ヤクタ神について
日本神話の絶対的参拝の仕方。
コノヘ神が大き信仰を扱うと成ると、ヤクタ神は何か?
小さき神であるヤクタ神は神性、こじんまりとした身が引き締まっているイメージで、例えば、御父の神性とはその父性に神性があるのである。すべてのものの造り手と父で、何より御子の父である事に神性を認める事が出来るのである。
御子の神性とはその子性に神性があるのである。すべての者の子であり、しかもこの小さき者、ヤクタ神の神性とは、子性の事であり、ヤクタ神のバランスが取れた神性を重んじて、他のものを視ているのである。
御霊の神性とは霊性、人に宿る霊性を視るのが、御霊の「目なくして見、耳なくして聞く」その優性である。御霊の一見を参考にして、霊性を視ているのである。それぞれ界隈には価値基準というものがあろう。その基準と成るのが、神の霊感からの一般的な霊感なのである。どうしても神の優性が先行して、全能の神として印象付けられて、どういう神か?とか、どういう霊か?とかが既にインプットされているものなのである。普通の人はそれに感化されて、商業化を考えてしまうものだが、こなれている人はお金を払ってでも広めたいらしい。
コノヘ神の神性はその努力にある。信仰とは、努力に置き換えられる。努力すれば努力する程、信仰は広がっていくものである。純然な努力であればある程、神だけではなく、ジン等も寄って来るものである。ソロモンは努力しただろう。一神教だけでなく、多神教をも受け入れ、純然に努力した。今、日本にある神遊びというものはなかったが、一神教、多神教をソロモンの中で融和させた。実際、このふたつは絶対的な見方ではなく、相対的なものなので、コノヘ神とヤクタ神を視て「聖書」を視ていないキリスト者の様である。
絶対的な見方によって、例えば、天照大御神には絶対神の影がある。月読尊には肉体としての宮と神社としての宮と神格としての宮があり、みっつの宮に参る事が絶対神の厳密な参拝の仕方である。こうやって、普段参りを行っているものに絶対神の要素を視つける事も、信仰の内の努力なのである。
融和政策とは一神教の限界を目指した崇拝の形であったと言える。
逆に、日本神話が許容されるのは、神秘というものに触れるからだろう。神は神遊びとして、日本神話の八百万の神を設定したが、律法の抗性が通じない神遊びまで、禁忌とする事はないと想ったからであろう。実際、日本神話の神とは、固有名詞ではなく、普通名詞を常に描いてあり、神、もしくはミコトと区別しないものである。例えば、天宇受売命、例えば、布刀玉命等である。ただし、片仮名で描かれるのは、多神教という枠組みに当てはめた場合と言える。バアルだとかトートと片仮名で描くのは、絶対的ではなく、相対的なやり方と言えよう。




