第3話 鼻血は青春を駆け抜ける!
茶助は校舎の屋上で、仰向けに寝転がっていた。
頭の下で両手を組み、青空を流れていく雲を見つめている。
白い雲は、風に押されるまま、ゆっくりと形を変えながら流れていく。
「……」
自分も、まだあの雲のような存在なのかもしれない。
ふわふわしていて、行き先も決まっていない。
これから自分は、どこへ流れていくのだろう。
――なーんて。
茶助は、少しだけ17歳らしいことを考えていた。
茶助の両親は、二人とも大手商社で働いている。
仕事はとても忙しく、世界中を飛び回っていた。
裕福な家庭ではあった。
欲しいものを買ってもらえなかった記憶も、ほとんどない。
しかし、両親との思い出は少なかった。
茶助が両親との思い出でよく覚えているのは、幼稚園の頃に熱を出した夜のことだった。
その日は珍しく、父も母も家にいた。
父が茶助の額に手を当てる。
「大丈夫か?」
「うん……」
母は、冷たいタオルを茶助の額に乗せてくれた。
ひんやりとして、とても気持ちよかった。
父と母がそばにいる。
それだけで、茶助は安心した。
茶助は、その夜、幸せな気持ちで眠った。
ずっと、ずっと、この夜が続けばいい。
幼い茶助は、そう思った。
しかし翌朝。
目を覚ますと、父も母も、もう仕事に出かけていた。
残っていたのは、冷たくなったタオルだけだった。
* * *
茶助は中学生まで、地元で「神童」と呼ばれていた。
成績はいつも学校でトップ。
教師たちからも、大きな期待を寄せられていた。
そのまま茶助は、超エリート校である私立ロイヤル・プレミアム学園に入学した。
ところが――
そこで、茶助の中に隠れていた「欲」が顔を覗かせた。
遊びたい。
ゲームをしたい。
昼までずっと寝たい。
スマホで遊びたい。
女子の前でカッコつけたい。
どれも、十代なら誰もが一度は通る道だった。
ただし茶助は、その欲望に抗うのが、少し苦手だった。
「今日は勉強しなくてもいいか」
そう思っているうちに、一日が終わる。
「また明日やればいい」
その「明日」が、何日も続いた。
そして――
学年トップだった茶助の成績は、見事なまでに転落した。
茶助は、もう一度空を見上げた。
「たしかに、アカギの言う通りだ」
流れていく雲を見ながら、茶助はつぶやく。
「オレは出家でもして、頭を冷やしたほうがいい。煩悩が多すぎる」
そのときだった。
「ほらよ」
誰かの声がして、茶助の横に紙パックが置かれた。
茶助は顔を向ける。
「あ、これはオレが好きな……」
紙パックには、フルーツ牛乳と書かれていた。
その紙パックを置いた人物の顔を見て、茶助は少し驚いた。
レンだった。
レンは、自分の手に持っていた紙パックを茶助に見せる。
「オレはコレだけどな」
コーヒー牛乳だった。
レンはニコリと笑った。
白い歯がキラリと光る。
まるで芸能人のような笑顔だった。
茶助は思った。
――いちいちカッコばかりつけて、キモいやつだな。
レンは茶助の隣に、同じように仰向けに寝転がった。
二人は並んで、青空を見上げる。
しばらくして、レンが言った。
「オレたち、あの雲になろうぜ!」
「……」
茶助は何も言わなかった。
キモくて、返事をする気になれなかった。
* * *
茶助とレンが話していると、その少し離れた場所に、一人の女子生徒がいた。
藤原みさき、17歳。
ごく普通の女子生徒である。
ただし今は、物陰から男子二人の会話をこっそり聞いていた。
レンが、ふと振り返る。
「みさき」
「えっ」
「そこにいるんだろ?」
「……」
「オレは女子全員の顔と名前を知ってるからな」
「えっ……」
「出てこいよ」
「……はい」
みさきは、おそるおそる物陰から出てきた。
一歩。
また一歩。
そして――
ズルッ。
「きゃっ!」
ドサッ!!
「…………」
みさきは、派手に転んだ。
次の瞬間。
ブッシューーーッ!!!
鼻血が激しく飛び散った。
「おい、大丈夫か!?」
茶助が慌てて駆け寄る。
みさきは鼻血まみれの顔を上げた。
しかし、何事もなかったように答える。
「だ、大丈夫……」
「大丈夫じゃねえだろ!」
レンは呆れた顔でみさきを見た。
「そもそも、お前は何でそこで転ぶんだよ……」
「……わかんない」
「わかんないって何だよ」
レンは深いため息をついた。
そして、茶助を見る。
「茶助。お前、みさきをこれ以上泣かせるなよ」
「は?」
茶助には、レンの言っている意味がまったくわからなかった。
そもそも、茶助はみさきのことを知らなかった。
「みさきって誰?」
「私……」
みさきが小さく手を挙げた。
「藤原みさき……です」
「ああ……」
茶助は、そこで初めて彼女の名前を知った。
みさきは、茶助の顔を見つめる。
「茶助くん、出家するの?」
「お、おう……」
「そ、そうなんだ……」
みさきは、少しうつむいた。
そして、顔を上げる。
「私、茶助くんのこと、ずっと待ってるから!!!」
「え?」
みさきは、それだけ言うと、勢いよく振り返った。
そして、すぐに走り去っていく。
「おい、待て――」
茶助が声をかけた、その瞬間。
ズルッ。
ドサッ!!
「…………」
また転んだ。
ブッシューーーッ!!!
さらに鼻血が飛び散る。
茶助とレンは、しばらく無言でその様子を見つめていた。
顔面を血まみれにしながら走り去っていくみさきの背中を見送り、茶助が叫ぶ。
「なんなんだ、あいつ?!」
レンは、呆れたように答えた。
「オレにもわからん」
青空の下。
白い雲だけが、何事もなかったように流れていた。




