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第九話 裏切り


 夜は、思っていたより静かだった。




 足音も、声も、ほとんどない。


 ただ、灯りだけが、道を示している。




 お雪は、一人で歩いていた。




 呼ばれた先へ向かうために。




 一歩、進むたびに、心臓の音が大きくなる。




 引き返したい。




 そう思う。




 だが、足は止まらない。




 止めた瞬間、すべてが崩れる気がした。




 やがて、一つの部屋の前に辿り着く。




 障子の向こうに、灯り。




 人の気配。




 ここだと、直感した。




 手をかける。




 震えている。




 そのとき。




「——来たのね」




 背後から、声。




 振り向く。




 そこに立っていたのは——




 あの女だった。




 お雪を、あの夜に助けた女。




 名前も知らない、あの人。




「……あなた……」




 声が、かすれる。




 女は、ゆっくりと近づいてきた。




 表情は、読めない。




「ここまで来たのなら、もう分かっているでしょう」




 低い声。




 感情はない。




「何が……ですか……」




 分かっている。




 それでも、聞かずにはいられない。




 女は、わずかに目を細めた。




「戻れないってこと」




 胸が、締め付けられる。




「でも……」




「でも、何?」




 言葉を遮られる。




 逃げ道はない。




 それは、最初から分かっていた。




 それでも——




「……あなたは、どうして……助けてくれたんですか」




 あの夜。




 あの瞬間。




 確かに、この人は自分を救った。




 その理由が、知りたかった。




 女は、しばらく黙っていた。




 やがて——




 ふっと、わずかに笑った。


挿絵(By みてみん)


 初めて見た表情だった。




 だが、それは——




 冷たい。




「助けた?」




 その一言で、空気が変わる。




「……違うの?」




 お雪の声が震える。




 女は、一歩、距離を詰めた。




 そして——




 静かに告げる。




「選んだのよ」




 意味が、分からない。




「あなたを」




 さらに続く。




「どういう……意味……」




 喉が乾く。




 言葉がうまく出ない。




 女は、淡々と語る。




「見られたの」




 あの夜。




 あの場所で。




「本当なら、あなたも消えていた」




 血の気が引く。




 頭の中で、何かが崩れる音がした。




「でも——」




 女は、ほんのわずかに間を置く。




「“使える”と思った」




 その言葉が、突き刺さる。




 使える。




 自分が?




 何のために?




「ここではね」




 女の声が、さらに低くなる。




「生き残るために、駒が必要なの」




 駒。




 その一言で、すべてが理解できた。




 自分は——




 助けられたのではない。




 選ばれたのだ。




 利用するために。




「あなたは、怖がりだけど——」




 女は、お雪を見つめる。




「よく見る目をしている」




 逃げなかった。




 見てしまった。




 それが、評価された。




 ただ、それだけ。




「だから、残した」




 あまりにも、簡単に言う。




 命の重さなど、そこにはない。




「……そんな……」




 声が、震える。




 信じたかった。




 少しでも、優しさがあったと。




 だが——




 違う。




 すべては、計算。




 すべては、利用。




「じゃあ……これからも……」




 言葉が続かない。




 女は、あっさりと答えた。




「ええ」




 当然のように。




「あなたは、私の駒になる」




 その瞬間。




 お雪の中で、何かが壊れた。




 怒りか。


 絶望か。


 それとも——




 諦めか。




 分からない。




 ただ、はっきりしていることがある。




 ここでは。




 誰も、味方ではない。




 助けも、救いもない。




 あるのは——




 利用と、裏切りだけ。




「……断ったら?」




 かすかな声。




 最後の抵抗。




 女は、迷いなく答えた。




「消えるわ」




 静かに。




 確実に。




 それが、この場所のルール。




 選択肢など、最初から存在しない。




 沈黙が落ちる。




 逃げ場はない。




 答えは一つ。




 分かっている。




 分かっていても——




 心が、拒む。




 だが。




 お雪は、ゆっくりと顔を上げた。




 涙は、出なかった。




 もう、出る場所がない。




「……分かりました」




 自分の声が、遠く聞こえる。




 女は、満足そうに頷いた。




「いい子ね」




 その言葉が、ひどく空虚に響く。




「では、行きなさい」




 障子の方へ視線を向ける。




「あなたの役目が、始まるわ」




 お雪は、ゆっくりと歩き出した。




 一歩。




 また一歩。




 その先にあるものは、分からない。




 だが。




 もう、戻れない。




 振り返ることもできない。




 ここでは。




 信じた瞬間、終わる。




 そして——




 裏切られることが、生きる条件になる。




 お雪は、震える手で障子に触れた。




 冷たい感触。




 それが、現実だった。




 ——大奥。




 信じた心が、最初に壊される場所。

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