを見たい。
視線がどこで止まるかを見たい。
拒絶されるなら、それも確認しておいた方がいい。
新しいノートの二行目に、彼女は静かに書いた。
二冊目なのは前まで別の奴の日記を書いてたからです。この女は妥協して斎太を選んでガチ恋してるヤバい奴です。友人から聞いた実話のやーつ。




