第14話 これは恋?!コウタと美月さん
コウタが無心寺に入門したのは、まだ九歳のときだった。
あの日も、夕方だった。
小さな荷物を抱えたコウタは、無心寺の山門の前に立っていた。
西の空には、溶けかけた蜜のような夕日が広がっていた。
「ここで……暮らすの?」
住職にそう聞かれて、コウタは小さくうなずいた。
理由を聞かれても、うまく説明できなかった。
家にいても、誰かに怒られる。
学校から帰っても、話をする相手がいない。
夜になると、家の中が妙に広く感じた。
だから――。
「お寺に行ってみるか」
そう言われたとき、コウタは何となくうなずいた。
山門の向こうから、夕方の鐘が低く響いた。
胸の奥まで震わせるような音だった。
最初は、寺なんて退屈だと思っていた。
朝は早い。
掃除は面倒。
修行は意味が分からない。
それでも、ここに来てから少しだけ変わった。
誰かがいる。
朝になれば「おはよう」と言ってくれる。
ご飯の時間になれば、一緒に食べる。
失敗すれば怒られる。
悪さをすれば叱られる。
それが、コウタには少し嬉しかった。
そして――。
隣の寺にいる美月さんが、いつも声をかけてくれた。
「コウタくん、おはよう」
「ちゃんとご飯食べた?」
「宿題は?」
そんな何気ない言葉が、コウタには嬉しかった。
美月さんが来ると、寺が少し明るくなった気がした。
それから一年。
コウタは十歳になった。
寺での暮らしにも、すっかり慣れていた。
そして最近、コウタには、いつもの時間になると気になる場所があった。
夕暮れの無心寺。
コウタは境内を掃除していた。
竹ぼうきが、石畳の上をサッ、サッ、と滑る。
ふと手を止める。
山門の向こうを見る。
誰もいない。
「……まだかな」
自分でも、なぜそんなことを呟いたのか分からなかった。
ただ、隣の寺へ続く道を、いつの間にか目で追うようになっていた。
そこから美月さんが歩いてくるのを、待っている。
その日の夜。
夕食を終えると、コウタは自分の部屋に戻った。
布団に入る。
寺の夜は静かだった。
風が木々を揺らす音。
遠くで鳴く虫の声。
それだけ。
「……」
眠れない。
昼間は気にならなかったのに、夜になると、どうしてか胸の奥が少しだけ寂しくなった。
そのときだった。
「コウタくーん!」
聞き慣れた声がした。
コウタは飛び起きた。
「美月さん!」
廊下を走って玄関へ向かう。
山門のところに、美月さんが立っていた。
「こんばんは。まだ起きてた?」
「起きてた!」
「これ」
美月さんが小さな包みを差し出した。
「おにぎり。ちょっと作りすぎちゃったから」
コウタは両手で受け取った。
まだ少し温かい。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
コウタはおにぎりを見つめた。
そして、少し迷ってから口を開いた。
「……美月さん」
「ん?」
「……明日も来る?」
美月さんは一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。
「うん。また明日来るよ」
「……そっか」
それだけだった。
でも、その一言を聞いた途端、コウタの表情が少しだけ柔らかくなった。
「じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ、コウタくん」
美月さんが帰っていく。
コウタは山門の向こうが見えなくなるまで、その背中を見送った。
そして、部屋に戻る。
布団に入る。
「明日、美月さん来るんだ……」
そう呟くと、今度はすぐに眠れた。
翌朝。
茶助は廊下でコウタとすれ違った。
「おはよう、コウタ」
「おはよ!」
いつものコウタだった。
でも、茶助は少しだけ違和感を覚えた。
「……なんか今日、機嫌よくね?」
「そう?」
「昨日なんかあった?」
コウタは少し考えてから、笑った。
「美月さんがいるとさ」
「ん?」
「なんか……家にいるみたいなんだ」
茶助は何も言わなかった。
コウタ自身も、それ以上は説明できなかった。
ただ、美月さんが来ると嬉しい。
声をかけてもらうと安心する。
いなくなると、少し寂しい。
それだけだった。
その日の夕方。
「コウタくーん!」
山門の向こうから声がする。
「美月さん!」
コウタは竹ぼうきを放り出して走っていった。
「ちょっと! 掃除の途中でしょ!」
「あとでやる!」
「もう!」
美月さんが笑う。
コウタも笑う。
その光景を、少し離れたところから茶助が見ていた。
「……まあ、あれも『好き』ってことなのかな」
コウタにとって、美月さんは特別だった。
けれど、その気持ちが何という名前なのかは、まだ分からない。
ただ――。
明日も来てくれる。
そう思えるだけで、少しだけ安心できた。
そして。
「コウタ、ちゃんとご飯食べた?」
美月さんが尋ねる。
「食べた!」
「嘘。顔に書いてある」
「……」
コウタはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……おにぎり作って」
「自分で作りなさい!」
「お母さんみたい!」
「誰がお母さんよ!」
その横で茶助がぼそっと呟いた。
「……完全にお母さんじゃん」
「茶助は黙ってろ!」
無心寺の境内に、三人の声が響いた。




