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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第二章 舞踏会
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舞踏会(3)

 土曜に聞いた音が、耳の奥で重なった。

 何かを引きずる音。そのあとに、硬いものが触れ合う音。

 目の前では板が動いているのに、音だけが別の場所から聞こえてくる。


「土曜の夜も、準備してたんですか」

 階段を下りかけた二人に聞いた。


「してましたよ」

 上に残っていた一人が振り向いた。

「枠組んだり、塗ったり。うるさかったですか?」

「ううん。何か運んでるのかなと思って」

 手のひらが湿っていた。

「すみません。なるべく気をつけます」

「大丈夫。練習中は気にならなかったから」


 相手は会釈して、階段を下りていった。

 少しして、下から「そっち持って」という声が聞こえた。


 声が遠ざかる。

 階段の暗がりだけが、こちらへ伸びてくるようだった。


 私は息を吐いた。胸の奥のつかえは残ったままだった。

「やっぱり準備だったんだ」

 樹が言った。

「そうだね」


 言葉にすると、説明はついた。

 それでも、私の部屋に落ちていた、あの粉だけが残った。


 その考えが浮かんだ瞬間、足の裏が床に貼りついた。

 靴底の下で、ざらりと何かが動いた気がした。


「未央?」

 先輩に呼ばれて、顔を上げた。

「帰る?」

「あ、はい」


 樹もケースを持ち直した。

 私たちは玄関へ向かった。途中、壁に貼られた演劇のポスターが目に入った。昼に見たものと同じだ。


 今度は足を止め、題名から読んだ。


 最後の舞踏会。


 暗い青の背景に、白い仮面が描かれている。片方の目の下から伸びる細い模様は、離れて見ると涙のようにも見えた。

 その下に、短い言葉があった。


 ――最後に、あなたは誰と踊りますか。


 指先が震えた。

 紙に近づけば、あの黒い粉が付いている気がした。手を伸ばしかけて、下ろす。


「日曜の回なら、ゆっくり見られそうですね」

 隣で樹が言った。

「分奏が入らなければね」

「あ、そうか」

「予定、確認しよう」

「はい」


 先輩は一足先に玄関で靴を履いていた。

「じゃあ、お疲れ。水曜ね」

「お疲れさまでした」

 二人で答える。


 扉が開いて、外の冷たい空気が入ってきた。

 私はもう一度ポスターを見た。


 仮面の目の部分には、何も描かれていない。


 昼間は、こんな絵だっただろうか。

 思い出そうとすると、黒い粉の感触だけが戻ってきた。胸が浅く上下し、喉が狭くなる。


「先輩、行きましょう」

 樹の声で、視線を戻した。

「うん」


 玄関を出るまで、地下から聞こえていたのは、学生たちの話し声だけだった。

 それでも私は、階段の下から視線を感じていた。

 外へ出るまで、一度も振り返れなかった。


 外へ出ると、風が頬に当たった。

 会館の中では気づかなかったけれど、耳のあたりが熱くなっていた。髪を払って、ケースの肩紐を掛け直す。樹は隣に並んだまま、私が歩き出すのを待っていた。


 先輩の背中は、もう少し先にあった。門のところでこちらへ手を上げ、そのまま反対の道へ曲がっていく。

 私たちも手を上げて見送った。


 会館から離れるにつれて、足元の落ち葉が増えた。踏むと乾いた音がする。前を歩く二人組が、夕飯をどこで食べるか相談していた。遠くで自転車のベルが鳴った。

 息を吸うと、今度はちゃんと胸まで入った。


「……さっき、顔色悪かったですよ」


 樹が言った。

「そう?」

「階段のところで」

「ああ」

 何と答えるか迷って、道の端の落ち葉を見た。

「ちょっと、音にびっくりしただけ」

「板、ぶつけてましたもんね」

「うん」


 樹は数歩、黙って歩いた。

「今は大丈夫ですか」

「大丈夫。外、涼しいし」

「ならよかったです」


 それ以上は聞かれなかった。

 私は肩紐の下へ指を入れ、少し位置をずらした。あの黒い粉のことを話すなら、今だったかもしれない。部屋の床に落ちていた、見覚えのない粉。思い出しただけで、指先にざらつきが戻るようだった。


 それから、通知のない振動。掲示板の前で聞いた、短い音。

 どれも、気のせいで済ませられる程度のことだった。けれど、別々にしまおうとすると、かえって同じ場所に触れてしまう。


 口に出せば、自分でも話を大きくしているように聞こえそうだった。


「今日、ありがとう」

 代わりにそう言うと、樹がこちらを見た。

「パー練」

「あ。はい」

「説明、短くてわかりやすかった。弾いて確かめる時間もちゃんとあったし」

「途中、何言おうとしてたか忘れましたけど」

「そうなの?」

「一回止めたら、みんなこっち見るじゃないですか」

「見るね」

「思ったより見ますね」

 真面目な声だったので、笑ってしまった。

「指導する人を見てくれるのは、ありがたいことだよ」

「わかってるんですけど。あ、俺がしゃべるまで待ってる、って思うと」


 樹も笑った。その顔は、会館を出た時よりずっと柔らかかった。


「でも、またやりたいです」

「うん。お願いするつもり」

「ありがとうございます」


 返事をしてから、樹は一度口を閉じた。街灯の下を通ると、頬のあたりが少し緩んでいるのが見えた。


「そろそろ来るかな、とは思ってました」

「パー練?」

「はい。先輩がどう進めてるか、見てたので」

「知ってたら、もっと早く頼んだのに」

「いや、今日でも十分、急でした」

「心の準備してたんじゃないの」

「心と、それ以外は別です」


 今度は二人で笑った。

 樹が片手で小さく棒を振る真似をする。

「最初、譜面台叩くのも、ちょっとためらいました」

「折れるって言われたから?」

「それもありますけど。いつもは、あの音がしたら俺が顔を上げるほうなので」

「ああ」


 コンコン、と鳴らして、みんながこちらを見る。

 私にも、それがまだ自分のすることではないように感じていた頃があった。先輩の棒の音を聞いて弓を置き、説明を待っていた。その棒を渡されてからも、しばらくは先輩のほうを見そうになった。


「そのうち慣れるよ」

「先輩みたいに?」

「私もまだ慣れてないこと、いっぱいあるけどね」


 樹はうなずいた。

「今日、一緒に弾いてもらえてよかったです」

「そりゃ、私も練習しないと」

「それもですけど」


 言いかけて、少し間が空いた。

「先輩の音がすると、どこを聴けばいいか、わかるので」


 私は樹を見た。

 さっきまで棒を振る真似をしていた手は、もうケースの肩紐をつかんでいた。


「……変なところまで真似しないでね」

「弓、使いすぎるところですか」

「そう、それ」

「もう覚えちゃいました」

「忘れて」

「今日、直したほうも覚えたので、大丈夫です」


 そう言われると、何も返せなかった。

 自分の弾き方を、そんなによく見ていたのかと思った。後輩に示すなら、もう少しちゃんと弾かなくてはいけない。


 門を出たところで、樹が足を止めた。

「途中まで送ります」

「樹、反対じゃない?」

「少しくらいなら」

「大丈夫だよ。もう」


 樹は私の顔を見た。それから、道の先へ目を向ける。

 店の明かりがついていて、歩いている人もいる。いつもの帰り道だった。


「じゃあ、気をつけて」

「うん。樹もね」

「今日はちゃんと寝てください」

「みんなそれ言う」


 口にしてから、しまったと思った。

 樹が眉を上げる。


「みんな?」

「……寝不足、顔に出てるんだね」

「昼から出てましたよ」

「知ってます」


 樹は笑った。

「お疲れさまでした。水曜に」

「お疲れさま」


 別々の道へ歩き出した。

 少し進んでから振り向くと、樹はまだ門のところにいた。私と目が合うと、片手を上げる。こちらも手を上げたら、今度こそ向こうも歩き出した。


 鞄の中でスマートフォンが震えた。


 立ち止まり、取り出す。

 画面には、潤の名前があった。


〈水曜、全練前に二楽章合わせたい。少し早く来られるか〉


 私はその一文を読んだ。

 「二楽章」という文字を見た瞬間、掲示板の前で聞いた音が、また耳の奥によみがえった。板を叩いたような、短い音だった。


 会館の壁に貼られていたポスターが浮かぶ。

 舞踏会。


 店先から漏れてくる明かりの下で、もう一度メッセージを読み直した。今度は、いつもの練習の連絡だった。

 それでも、「二楽章」という文字のそばに、あの音が残っていた。黒い粉のことも、通知のない振動も、思い出そうとすると同じ順番で浮かんでくる。


〈行ける。何時?〉


 返事はすぐに来た。


〈六時。最初のところから〉


〈了解〉


 送ってからも、画面を閉じずにいた。

 地下のことを聞こうと思えば、聞ける。今日、演劇の人たちと話したことも。土曜の音は準備だったらしいよ、と、それだけでも。


 けれど、指が打ち込んだのは別のことだった。


〈今日、バッカナールのパー練、樹にお願いした。よくなったと思う〉


 少し待って、返事が来た。


〈そうか。水曜聴く〉


 そっけない。

 でも、樹がそれを知ったら、たぶんまた緊張する。


 私は小さく笑って、スマートフォンを鞄に戻した。

 水曜の六時。全員が揃う前に、潤と二楽章を合わせる。

 どう弾きたいのか、今度は先に聞いておこう。土曜みたいに、弾き始めてから言い合うのは避けたい。


 歩き出すと、バッカナールの、最後に揃ったところが頭の中で鳴った。

 その旋律の下で、掲示板の短い音が一度だけ鳴った気がした。

 振り返っても、会館の姿はもう見えなかった。


 しばらくは、靴の下で落ち葉が鳴っても、足を止めずにいられた。


     *


水曜は、五限が終わるとそのままサークル会館へ向かった。

 途中のパン屋で買ったサンドイッチを、会館の前のベンチで食べる。窓の向こうにはもう明かりがついていた。二階から、長い音が一つ聞こえてくる。音は途中でわずかに揺れたが、誰かが吹き直した気配はなかった。


 スマートフォンで時間を確かめる。

 五時五十分。


 包みを畳んで鞄に入れ、ケースを持った。


 玄関のポスターは、まだ同じ場所にあった。

 白い仮面が視界の端に入ったけれど、今日は題名を読まずに通り過ぎた。目をそらしたあとも、白さだけがしばらく残っている気がした。階段を上がる。自分の靴音が、踊り場で一度大きく響いた。二階から聞こえていた音は、もう止んでいた。


 練習室の扉を開けると、潤がいた。

 チェロのケースは壁際に置かれ、本人は指揮者用の譜面台の前でスコアを開いている。弦の椅子は並んでいたが、管の席にはまだ譜面台が足りなかった。誰もいない席が、音のないまま部屋の奥へ続いている。


「お疲れ」

「お疲れ。早かったな」

「五限終わって、すぐ来たから」


 自分の席にケースを置く。

 潤はスコアから顔を上げたまま、こちらを見ていた。


「何?」

「寝た?」

「寝ました」

「ならいい」


 それだけ言って、また譜面へ目を落とす。

 私はケースを開けた。今日はちゃんと寝たし、昼間も変な音は聞かなかった。そう付け足そうとして、やめた。言葉にした途端、聞こえなかったはずの音まで戻ってきそうだった。


 楽器を出し、弓を張る。

 潤が譜面台の向きを少し変えた。私の席からでも、開いたページが見える。白い紙の上に、細い鉛筆の線がいくつも重なっていた。


「最初から?」

「うん。入りを見たい」

「その前に、聞いていい?」


 潤の手が止まった。


「土曜、もっと危なくって言ってたでしょ。あれ、どういう感じ?」

「……ずっと気にしてた?」

「どう弾けばいいか、わからなかったから」


 潤は鉛筆を置いた。

 すぐには答えず、スコアの上を指でたどる。紙を押さえる指先が、音のない場所で止まった。


「ワルツが始まってから、全部落ち着きすぎてる」

「テンポ?」

「それも少し。でも、速くすればいいわけじゃない」


 指が止まったところを、私も自分の譜面で探した。


「次が来るのを、もうわかってるみたいに聞こえる」

「曲、知ってるからね」

「そういうことじゃなくて」


 少しむっとした顔になったので、私は笑った。

「わかってる。続けて」


 潤は一度、息を吐いた。

「踊ってるうちに、思ったより遠くまで来てた、みたいな。そこで急に周りを見る感じがほしい」


 譜面へ目を戻す。

 土曜には、危なくという言葉だけが残った。今の説明なら、試せそうだった。けれど、どこまで行けば戻れなくなるのかは、まだわからない。


「じゃあ、最初から全部重くしないほうがいい?」

「うん」

「でも、拍は見せてね。私だけ先へ行ったら、みんな困るから」

「見せる」

「土曜、そこもわかりにくかった」

「……わかった」


 鉛筆を取って、短く書く。

 潤もスコアへ何か書き込んだ。鉛筆の音だけが、妙に近く聞こえた。


「一回やろう」

「うん」


 楽器を上げると、潤が棒を構えた。

 まだ誰も座っていない椅子が、私たちの間から部屋の奥まで並んでいる。全練の時より、棒の先が近く見えた。潤が息を吸う。その直前、部屋の隅で誰かがページをめくったような音がしたが、振り向くと何も動いていなかった。


 合図を受けて、弓を動かす。


 一人の音は、いつもより部屋に残った。

 ほかの弦が重なるところも、管が引き取るところも、今日は譜面の中にある。潤の左手がそちらへ動くたび、聞こえない音の続きを思い出した。まだ鳴っていないはずの音が、先に耳の奥で形を取る。


 ワルツへ入る。

 いつものように一つずつ収めようとして、右手に力が入った。少し緩める。潤の棒は拍を示しながら、その先へ小さく流れた。

 次の音へ移る時、弓を止めずに乗せてみる。


 思ったより軽く進んだ。


 潤がこちらを見る。

 棒の動きが少し広がった。私はそれに合わせて弓を使い、フレーズの終わりまで弾いた。


「今の、どう?」

 弓を下ろして聞いた。

「途中、よかった」

「途中だけ?」

「最初、俺を疑ってた」

「疑ってました」


 潤の口元が緩んだ。

 私も笑って、譜面へ目を落とす。笑い声が消えたあと、部屋には一瞬、誰も弾いていないのに低い響きが残った。


「今の振り方なら、乗れると思う」

「じゃあ、もう一回」

「今度は、入りからつなげたい」


 潤がページを戻した。


 二度目は、先ほどより顔を上げられた。

 棒が下りるところだけでなく、その前に潤がどう息を取るかを見る。待っていると、こちらの右手まで固くなる。合図の少し前から、自分も次の音へ向かうつもりで構えた。


 弓が動き始める。

 潤の左手が開いた。


 音を伸ばしながら、私はその手を見た。

 もう少し、と言われている気がした。弓を残す。潤は待ってから、次の拍を示した。


 そこまで弾いて、二人とも止まった。


「今のところ、全員でもやりたい」

 私が言うと、潤がうなずいた。

「今日、そこに時間取ってる」

「よかった。管が入ったら、私も聴きたい」


 廊下で、ケースを床へ置く音がした。

 話し声が近づき、扉が開く。


「お疲れー。もう始めてる?」


 入ってきた康平は、私たちを見て足を止めた。

「幻想?」

「二楽章」

 潤が答える。

「今日はバッカナールもやるよな」

「やる。後半」

「よし」


 康平はそれだけで満足したらしく、奥の席へ向かった。

 続いて大地が顔を出す。


「康平、譜面台持っていけよ」

「取りに戻るって」

「一回で済むだろ」


 大地は両手に持った譜面台の一つを、康平へ渡した。

 潤が時計を見る。私も楽器を膝に下ろした。


 合わせ始めてから、三十分ほど経っていた。


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