第十話 壊れる心
障子の向こうは、静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
音がない。気配も薄い。
まるで、この場所だけが世界から切り離されているかのように。
お雪は、手をかけたまま動けなかった。
開ければ、戻れない。
分かっている。
それでも——
背後の気配が、それを許さない。
あの女が、見ている。
逃げれば、終わる。
ならば——進むしかない。
お雪は、ゆっくりと障子を開けた。
中は、広かった。
薄暗い灯りの中、豪奢な調度が並ぶ。
だが、その美しさはどこか歪んで見えた。
奥に、人影。
座している。
顔はよく見えない。
だが、その存在だけで、空気が変わる。
重く、圧し潰すような圧。
「……来たか」
低い声。
それだけで、体が強張る。
お雪は、頭を下げた。
何を言えばいいのか分からない。
何をすればいいのかも分からない。
ただ——
従うしかない。
「顔を上げよ」
命じられる。
ゆっくりと顔を上げる。
視線が合う。
その瞬間。
すべてを見透かされた気がした。
恐怖。
戸惑い。
迷い。
何もかもが、丸裸になる。
「……震えているな」
淡々とした声。
感情はない。
ただ、事実を述べているだけ。
「申し訳……ございません……」
声が、かすれる。
自分でも驚くほど、弱い声だった。
そのとき。
ふっと、笑う気配がした。
「よい」
短い言葉。
「最初は皆、そうだ」
最初は。
その言葉が、胸に引っかかる。
では——その後は?
聞くことはできない。
聞いてはいけない。
ここでは、知ることが危険になる。
時間が、ゆっくりと流れる。
何が起きているのか。
どう過ぎていくのか。
よく分からないまま——
ただ、終わりだけが訪れた。
「下がれ」
その一言で、すべてが終わる。
お雪は、ふらつきながら立ち上がった。
足に力が入らない。
体が、自分のものではないように感じる。
障子へ向かう。
一歩。
また一歩。
背中に、視線を感じる。
振り返らない。
振り返ったら、何かが壊れる。
いや——
もう壊れているのかもしれない。
外へ出た瞬間。
空気が変わった。
だが、それを感じる余裕もない。
廊下に立つ。
静寂。
誰もいない。
なのに——
見られている気がする。
どこからか。
ずっと。
お雪は、歩き出した。
足取りは、不安定だった。
まっすぐ歩けているのかも分からない。
ただ、部屋へ戻る。
それだけを考える。
ようやく辿り着いたとき。
力が抜けた。
その場に、崩れ落ちる。
息が、うまくできない。
胸が苦しい。
涙が出る。
止まらない。
だが——
それすら、どこか遠くの出来事のように感じる。
自分が泣いているのかどうかも、分からない。
ただ一つ。
はっきりしていることがある。
もう、元には戻れない。
あの夜。
お鈴と笑っていた自分には。
戻れない。
何かが、決定的に変わった。
何かが、壊れた。
そして——
その欠片すら、拾えない。
ふと、鏡が目に入る。
そこに映っていたのは——
見知らぬ女だった。
目が、違う。
光がない。
ただ、空虚なものがあるだけ。
「……誰……」
思わず、呟く。
だが、答えはない。
それが自分だと、分かっているのに。
認めたくない。
認めた瞬間、すべてが終わる気がした。
だが。
もう終わっているのかもしれない。
お雪は、ゆっくりと目を閉じた。
何も考えないように。
何も感じないように。
そうしなければ——
壊れてしまう。
いや。
もう、壊れている。
ただ、それを認めていないだけ。
ここでは。
心は、必要ない。
持っていれば、壊される。
ならば——
最初から、捨てた方がいい。
お雪の中で、何かが静かに沈んでいく。




