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第五話 噂という毒

それは、誰かの小さな囁きから始まった。




「ねえ、聞いた?」




 朝の静かな廊下。


 何気ない声。




「昨夜のこと」




 足を止める者はいない。


 だが、耳だけが、わずかにそちらへ向く。




「何があったの?」




「さあ……でも、よくない話らしいわ」




 くすり、と笑い声。




 それだけだった。




 はっきりとした内容は、何もない。




 それなのに——




 空気が、わずかに濁る。




 お雪は、水を運びながら、その会話を聞いていた。




 気にしないように、足を動かす。




 だが、心の奥に、引っかかるものが残る。




 “よくない話”。




 それは、誰のことなのか。




 考えない方がいい。




 分かっている。




 ここでは、知らない方がいいことがある。




 だが——




 噂は、止まらない。




 昼になる頃には、形を変えていた。




「昨夜、誰かが怒らせたらしいわ」




「誰を?」




「……上の方を」




 声が、さらに小さくなる。




「名前は?」




「それが……分からないのよ」




 分からない。




 それが、余計に怖い。




 夕刻。




 噂は、また姿を変える。




「ねえ、知ってる?あの子らしいわ」




 視線が、一人の女に集まる。




 名前も、証拠もない。




 ただ——“らしい”というだけ。




 その女は、戸惑ったように周囲を見る。




「え……?私……?」




 誰も、はっきりとは言わない。




 だが、目が語っている。




 疑い。




 距離。




 そして——




 切り捨て。




 お雪は、その光景を見ていた。




 何も言えない。




 言ってはいけない。




 ここで口を開けば、次は自分になる。




 そんな確信があった。




 夜。




 静まり返った空間。




 お雪は、布団の中で目を開けていた。




 昼間の女の顔が、頭から離れない。




 怯えた目。




 何が起きているのか分からないまま、追い詰められていく姿。




 ——あれは、昨日までの自分かもしれない。




 そう思ったとき。




 小さな音がした。




 ——コト。




 まただ。




 あの夜と同じ。




 障子の向こうに、気配。




 誰かが、いる。




 お雪は、息を止めた。




 動けない。




 声も出せない。




 ただ——感じる。




 見られている。




 じっと、こちらを。




 時間が、止まる。




 やがて、気配は消えた。




 音もなく。




 まるで最初から、存在しなかったかのように。




 翌朝。




 お雪は、すぐに気づいた。




 昨日、噂の中心にいた女が——いない。




 胸が、強く脈打つ。




 周囲を見る。




 誰も、何も言わない。




 誰も、驚かない。




 まるで、それが当然であるかのように。




「……どうして……」




 思わず、声が漏れた。




 その瞬間。




 数人の視線が、一斉にこちらを向いた。




 冷たい目。




 探るような視線。




 お雪は、息を呑んだ。




 しまった。




 言ってしまった。




 余計なことを。




「何か、言った?」




 静かな声。




 誰が言ったのか分からない。




 だが、その一言で、空気が変わる。




「い、いえ……何も……」




 慌てて首を振る。




 視線が、しばらくお雪に集まる。




 やがて——




 ゆっくりと逸れていく。




 何事もなかったかのように。




 だが。




 もう遅い。




 お雪は、理解した。




 ここでは。




 言葉が、人を殺す。




 刀も、毒もいらない。




 ただ一つの噂で——




 人は、消える。




 理由など、後からいくらでも作られる。




 真実かどうかは、関係ない。




 広まったものが、すべてになる。




 お雪の手が、震える。




 止まらない。




 もしかしたら。




 次は——




 自分かもしれない。




 誰かが、何気なく言うのだ。




「ねえ、聞いた?」




 それだけでいい。




 それだけで。




 すべてが終わる。




 廊下の奥で、また笑い声が響く。




 楽しげな、優しい声。




 だが今は、それが——




 刃のように聞こえる。




 ここは——




 言葉が毒になる場所。




 見えない刃が、飛び交う世界。




 ——大奥。




 噂ひとつで、命が消える檻。

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