「くっっっっっだらない」
“始まり”は突然だった。
食器の割れる残響、控えめな籠った音が、それに続く。
ドサリと。人が――倒れ込んだ音。
悲鳴。喧噪、音のほうへ集中する視線。
そして皆が向いた視線の先には――――意識を無くして倒れ伏した、アルベルトの姿があった。
喧噪は爆発した。
◇
状況確認のため、皆様そのままで――。
駆け付けた宮廷医師と近衛騎士団の進言に従い、その場に留まり、潜め声を交わし合う人々の背景の中、フランシエスは静かにワイングラスをあおって、黙考していた。
「毒です」
そうして、宮廷医師が明かした事実に、再び辺りがざわつく。
「第二殿下が手にしていたグラスのワインから、毒が検出されました」
「――殿下にワイングラスを渡した者を早急に究明せよ」
近衛騎士団の言に、表情を蒼白にする女があった。フランシエスは彼女を見つめている。
「殿下にワイングラスを渡したのは、クラシス嬢です」
時が来て、そうして明かされたことに、先程、取り乱すほど高ぶってアルベルトの元へ駆け寄ったクラシスは、慄くように震え上がった。
「――クラシス様、間違いはないですか?」
「は、はい。ええ、それは、間違いないことです。ですが……」
「そして、クラシス様。貴方様がグラスにワインを注ぎ入れたその時、クラシス様が毒を盛ったという証言がございます」
「え!?」
クラシスが驚きの声を上げると同時に、隠しきれない気まずさを表情に浮かせた、近衛騎士エドガーが前へ進み出た。
「それを見ていたのは……俺だ。クラシス……」
「エドガー……」
「二人分用意したワインに、クラシスは……アルベルトからは見えない位置で、胸元から取り出した小さな容器をかざしていた。……二人の仲だ、それが毒だなんて、俺には思えなかった。それに……クラシスは、二人ぶんのワイングラスそれぞれに、容器をかざしていたから」
「――クラシス様、エドガーの口述に、間違いはございませんかな?」
「――え、ええ……。それは、事実です」
また、どよめく会場内。そんな中で、フランシエスは阿呆を笑うように、冷たい息を吐き出していた。
「それは、事実、なのですが……――」
「何か理由が? よろしければ、お聞かせくださいませ」
近衛騎士団長の問いかけに、何故かクラシスは顔を赤くして、胸元から一つの容器を取り出してみせた。
それは香水入れのように見受けられる、ごく小さな容器であった。
「そちらは?」
「その……中には、濃縮したバラの水が入っております」
「濃縮したローズウォーター……?」
「なぜ、そのようなものを、ワイングラスに……?」
「――――【香水毒】ではないか?」
囁きが、まるで宙に投げられるようにして、交わされる。
「こちら、お預かりします。――クラシス様。給仕から飲料物を受け取らず、ご自身でワインを注がれた理由。そして香水入れと見受けられる容器をワイングラスにかざした訳合い。そちらについてを、弁明していただけますかな?」
「そ、それ――は……」
俯くクラシス。どうしてか、――あるいは罪なる理由でか、彼女は言い淀んだ。
どよめきが高まり、視線が一か所に集中する最中――グニャリとひん曲がった、誰かの口元。
そんな。
ざわめきの。
中で。
囁きではない、一つの声が上がった。
「くっっっっっだらない」
――――最初は、辺りに聞こえる程度の声量だった。
しかし。
「くだらない。くだらない」
繰り返すたびに。
誰もが振り返るほどに、声は大きくなって。
「くだらない。くだらない。――――まったくもって、くだりませんわッッ」
最後は怒声のように、彼女の声は、会場中に轟いた。
先程とは、また理由を別にする潜め声が湧く……そうして、小さなどよめきの起こる中、令嬢フランシエスは皆の視線など意に返さず、美しく、歩を進め始めた。
中央へ。
事件の舞台である、アルベルトの倒れ伏した、その現場へと。
「ちょっ、止まりなさいっ」
しかし静止の声もただ響くばかりで、悠然とした歩みを止められる者はなかった。
驚きの表情で見やる宮廷医師、そして表情を険しくして、静止のため手を伸ばした騎士団長の前で。
フランシエスはまだ中身の残った、毒入りのワイングラスを、優雅な仕草で、手に取って。
そしてグラスを煽って、ワインを口に含んだ。
「――――なっ」
皆が絶句する中、彼女は。
口に含んだワインをそのまま床に吐き捨てた。
そうして。
ワインで――毒で妖しく光沢帯びた舌をまろび出して、誰かを見据えて、言ったのだった。
「――実に醜い『悪』だ。実に、下賤な『悪』だ。……私は許さない。許せない。そのような、醜悪にして最悪に近い悪は、あってはならない。『悪』とは、美しくなければならないのだから。美しいという理由で許される『悪』でなければならないのだから」
見据える瞳は、敵意に満ちている。
「たとえば言いようもなく美しい犯行なら、私は何も言わないでいたでしょう。だが醜悪だ。阿呆な無垢につけこんで粗雑を押し通そうとする、どうしようもなく、醜く、下賤な、醜悪だ。そして最悪に近い。――私がありさえすれば、『悪』は美しい……。その道理を脅かす存在は許さない。お前を『悪』ではなく、ただ無様な『愚か者』に堕とすために、私はお前を暴くのだ」
そして、濡れた舌に残る、甘い毒を、乱雑に洋服の肩口でぬぐい取ると、フランシエスは宣告した。
「犯人はお前だ」




