舞踏会(3)
土曜に聞いた音が、耳の奥で重なった。
何かを引きずる音。そのあとに、硬いものが触れ合う音。
目の前では板が動いているのに、音だけが別の場所から聞こえてくる。
「土曜の夜も、準備してたんですか」
階段を下りかけた二人に聞いた。
「してましたよ」
上に残っていた一人が振り向いた。
「枠組んだり、塗ったり。うるさかったですか?」
「ううん。何か運んでるのかなと思って」
手のひらが湿っていた。
「すみません。なるべく気をつけます」
「大丈夫。練習中は気にならなかったから」
相手は会釈して、階段を下りていった。
少しして、下から「そっち持って」という声が聞こえた。
声が遠ざかる。
階段の暗がりだけが、こちらへ伸びてくるようだった。
私は息を吐いた。胸の奥のつかえは残ったままだった。
「やっぱり準備だったんだ」
樹が言った。
「そうだね」
言葉にすると、説明はついた。
それでも、私の部屋に落ちていた、あの粉だけが残った。
その考えが浮かんだ瞬間、足の裏が床に貼りついた。
靴底の下で、ざらりと何かが動いた気がした。
「未央?」
先輩に呼ばれて、顔を上げた。
「帰る?」
「あ、はい」
樹もケースを持ち直した。
私たちは玄関へ向かった。途中、壁に貼られた演劇のポスターが目に入った。昼に見たものと同じだ。
今度は足を止め、題名から読んだ。
最後の舞踏会。
暗い青の背景に、白い仮面が描かれている。片方の目の下から伸びる細い模様は、離れて見ると涙のようにも見えた。
その下に、短い言葉があった。
――最後に、あなたは誰と踊りますか。
指先が震えた。
紙に近づけば、あの黒い粉が付いている気がした。手を伸ばしかけて、下ろす。
「日曜の回なら、ゆっくり見られそうですね」
隣で樹が言った。
「分奏が入らなければね」
「あ、そうか」
「予定、確認しよう」
「はい」
先輩は一足先に玄関で靴を履いていた。
「じゃあ、お疲れ。水曜ね」
「お疲れさまでした」
二人で答える。
扉が開いて、外の冷たい空気が入ってきた。
私はもう一度ポスターを見た。
仮面の目の部分には、何も描かれていない。
昼間は、こんな絵だっただろうか。
思い出そうとすると、黒い粉の感触だけが戻ってきた。胸が浅く上下し、喉が狭くなる。
「先輩、行きましょう」
樹の声で、視線を戻した。
「うん」
玄関を出るまで、地下から聞こえていたのは、学生たちの話し声だけだった。
それでも私は、階段の下から視線を感じていた。
外へ出るまで、一度も振り返れなかった。
外へ出ると、風が頬に当たった。
会館の中では気づかなかったけれど、耳のあたりが熱くなっていた。髪を払って、ケースの肩紐を掛け直す。樹は隣に並んだまま、私が歩き出すのを待っていた。
先輩の背中は、もう少し先にあった。門のところでこちらへ手を上げ、そのまま反対の道へ曲がっていく。
私たちも手を上げて見送った。
会館から離れるにつれて、足元の落ち葉が増えた。踏むと乾いた音がする。前を歩く二人組が、夕飯をどこで食べるか相談していた。遠くで自転車のベルが鳴った。
息を吸うと、今度はちゃんと胸まで入った。
「……さっき、顔色悪かったですよ」
樹が言った。
「そう?」
「階段のところで」
「ああ」
何と答えるか迷って、道の端の落ち葉を見た。
「ちょっと、音にびっくりしただけ」
「板、ぶつけてましたもんね」
「うん」
樹は数歩、黙って歩いた。
「今は大丈夫ですか」
「大丈夫。外、涼しいし」
「ならよかったです」
それ以上は聞かれなかった。
私は肩紐の下へ指を入れ、少し位置をずらした。あの黒い粉のことを話すなら、今だったかもしれない。部屋の床に落ちていた、見覚えのない粉。思い出しただけで、指先にざらつきが戻るようだった。
それから、通知のない振動。掲示板の前で聞いた、短い音。
どれも、気のせいで済ませられる程度のことだった。けれど、別々にしまおうとすると、かえって同じ場所に触れてしまう。
口に出せば、自分でも話を大きくしているように聞こえそうだった。
「今日、ありがとう」
代わりにそう言うと、樹がこちらを見た。
「パー練」
「あ。はい」
「説明、短くてわかりやすかった。弾いて確かめる時間もちゃんとあったし」
「途中、何言おうとしてたか忘れましたけど」
「そうなの?」
「一回止めたら、みんなこっち見るじゃないですか」
「見るね」
「思ったより見ますね」
真面目な声だったので、笑ってしまった。
「指導する人を見てくれるのは、ありがたいことだよ」
「わかってるんですけど。あ、俺がしゃべるまで待ってる、って思うと」
樹も笑った。その顔は、会館を出た時よりずっと柔らかかった。
「でも、またやりたいです」
「うん。お願いするつもり」
「ありがとうございます」
返事をしてから、樹は一度口を閉じた。街灯の下を通ると、頬のあたりが少し緩んでいるのが見えた。
「そろそろ来るかな、とは思ってました」
「パー練?」
「はい。先輩がどう進めてるか、見てたので」
「知ってたら、もっと早く頼んだのに」
「いや、今日でも十分、急でした」
「心の準備してたんじゃないの」
「心と、それ以外は別です」
今度は二人で笑った。
樹が片手で小さく棒を振る真似をする。
「最初、譜面台叩くのも、ちょっとためらいました」
「折れるって言われたから?」
「それもありますけど。いつもは、あの音がしたら俺が顔を上げるほうなので」
「ああ」
コンコン、と鳴らして、みんながこちらを見る。
私にも、それがまだ自分のすることではないように感じていた頃があった。先輩の棒の音を聞いて弓を置き、説明を待っていた。その棒を渡されてからも、しばらくは先輩のほうを見そうになった。
「そのうち慣れるよ」
「先輩みたいに?」
「私もまだ慣れてないこと、いっぱいあるけどね」
樹はうなずいた。
「今日、一緒に弾いてもらえてよかったです」
「そりゃ、私も練習しないと」
「それもですけど」
言いかけて、少し間が空いた。
「先輩の音がすると、どこを聴けばいいか、わかるので」
私は樹を見た。
さっきまで棒を振る真似をしていた手は、もうケースの肩紐をつかんでいた。
「……変なところまで真似しないでね」
「弓、使いすぎるところですか」
「そう、それ」
「もう覚えちゃいました」
「忘れて」
「今日、直したほうも覚えたので、大丈夫です」
そう言われると、何も返せなかった。
自分の弾き方を、そんなによく見ていたのかと思った。後輩に示すなら、もう少しちゃんと弾かなくてはいけない。
門を出たところで、樹が足を止めた。
「途中まで送ります」
「樹、反対じゃない?」
「少しくらいなら」
「大丈夫だよ。もう」
樹は私の顔を見た。それから、道の先へ目を向ける。
店の明かりがついていて、歩いている人もいる。いつもの帰り道だった。
「じゃあ、気をつけて」
「うん。樹もね」
「今日はちゃんと寝てください」
「みんなそれ言う」
口にしてから、しまったと思った。
樹が眉を上げる。
「みんな?」
「……寝不足、顔に出てるんだね」
「昼から出てましたよ」
「知ってます」
樹は笑った。
「お疲れさまでした。水曜に」
「お疲れさま」
別々の道へ歩き出した。
少し進んでから振り向くと、樹はまだ門のところにいた。私と目が合うと、片手を上げる。こちらも手を上げたら、今度こそ向こうも歩き出した。
鞄の中でスマートフォンが震えた。
立ち止まり、取り出す。
画面には、潤の名前があった。
〈水曜、全練前に二楽章合わせたい。少し早く来られるか〉
私はその一文を読んだ。
「二楽章」という文字を見た瞬間、掲示板の前で聞いた音が、また耳の奥によみがえった。板を叩いたような、短い音だった。
会館の壁に貼られていたポスターが浮かぶ。
舞踏会。
店先から漏れてくる明かりの下で、もう一度メッセージを読み直した。今度は、いつもの練習の連絡だった。
それでも、「二楽章」という文字のそばに、あの音が残っていた。黒い粉のことも、通知のない振動も、思い出そうとすると同じ順番で浮かんでくる。
〈行ける。何時?〉
返事はすぐに来た。
〈六時。最初のところから〉
〈了解〉
送ってからも、画面を閉じずにいた。
地下のことを聞こうと思えば、聞ける。今日、演劇の人たちと話したことも。土曜の音は準備だったらしいよ、と、それだけでも。
けれど、指が打ち込んだのは別のことだった。
〈今日、バッカナールのパー練、樹にお願いした。よくなったと思う〉
少し待って、返事が来た。
〈そうか。水曜聴く〉
そっけない。
でも、樹がそれを知ったら、たぶんまた緊張する。
私は小さく笑って、スマートフォンを鞄に戻した。
水曜の六時。全員が揃う前に、潤と二楽章を合わせる。
どう弾きたいのか、今度は先に聞いておこう。土曜みたいに、弾き始めてから言い合うのは避けたい。
歩き出すと、バッカナールの、最後に揃ったところが頭の中で鳴った。
その旋律の下で、掲示板の短い音が一度だけ鳴った気がした。
振り返っても、会館の姿はもう見えなかった。
しばらくは、靴の下で落ち葉が鳴っても、足を止めずにいられた。
*
水曜は、五限が終わるとそのままサークル会館へ向かった。
途中のパン屋で買ったサンドイッチを、会館の前のベンチで食べる。窓の向こうにはもう明かりがついていた。二階から、長い音が一つ聞こえてくる。音は途中でわずかに揺れたが、誰かが吹き直した気配はなかった。
スマートフォンで時間を確かめる。
五時五十分。
包みを畳んで鞄に入れ、ケースを持った。
玄関のポスターは、まだ同じ場所にあった。
白い仮面が視界の端に入ったけれど、今日は題名を読まずに通り過ぎた。目をそらしたあとも、白さだけがしばらく残っている気がした。階段を上がる。自分の靴音が、踊り場で一度大きく響いた。二階から聞こえていた音は、もう止んでいた。
練習室の扉を開けると、潤がいた。
チェロのケースは壁際に置かれ、本人は指揮者用の譜面台の前でスコアを開いている。弦の椅子は並んでいたが、管の席にはまだ譜面台が足りなかった。誰もいない席が、音のないまま部屋の奥へ続いている。
「お疲れ」
「お疲れ。早かったな」
「五限終わって、すぐ来たから」
自分の席にケースを置く。
潤はスコアから顔を上げたまま、こちらを見ていた。
「何?」
「寝た?」
「寝ました」
「ならいい」
それだけ言って、また譜面へ目を落とす。
私はケースを開けた。今日はちゃんと寝たし、昼間も変な音は聞かなかった。そう付け足そうとして、やめた。言葉にした途端、聞こえなかったはずの音まで戻ってきそうだった。
楽器を出し、弓を張る。
潤が譜面台の向きを少し変えた。私の席からでも、開いたページが見える。白い紙の上に、細い鉛筆の線がいくつも重なっていた。
「最初から?」
「うん。入りを見たい」
「その前に、聞いていい?」
潤の手が止まった。
「土曜、もっと危なくって言ってたでしょ。あれ、どういう感じ?」
「……ずっと気にしてた?」
「どう弾けばいいか、わからなかったから」
潤は鉛筆を置いた。
すぐには答えず、スコアの上を指でたどる。紙を押さえる指先が、音のない場所で止まった。
「ワルツが始まってから、全部落ち着きすぎてる」
「テンポ?」
「それも少し。でも、速くすればいいわけじゃない」
指が止まったところを、私も自分の譜面で探した。
「次が来るのを、もうわかってるみたいに聞こえる」
「曲、知ってるからね」
「そういうことじゃなくて」
少しむっとした顔になったので、私は笑った。
「わかってる。続けて」
潤は一度、息を吐いた。
「踊ってるうちに、思ったより遠くまで来てた、みたいな。そこで急に周りを見る感じがほしい」
譜面へ目を戻す。
土曜には、危なくという言葉だけが残った。今の説明なら、試せそうだった。けれど、どこまで行けば戻れなくなるのかは、まだわからない。
「じゃあ、最初から全部重くしないほうがいい?」
「うん」
「でも、拍は見せてね。私だけ先へ行ったら、みんな困るから」
「見せる」
「土曜、そこもわかりにくかった」
「……わかった」
鉛筆を取って、短く書く。
潤もスコアへ何か書き込んだ。鉛筆の音だけが、妙に近く聞こえた。
「一回やろう」
「うん」
楽器を上げると、潤が棒を構えた。
まだ誰も座っていない椅子が、私たちの間から部屋の奥まで並んでいる。全練の時より、棒の先が近く見えた。潤が息を吸う。その直前、部屋の隅で誰かがページをめくったような音がしたが、振り向くと何も動いていなかった。
合図を受けて、弓を動かす。
一人の音は、いつもより部屋に残った。
ほかの弦が重なるところも、管が引き取るところも、今日は譜面の中にある。潤の左手がそちらへ動くたび、聞こえない音の続きを思い出した。まだ鳴っていないはずの音が、先に耳の奥で形を取る。
ワルツへ入る。
いつものように一つずつ収めようとして、右手に力が入った。少し緩める。潤の棒は拍を示しながら、その先へ小さく流れた。
次の音へ移る時、弓を止めずに乗せてみる。
思ったより軽く進んだ。
潤がこちらを見る。
棒の動きが少し広がった。私はそれに合わせて弓を使い、フレーズの終わりまで弾いた。
「今の、どう?」
弓を下ろして聞いた。
「途中、よかった」
「途中だけ?」
「最初、俺を疑ってた」
「疑ってました」
潤の口元が緩んだ。
私も笑って、譜面へ目を落とす。笑い声が消えたあと、部屋には一瞬、誰も弾いていないのに低い響きが残った。
「今の振り方なら、乗れると思う」
「じゃあ、もう一回」
「今度は、入りからつなげたい」
潤がページを戻した。
二度目は、先ほどより顔を上げられた。
棒が下りるところだけでなく、その前に潤がどう息を取るかを見る。待っていると、こちらの右手まで固くなる。合図の少し前から、自分も次の音へ向かうつもりで構えた。
弓が動き始める。
潤の左手が開いた。
音を伸ばしながら、私はその手を見た。
もう少し、と言われている気がした。弓を残す。潤は待ってから、次の拍を示した。
そこまで弾いて、二人とも止まった。
「今のところ、全員でもやりたい」
私が言うと、潤がうなずいた。
「今日、そこに時間取ってる」
「よかった。管が入ったら、私も聴きたい」
廊下で、ケースを床へ置く音がした。
話し声が近づき、扉が開く。
「お疲れー。もう始めてる?」
入ってきた康平は、私たちを見て足を止めた。
「幻想?」
「二楽章」
潤が答える。
「今日はバッカナールもやるよな」
「やる。後半」
「よし」
康平はそれだけで満足したらしく、奥の席へ向かった。
続いて大地が顔を出す。
「康平、譜面台持っていけよ」
「取りに戻るって」
「一回で済むだろ」
大地は両手に持った譜面台の一つを、康平へ渡した。
潤が時計を見る。私も楽器を膝に下ろした。
合わせ始めてから、三十分ほど経っていた。




