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第六話 笑顔の裏側

その女は、いつも優しかった。




 名は——お咲。




 柔らかな声で話し、誰に対しても分け隔てなく接する。


 新入りにも手を差し伸べる、珍しい存在。




 お雪も、一度は救われた。




「いい子にしていれば、大丈夫」




 あの言葉に、どれほど安堵したことか。




 ——だが。




 お咲は、消えた。




 呼ばれた夜を境に、跡形もなく。




 まるで最初から、存在しなかったかのように。




 それでも。




 お雪の中には、確かに残っている。




 あの笑顔。あの声。




 そして——あの言葉。




 「気をつけて」




 何を、どう気をつければよかったのか。




 今なら、少しだけ分かる気がする。




 あの日から。




 お雪は、周囲をよく観るようになった。




 誰が誰と話しているのか。


 どの視線が、どこに向いているのか。




 笑っている者。黙っている者。




 そのすべてに、意味がある。




 そして、気づいた。




 お咲は——




 一人ではなかった。




 同じように、優しく笑う女が、何人もいる。




 誰にでも声をかける者。


 困っている者に手を差し伸べる者。




 一見すれば、味方に見える存在。




 だが。




 その全員が、どこか似ている。




 同じ笑い方。


 同じ間の取り方。


 同じような言葉。




 まるで——




 同じ“役”を演じているかのように。




 ある日。




 お雪は、偶然その瞬間を見た。




 廊下の角。




 人目につかない場所。




 そこに、二人の女がいた。




 一人は、優しく笑う女。




 もう一人は——




 あの、厳しい目をした“上”の女だった。




 会話は、短かった。




「……あの子、どう?」




「少し警戒していますが、問題ありません」




 優しい声。




 だが、その内容は——冷たい。




「そう。では、そのまま」




「はい」




 それだけで終わる。




 女たちは、すぐに離れた。




 何事もなかったかのように。




 その瞬間。




 お雪の中で、何かが繋がった。




 お咲。




 あの優しさ。




 あの言葉。




 ——すべて、偶然ではない。




 仕組まれていたのだ。




 信じさせるために。




 油断させるために。




 そして——




 “見極める”ために。




 誰が、どう動くのか。




 誰が、何を考えているのか。




 それを探るための存在。




 優しさは、餌だった。




 気づいた瞬間、吐き気がした。




 あの夜。




 お咲は、何を見ていたのか。




 お雪を、どう評価していたのか。




 ——あの言葉は、本心だったのか。




 分からない。




 分からないまま、消えた。




 それが、何より恐ろしい。




 その日から。




 お雪は、誰の言葉も信じられなくなった。




 優しさも。


 笑顔も。




 すべてが、嘘に見える。




 いや——




 嘘であってほしいと思うようになった。




 そうでなければ。




 本当に信じてしまった自分が、あまりにも愚かだから。




 夕刻。




 また一人、優しく笑う女が近づいてくる。




「大丈夫?」




 同じ言葉。




 同じ声。




 同じ笑顔。




 お雪は、ゆっくりと顔を上げた。




 そして——




 初めて、笑い返した。




「ええ、大丈夫です」




 自分でも驚くほど、自然な声だった。




 女は、満足そうに頷く。




「そう。よかった」




 そのまま、離れていく。




 お雪は、その背中を見つめた。




 もう分かっている。




 この優しさは、本物ではない。




 だが——




 利用できる。




 そう思った瞬間。




 胸の奥が、ひどく冷たくなった。




 何かを、失った気がした。




 けれど。




 それでもいい。




 生きるためなら。




 何でもする。




 何でも捨てる。




 それが、この場所のルールだから。




 ここでは。




 優しい者ほど、危険になる。




 信じた者から、壊れていく。




 ——大奥。




 笑顔の裏に、刃を隠す世界。

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