第八話 選ばれる女
その名が呼ばれたとき。
世界が、止まった気がした。
「——お雪」
一瞬、意味が分からなかった。
周囲の空気が、わずかに揺れる。
誰かが息を呑む音。
視線が、一斉にこちらへ向く。
お雪は、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい」
声が、自分のものではないように感じる。
呼んだのは、あの年かさの女だった。
冷たい目。揺るがない表情。
「今夜、支度をしなさい」
それだけで、すべてが伝わる。
——呼ばれた。
選ばれた。
意味は、分かっている。
だが、体が理解を拒んでいる。
心臓が、嫌な音を立てる。
周囲の女たちは、何も言わない。
だが、その目は——
はっきりと語っている。
羨望。
嫉妬。
そして——
諦め。
誰もが、一度は夢見る場所。
だが、同時に——
誰もが知っている。
そこが、どんな場所なのかを。
「……分かりました」
お雪は、頭を下げた。
震えは、もう見せない。
見せた瞬間、終わる。
ここでは。
弱さは、すぐに狙われる。
その日一日、時間が歪んだように感じた。
何をしても、現実感がない。
周囲の声が、遠くに聞こえる。
誰かが、笑っている。
誰かが、囁いている。
すべてが、自分とは無関係の出来事のように流れていく。
ただ一つ。
確かなのは——
今夜、自分が呼ばれるということ。
夕刻。
部屋に戻ると、数人の女が待っていた。
無言で、お雪の周囲に集まる。
手早く、着物を整えられる。
髪を結われる。
香が焚かれる。
まるで、人形のように扱われる。
誰も、余計なことは言わない。
ただ、作業だけが進む。
その静けさが、逆に恐ろしい。
ふと、鏡に映った自分の姿が目に入る。
見慣れない顔。
美しく整えられている。
だが、その目は——
明らかに怯えている。
そのとき。
「綺麗ね」
背後から、声。
振り向くと、一人の女が立っていた。
穏やかな笑顔。
だが、その目の奥には、何もない。
「……ありがとうございます」
自然と口が動く。
女は、少しだけ首を傾げた。
「怖い?」
問いかけは、優しかった。
だが、その響きは——冷たい。
「……少し」
嘘はつけなかった。
女は、ふっと笑う。
「最初はみんなそうよ」
一歩、近づく。
「でも、すぐ慣れる」
その言葉に、違和感が走る。
——慣れる?
何に?
その答えを、聞いてはいけない気がした。
「ねえ、お雪」
女は、さらに声を落とす。
「戻ってきた人、見たことある?」
息が止まる。
答えは、分かっている。
——いない。
誰一人として。
それでも、言葉にできない。
沈黙が、すべてを物語る。
女は、満足そうに頷いた。
「そういうこと」
それだけ言って、離れていく。
足音が遠ざかる。
部屋には、再び静寂が戻る。
お雪は、鏡の中の自分を見つめた。
美しく飾られた女。
だが、その奥にいるのは——
恐怖に震える、一人の人間。
逃げたい。
そう思う。
だが、逃げ場はない。
ここは、閉ざされた場所。
一度選ばれたら、もう戻れない。
それでも。
お雪は、ゆっくりと立ち上がった。
足は、震えている。
だが、止まらない。
止まれば——終わる。
廊下へ出る。
空気が、重い。
誰もいないはずなのに、視線を感じる。
見られている。
試されている。
一歩、進む。
また一歩。
その先に、何があるのか。
分かっている。
分かっていても——進むしかない。
ここでは。
選ばれることが、終わりの始まり。
そして——
それを拒むことすら、許されない。
お雪は、静かに息を吸った。
覚悟など、できていない。
それでも。
歩くしかない。
——大奥。
選ばれた瞬間、運命が閉じる場所。




