エピソード4:名杙兄妹ラプソディ③
それは、今から約14年前の9月――心愛が生まれたばかりの頃の話。
名杙本家筋に生まれた久しぶりの女児は、当時の当主(統治や心愛の祖父)の孫ということもあり、表向きは、にこやかに迎えられた。
しかし、中には……約10年ぶりに生まれた赤ちゃんをあまり良く思っていない人――統治の次に当主となる可能性があるから――や、早くも自分の家の息子の嫁としての話を持ってくる人など、無神経な人も決して少なくはなかったのだ。
統治や心愛の母親である名杙愛美は、普段ならばそんな声に耳を貸すような性格ではないのだが……出産直後ということもあり、余計過敏に反応してしまい、心身ともに辟易していた。
そんなある日、名杙本家内にある別邸。和室に布団をひいて心愛と2人で過ごしている愛美のところへ、分町ママが様子を見にやって来た。
起き上がって心愛をあやしていた愛美が分町ママに気付き、青白い顔で精一杯の笑顔を作る。
「愛美ちゃん、無理して笑わなくていいから。というか、あんな外部の声に耳を貸すことないわ」
「ママ……ありがと。なんかもーダメだよね、こんなんじゃダメって分かってるけど……今はもー本当に……余裕がないよ」
そう言って愛美は、自分が抱いている新しい命を見おろす。
愛美と分町ママもこの時点で既に長い付き合いなので、普段は名杙次期当主の妻としてカチッとしている愛美だが、分町ママの前では、随分砕けた喋り方になってしまうのが通常営業だった。
愛美の腕の中で、ようやく眠った赤ちゃん。まだ母乳を飲める量が多くないので、細切れの授乳が必要になる。そのため、どれだけ寝ていても泣き声で叩き起こされて(神経が過敏になっているので、些細な物音でも置きてしまう)、授乳が終わったと思ったら今度はおむつ、おむつが終わったら授乳、おむつ――という、昼夜を問わず繰り返される、終わりのない無限ループ。
こうなることは分かっていた。でも、10年ぶりの新生児は、統治の時とは方針や常識が微妙に違っていたりして、戸惑うことの方が多い。
でも、それらも全て楽しめる、そう、思っていたはずなのに。
可愛い、待望の女の子なのに……どうして、あまり可愛いと思えないんだろう。
表情を暗くして、無意識の内にため息をついてしまうことが格段に増えた。
そんな愛美を気にかけつつ、分町ママは近々に解決しなければならない問題について尋ねる。
「それよりも名前よ名前、どうするの?」
「そうなんだよママ……誰も、私の話なんか……」
名前、考えただけで気分が重くなる、今の愛美の最大の懸念事項だった。
名杙には古い習慣がある。それは、名杙にいる当主直系の子どもに対して、長男には「治」「司」「支」のいずれか文字を使うべし(次男以降は特に縛りがない)、女児ならばすべからく「子」という文字を入れるべし、というもの。
ちなみに、これを完全無視した華と桂樹は、それはもうそれはもうバッシングを受けたが……親が親なので特にダメージは少なかったようだ。ちなみに里穂は母親が既に名杙を出ているので対象外である。それでもそれなりに文句を言われたとか。
と、いうわけで……久しぶりに生まれた赤ちゃん、その名前が注目を集めているのは、愛美自身が一番よく分かっていた。そして、「~子」という名前をつけるように求められていることも。
別に古風な名前ばかりではないし、統治に比べれば選択肢はずっと多い。でも、それでも……今の愛美には、それが窮屈で、窮屈で……胸が押しつぶされそうなほど、やるせなかった。
本当は、呼んでみたい名前がある。
でも、それは許されない。妊娠した時から理解はしている。
分かっているけど……やはり、納得出来ない。
自分は、折角生まれた娘の名前さえ……自由に決めることが許されないのか、と。
部屋が重苦しい沈黙に包まれた次の瞬間、廊下側のふすまが開き、統治が入ってきた。気を利かせた分町ママは、一瞬で天井の方へ消える。
この頃の統治は小学4年生。既に『初級縁故』の試験も余裕でパスしており、休みの日には父親の仕事についていったりして、着実に経験を積み重ねていた。
大人に混じって動くことが多くなり、その言動には小生意気さと、ちょっとした傲慢さがプラスされてきたような気はするけれど……やはり、自分の妹には興味があるようで、後ろ手で扉を閉めてから、そろりそろりと近づいてくる。
そして、愛美の側に腰を下ろすと……母親の顔をじぃっと覗き込んだ。
「母さん……顔色が悪いけど、大丈夫」
「うん、母さんは大丈夫。まぁ、さすがに疲れてるけどね」
そう言って苦笑いを浮かべる愛美は、抱いている心愛に視線を落とす。
「統治、抱っこしてみる?」
「い、いや、いいよ……落としたら大変だし」
萎縮して首をふる統治は、眠っている心愛の顔を見つめ……。
「母さん、妹の名前は、何にするの?」
「そうね……どうしよう。おじいちゃんに決めてもらおうかな」
そう言ってはぐらかした愛美を、統治が真顔で見つめる。
「母さんは、それでいいの?」
「え……」
「母さんは、僕の妹に……名前をつけてくれないの?」
自分の息子から何の疑いもなく尋ねられた瞬間、愛美の目に、涙が浮かんだ。
何をしているんだ、腹をくくるんだ。
ここで一族の慣習に則れば、この子は統治と同じように愛されるだろう。それでいい。それで全て上手くいくのだから、それでいいんだ。
でも……果たして自分は、愛することが出来るだろうか。
統治の時はそんなものだろうと思っていたし、若かったこともあって納得している。
でも、名杙の家に嫁いで10年以上……この家の光と闇を間近で見てきて、色々なズレを感じていることも事実だ。そのズレが今、亀裂になろうとしているような気がしてならない。
娘を、その亀裂に放り投げるつもりなのか?
本当に……それで、いいのか?
覚悟を決めろ、名杙愛美。
この子を産んだのは――誰だ?
「母さん……!?」
愛美の目尻に涙が浮かんでいることに気付いた統治が、慌てて枕元にあるティッシュ箱を持ってきた。
そんな彼に「ありがとう」と告げた愛美は、うろたえている統治にこんなお願いをする。
「母さん、ちょっと鼻をかみたいから……この子、抱っこしててくれない?」
「え!? あ……分かった……」
緊張した統治に抱き方を軽くレクチャーした愛美は、ゆっくり、統治の腕に赤ちゃんをあずける。そしてティッシュで涙を拭き、豪快に鼻をかんだ。
その間の統治は動けるはずもなく硬直していたが……視線を下に落とすと、思わず、口元を緩めてしまう。妹にはそんな不思議な魅力があった。
そんな彼へ、愛美は意を決して尋ねる。
「ねぇ、統治……赤ちゃんの名前だけど、『ここあ』、って、どう思う?」
母親からの提案に、統治は一瞬考えてから……愛美を見つめる表情に、疑問符をプラスした。
「……飲み物と同じだと思う。どうしてその名前がいいの?」
予想通りの反応に愛美は苦笑いを浮かべ、「まぁ、そうだよね……」と、その理由を説明する。
「漢字で書くと、心を愛するって書くんだけど……人を心から愛せるような子になって欲しいし、心から愛される子になって欲しい。あと……将来の指針になって欲しいから、かな」
「指針?」
「そう。古くて理不尽に思える慣習は、時代に応じて変えていくべきだって。そんなことにこの子を使うのはダメかもしれないけど……でも、きっとこの子は、母さんに似て跳ねっ返りの強い子になりそうな気がするから。名前くらい可愛い響きにしてあげないとね」
名杙は、己の名前を『痕』に知らせることで、相手に対して優位に立つことが出来る一族。
誰よりもこの名前を名乗ることになる彼女には、誰よりも前衛的な名前で、慣習に則った統治と共に先頭に立って、胸を張って生きてほしいから。
そして、自分の名前の漢字も入れておく。これもまた、愛美なりの反抗心。
名杙の家を守っているのは、直系の人間ばかりではないんだぞ――と。
愛美の言葉を聞いていた統治は、改めて、眠っている赤ちゃんに視線を落とす。そして。
「……僕は、名杙統治。君のお兄ちゃんだから……宜しく、心愛」
こう言ってはにかんだ笑顔になる統治を見た愛美は……完全に心を決めた。
「……まぁ、そこからが本当に大変だったんだけどね。まずは現当主――心愛ちゃんのお父さんを説得して、次は当時の当主――心愛ちゃんのお祖父さんやお祖母さんを説得して。愛美ちゃんの「ド頭に「こ」がついてるんだから慣例から大きく逸れていませんだから大丈夫!!」っていう意味不明なゴリ押しで、最終的に全員が折れた形になったのよ。いやーあの時の愛美ちゃんは強かったわー」
いつの間にかビールジョッキを持っていた分町ママが、懐かしむようにシミジミ語る。
「『親痕』になって長いから、忘れちゃったことの方が多いけど……このエピソードに関しては、はっきり覚えているのよ。それだけ、私の中でも強烈だったんでしょうね」
そう言ってジョッキを傾けるママに、里穂が目を丸くして息をついた。
「はへー……ココちゃんの名前には、そんな秘密があったっすね。知らなかったっす……」
「お兄様が……」
自分が当然知らない、兄の姿。それをどれだけ語られても、実感としてすぐに信じることは出来ないけれど。
でも……冷めきっていた心が少しずつ、じんわりと暖かくなっていくのを感じていた。
そんな心愛に、分町ママが優しく語りかける。
「心愛ちゃん、正直、今の貴女は実力不足だと思うわ。まだ『痕』に対する恐怖心があるのなら、これ以上前線に出てはいけないとも思うの。でも……心愛ちゃん、あの、同じ学校の彼女を見て、何とも思わなかったの?」
「え……?」
「彼女がどうして『痕』が見えるのかは分からないわ。もしかしたら、『縁故』の才能があるのかもしれない。でも……あの子はそれに気付いていないわよね。正体の分からないものに怯える恐怖……心愛ちゃんも、少しは分かるんじゃないかしら」
心愛は改めて、今日の倫子を思いだす。
普段は頼れる先輩として、生徒会を引っ張ってくれている倫子だが、今日の彼女は……ベンチで震え、『仙台支局』へ移動している時も、終始、周囲を気にして怯えていた。
見えなかったものが見える世界に突然放り出され、どこに進めば良いのか見失っているように感じたから。
そんな彼女の、道標になれるだろうか。
彼女が怯える原因、それをちょっとだけ知っている自分が。
心愛がそう思った瞬間、ポケットに入れておいたスマートフォンが振動する。それは里穂も同じだったようで、2人ほぼ同時にスマートフォンを取り出した。
「あ、ケッカさんからっすね。えぇっと……明日、打ち合わせっすか……」
それは、ユカが蓮に送ったメールと同じ内容だった。明日、改めて打ち合わせをするから、よほどのことが無い限り参加して欲しい――というもの。
里穂はチラリと心愛を見やり、努めて優しく問いかける。
「ココちゃん、無理はしなくて大丈夫だと思うっすよ。一度引いてみるのも、大切な決断っす」
ここで無理をして、心愛が立ち直れなくなることは望まない。里穂の優しさをしっかり感じた心愛は、里穂に視線を合わせて笑顔を見せた。
「ありがとう、りっぴー。でも……心愛、行きたい」
そして、はっきりと言葉を紡ぐ。
「心愛は、学校を……心愛が通う普通の学校を、取り戻したいの」
その瞳に、迷いはなかった。
名杙という古い家に対して、「心愛」という現代風の名前をつけた理由、それは……母親の反抗心でした。これは、慣習に則った統治が名杙の他の大人達から良いように甘やかされていることに対して、「心愛はそんなことさせない」という意志の現れだったのだと思います。
ちなみにこの理由は、『エンコサイヨウ』を書く前から(設定の段階で)決めていました。心愛には新しい風を運ぶ『縁故』として、ここから、兄と一緒に立ち上がって欲しいものです。
いやー、名杙家って……本当におくそですね。(お前が書いてるんだよ霧原)




