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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第二章 舞踏会
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舞踏会(2)

 休憩になって、樹は椅子に座ったまま、大きく息を吐いた。

「難しいですね」

「何が?」

「聴こうとすると、振るの忘れそうになります」

「わかる」

「先輩、いつも普通にやってるから」

「普通に見えるだけだよ」

 樹が笑った。


 先輩がペットボトルの蓋を閉めながら言った。

「説明、わかりやすかったよ」

「ありがとうございます」

「あと、みんなが弓を置くまで、もうちょっと待ってやるといい。最初、まだ書いてた人いたから」

「あ、はい」

 樹は半円に並んだ譜面台を見た。

「譜面見て、顔上げたら始めちゃってました」

「自分が弾く時は準備できてるからな」

「後半、気をつけます」


 樹が、手の中の棒を見る。

「これ、先輩も最初は使いにくかったですか」

 今度はこちらに向けた問いだった。

「うん。どこ持てばいいのかも迷った」

「意外です」

「私だって、最初からできたわけじゃないから」


 セロテープの端を、樹が親指でそっと押さえた。

 受け取ったばかりの頃、私も同じようにそこを触ったことを思い出した。


「後半もお願いね」

 そう言うと、樹は顔を上げた。

「はい」


 今度の返事は、少し早かった。


 休憩を終えた人たちが、椅子に戻ってくる。

 樹はコンコン、と譜面台を叩いた。

「続き、お願いします」

 それから譜面を開き、みんなの準備が整うのを待った。


 私は笑って、自分の譜面を開いた。


 休憩のあとの一回は、さっきより出だしが揃った。弓が一斉に弦へ触れ、音の輪郭が半円の内側へまとまっていく。まだ隣同士でわずかなずれはあったが、最初の一音がばらけずに続いた。


 樹はひとまとまり弾き終わるまで聴いてから、棒を下ろした。


「今のところ、弓順を確認してもいいですか」


 譜面台に鉛筆を置く音がした。

「返す場所は揃ってるんですけど、その前に使う量が違う気がして」

 樹が私を見る。

「先輩、一回弾いてもらえます?」


 うなずいて、弓を置いた。

 一人で弾くと、さっきまで全体の音に紛れていた右手の動きが、そのまま聞こえる。勢いをつけようとして、思ったより弓を大きく使っていた。弓先へ進むほど音が薄くなり、返す直前で右手が忙しくなる。


「……私もちょっと使いすぎてたね」

 弓を下ろして言うと、樹が小さくうなずいた。

「後半、残せますか」

「うん。もう一回」


 今度は最初の動きを小さくした。

 弓を弦へ置く位置を少し手元に寄せ、音の勢いを保ったまま、先へ進みすぎないようにする。返すところでも右手が慌てず、そのまま次の音へ入れた。

 最後まで弾いてから、顔を上げた。


「こっちのほうが楽」

「見てても、今のほうがわかりやすかったです」

 隣に座っていた後輩が言った。

「最初、先輩と同じくらい使おうとしてました」

「ごめん。私が使いすぎてた」

 笑いながら答えて、譜面に短く書き込む。

 樹も鉛筆を取った。

「じゃあ、今の感じで、みんなで一回お願いします」


 コンコン、と速さを示す。

 半円に並んだ弓が上がった。隣の弓先が同じ高さで止まり、樹の棒が下りる。


 最初の音が揃った。

 弓が弦を擦る音まで重なり、そこから音程の違う声が一つの流れにまとまっていく。自分の弓だけを見ていた時より、周りの動きがよく見えた。隣の人がどこで弓を返すか。向かい寄りに座った先輩が、音を保ったままどこで力を抜くか。

 弓の幅はそれぞれ違う。それでも、動き始める場所と返す場所が近づくにつれて、音の立ち上がりと消え方が揃っていった。


 さっきまで引っかかっていた箇所に入る。

 一人なら早く返してしまいそうなところで、隣の弓がまだ弦の上を進んでいるのが見えた。私もその動きに合わせて残し、返す。

 音が途切れず、半円の中を一度大きく回ってから次へ進んだ。


「今の、もう一回やりたいです」

 後輩が言った。

「忘れる前に」

「俺も忘れそうなので、やりましょう」

 樹が答える。


 もう一度弾く。

 二度目には、弓を揃えようとする意識だけでなく、音の流れを聴く余裕ができた。最初の一音が同じ方向へ伸び、途中で誰かの弓が少し遅れても、隣の動きがすぐに支える。返す場所では弓が一斉に向きを変え、音の表面がわずかに揺れてから、また同じ厚みに戻った。


 音を揃えるために小さくしていた動きに、曲の勢いを戻していく。弓の幅が広がっても、返す位置は崩れない。樹の棒が大きく動くと、こちらの弓も自然に前へ出た。

 樹が棒を止めたあと、先輩が楽器を膝へ下ろした。


「未央、今の二回目、よかった」

「ありがとうございます」

「最初からあれくらいで弾いてくれると、みんなも乗りやすいと思う」

「はい」


 返事をしてから、樹と目が合った。

 樹の口元が、ほんの少し上がっている。


「何」

「いえ」

「言いたいことあるなら言って」

「先輩も直されるんだなって」

「当たり前でしょ」

 半円の端で先輩が笑った。

「俺だって直されるよ。気づいたら言って」

「じゃあ、遠慮なく」

 樹が答えた。

「今、ちょっと遠慮してた?」

「かなり」

 今度はみんなが笑った。


 樹は笑い終えると、譜面へ目を戻した。

「あと、ここだけ確認したいです」


 次に止まったのは、指使いで迷っている人がいるところだった。

 私が使っている指を伝えると、先輩が別のやり方を見せた。二つとも試してから、後輩がもう一度、自分で弾く。

「こっちのほうが行けそうです」

「じゃあ、それで。前後もつなげてみよう」

 私が言うと、樹がその少し前から始める合図を出した。


 弾いて、止めて、鉛筆で書く。

 また弾く。

 短い音型を何度か繰り返すうちに、指の動きだけでなく、弓の返しも揃っていった。最初はそれぞれ違う場所で音が立ち上がっていたのが、次には同じ瞬間に弦へ触れる。音の粒が一つずつ並び、前後のフレーズへ途切れずにつながった。


 廊下の向こうでも、別のパートが同じことをしている。こちらが静まると、壁越しに低い弦の音が聞こえた。太い音が床を伝わり、こちらの椅子の脚までかすかに震わせる。誰かが何か言って、数人が笑い、すぐにまた音が始まる。

 その音を聞きながら、私たちも次の一回へ入った。


 時計を見ると、残り時間は少なくなっていた。

 樹も気づいたらしく、譜面を少し戻した。

「最後、今日やったところをつなげていいですか」

 みんながうなずく。

「途中で何かあっても、一回最後まで行きます」


 私は鉛筆を置き、楽器を上げた。

 樹がこちらを見て、それから半円の端まで目を向ける。最後の一人が構えたところで、棒が上がった。


 最初の音が鳴る。

 さっきまでの確認で、弓を置く位置が揃っていた。音の出だしが一つに重なり、そこから各パートの声が重なっていく。まだ完全に同じではない。それでも、誰かの音が少し前へ出れば隣が受け、弓の返しが遅れれば周りの動きがその先を示した。


 確かめた箇所へ来る。

 隣の弓が同じ速さで進み、向かいの弓が同じところで返る。私もその流れの中で弓を返した。音が一度細くなり、次の瞬間には全員の弓が同じ方向へ走り出す。

 ばらばらだった動きが、誰か一人の合図ではなく、半円全体の呼吸でつながっていた。


 私は少し顔を上げた。


 向かい側で、樹が聴いていた。

 棒を動かしながら、誰かの音に気づくたび、目がそちらへ向く。けれど、最初のように一つずつ音を追いかけてはいない。全体の流れを受け止めながら、必要なところだけ棒の先で示している。

 その合図を受けると、弓の動きがさらに揃った。音の厚みが増し、部屋の中を一つのまとまりとして進んでいく。

 その中で弾くのが、楽しかった。


 最後の音に向かって、全員の弓が同じ方向へ伸びた。

 樹の棒がわずかに上がり、弓が止まる。

 音の余韻だけが残り、遅れていた呼吸が一斉に戻ってきた。


 樹は棒を下ろして息を吐いた。

「ありがとうございました」

「お疲れさま」

 あちこちから声が返る。


 私は弓を膝に置いた。

「樹、次の全練でも、今日のところ聴いておいてね」

「はい」

「ほかのパートが入ると、また感じ変わるから」

「ですね。今日できたつもりにならないようにします」


 樹は譜面に書き足し、それから指揮棒をこちらへ差し出した。

「ありがとうございました」


 受け取ると、セロテープの巻かれた先が少しだけ揺れた。

「またお願いするよ」

 そう言うと、樹は今度は隠さずに笑った。


「はい。ぜひ」


 指揮棒をしまい、弓を緩める。

 樹は自分の席に戻り、譜面の書き込みをもう一度見ていた。今日のうちに残しておきたいことが、まだあるらしい。


「椅子、元に戻すんでしたっけ」

 ケースを閉じた後輩が聞いた。

「うん。机も戻して。譜面台は持って帰ろう」

 私が答えると、先輩が壁際の机に手をかけた。

「あ、椅子何脚か、演劇に貸す話があったな」

「今日ですか?」

「いや、大学祭の時。まだ使う数を相談してるらしい」

 私も机の反対側を持った。

「今年、何やるんですか」

「舞踏会だって」

「舞踏会?」

「仮面のやつ。最後の何とか」

「『最後の舞踏会』です」

 樹が顔を上げた。

「昼にポスター見ました」


 机を置いてから、その題名を思い返した。

 私も見たはずだった。けれど浮かんだのは、地下劇場という会場名と、紙の端の黒さだけだった。

 仮面の絵があったような気もする。そこへ目を向けようとすると、こめかみの奥が重くなった。


「椅子は客席用ですか」

「舞台でも使うって。脚の形が同じのを探してたよ」

「舞踏会なのに、ここの椅子でいいんですかね」

 樹が一脚持ち上げながら言った。

「そこは布かけたりするんじゃない?」

「なるほど」


 椅子を戻し、机の下をのぞく。

 最後に窓を閉め、部屋の明かりを消した。


 暗がりの隅に、何か白いものが残っているように見えた。

 目を凝らす。

 何もない。

 それでも視線を外すまで、少し時間がかかった。


 廊下へ出ると、ほかのパートもそろそろ終わるところだった。開いた扉の向こうでケースを閉じる音がし、誰かが次の分奏の予定を確かめている。


 階段の近くに、細長い板を抱えた学生が立っていた。

 もう一人が、板の端に巻いた布を直している。

「そのまま行ける?」

「待って。ここ引っかかる」

 板が傾き、手すりに触れた。

 乾いた音がした。


 足が止まった。

 胸の奥が縮み、指先から熱が引いた。


「あ、お疲れ」

 先輩が二人に声をかけた。

「お疲れさまです。オケ、終わりました?」

「1stは。椅子の件、どうなった?」

「明日、数を決めます。借りる日と返す日も、まとめて連絡します」

「了解。全練で使う分は残してね」

「はい」


 私は板を見た。

 片面が暗い色に塗られている。端に、金色の模様が少し見えた。

 塗料の匂いが、遅れて鼻の奥に届く。


「それ、舞台のですか」

「そうです。扉の枠になります」

 布を直していた学生が答えた。

「今、乾かしてたのを運ぶところで」


 樹が板をのぞき込む。

「『最後の舞踏会』の?」

「見てくれた?」

「ポスターだけですけど。どんな話なんですか」


 相手の顔が明るくなった。

「古い屋敷を取り壊す前に、最後の仮面舞踏会を開くんです。昔、その家に出入りしてた人たちを招いて」

「みんな知り合い?」

「知り合いもいるし、久しぶりすぎてわからない人もいる。仮面してますからね」

「なるほど」

「で、招待した覚えのない人が一人いる」


 樹が私を見た。

 その視線が頬に触れた気がした。顔を上げられない。喉が乾き、唾を飲み込む音だけが近くで響いた。


「面白そうですね」

「うん」


 板を抱えた学生が、腕の位置を変えた。

「その人、誰に招待されたのか聞かれても、ちゃんと答えないんですよ。でも屋敷のことはよく知ってる」

「怪談ですか」

 言葉が先に出た。声が少し上ずった。

 相手は考えるように目を伏せた。

「怖いところもありますけど……それだけじゃないです。最後まで見ると、ちょっと違う感じになると思います」


 最後まで。


 その言葉が耳の奥に残った。背中を冷たいものがゆっくり下りていく。


「そこは見てからのお楽しみってことね」

 先輩が言うと、二人が笑った。

 私は笑い声から逃げるように、階段の下へ目を向けた。


 暗がりの奥で、何かが揺れた。

 瞬きをする。

 壁だった。


「ぜひ来てください。土曜と日曜、昼にやります」

「時間合ったら行きます」

 樹が答える。

「ありがとうございます。じゃ、これ運んじゃうので」

「あ、引き止めてごめん」

 私は一歩、脇へ寄った。板が通る時、肩を避けたつもりが、背中が壁に触れた。


 二人は声をかけ合いながら、板を階段へ向けた。

 手すりのところで一度止まり、持つ位置を変える。

 板の下端が床をこすった。


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