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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第二章 舞踏会
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舞踏会(4)

 七時近くになると、部屋のあちこちで違う曲が鳴っていた。

 バッカナールの細かい音を確かめる弦。その向こうでは、管が短い音型を吹いている。椅子の間を通る人がいるたび、誰かが楽器を持ち上げて道を空けた。音は増えているのに、部屋の中央だけが妙に空いて聞こえた。


 樹は隣に座ると、譜面を開く前に指揮台を見た。

「もう合わせたんですか」

「うん。二楽章」

「どうでした?」

「今日はちゃんと話せた」

「……土曜、話せてなかったんですか」

「弾きながら言い合ってたから」


 樹が小さく笑った。

「今日は平和にお願いします」

「私にだけ言わないでよ」


 奥で康平の笑い声がした。

 振り向くと、真紀がホルンを膝に置いて、何か言い返している。隣の女子たちも笑っていた。明るい声が重なる一方で、廊下のほうからは、誰も吹いていないはずの長い息のような音がかすかに続いていた。


「金管、元気だね」

「今日、楽しみにしてたみたいですよ」

「私たちも、月曜のところできるといいね」

「はい」


 樹は譜面の書き込みを確かめ、鉛筆を手の届くところへ置いた。


 潤が指揮台に立つ。

 理沙のAが鳴り、私は楽器を上げた。音を受け、隣の樹と合わせる。弦の響きが広がり、管の音が重なっていく。音程を合わせているだけなのに、部屋全体が一つの大きな息を待っているようだった。


 チューニングが終わると、潤は一度、部屋を見渡した。

 その視線が、誰も座っていない後ろの席で一瞬止まる。私もそちらを見たが、譜面台の白い紙が揺れただけだった。


「今日は幻想の二楽章から。後半、バッカナールをやります。最初の合わせなので、一度通してから、気になるところを見ます」


 康平が譜面を持ち上げた。

 その後ろで、大地もページをめくる。まだ始まっていないのに、待ちきれないような動きだった。誰かが小さく咳をし、別の誰かが椅子を引く。その一つ一つが、合図を待つ音に聞こえた。


 私は幻想の譜面を開いた。

 六時に書いた言葉が、余白に残っている。鉛筆の線の下に、書いた覚えのない薄い跡があった。指でこすれば消えそうだったので、見なかったことにする。


 潤が棒を上げた。


 隣で樹が弓を置く。

 私も息を取り、顔を上げた。


 棒の先が、白い紙の上で止まる。

 その一瞬、まだ鳴っていないはずの音が、部屋の奥からこちらへ近づいてきた。


 今度は、みんなの音が来る。


最初の響きが、弓を持つ手まで伝わってきた。弦を擦る毛の細かな震えに、床を通ってきた低い音が重なる。


 六時には自分の音しかなかったところに、低い弦が加わった。足元から押し上げるような振動が、椅子の脚と靴底を通ってくる。奥から別の音が入るたび、部屋の広さまで変わった。壁に当たった音が遅れて返り、耳の後ろまでふくらんでいく。


 潤の棒を見る。


 一人で合わせた時と同じ合図だった。けれど、受け取る人数が増えると、音になるまでにわずかな幅ができる。誰かの息を吸う音。弓が弦へ触れる、かすかな擦れ。


 その幅の中で、音が形になっていく。


 私は隣の弓を視界に入れながら、次の音へ進んだ。


 ワルツが始まる。


 最初のフレーズは、思っていたより重かった。自分では軽く弾いたつもりなのに、後ろから来る音を待つうち、弓が弦に深く入っていく。指先に弦の硬さが返り、右手の手首がわずかに沈んだ。


 拍の頭を確かめるたびに、流れが区切られる。


 潤の左手が上がった。


「そこ、もう一度。ワルツに入る少し前から」


 鉛筆を取る音がした。

 私は樹を見た。


「ちょっと重かったね」

「はい。合わせようとして、待っちゃいました」

「私も」


 潤が弦のほうへ顔を向ける。


「拍の頭は揃えたいけど、そこで毎回止まらないで。次へ行く動きも残してほしい」


 私は譜面から顔を上げた。


「入りの合図、もう少し前からもらえる?」

「わかった」


 潤が棒を構え直す。


 今度は、振り下ろす前の動きがよく見えた。私はその動きに合わせて息を取り、胸の奥を広げる。弓を弦へ置く。毛が弦をつかむ感触が、指先へ返ってきた。


 隣から音がついてくる。


 待たなくても、樹の弓は同じ方向へ進んでいた。二本の弓がほとんど同じ速さで弦を擦る。細いざらつきが、一つの音へまとまっていく。


 そのままフレーズをつなぐと、向こうの弦も動き始めた。音が重なっても、さっきほど右手が重くならない。


 潤は止めなかった。

 左手を少し開き、木管へ目を向ける。


 理沙の音が入った。


 自分たちだけで弾いていた時には気づかなかった響きが、すぐそばまで来た。オーボエの細い音が弦の上へすっと伸び、耳の内側を撫でるように通り過ぎる。


 そちらを聴こうとして弓を緩めると、今度は弦の音が薄くなった。弦の振動が指先から逃げ、音の輪郭が急に遠のく。


 戻そうとしたところで、潤の棒が止まった。


「弦、木管が入ってからも、そこまで音を残して」

「うん」


 私は譜面を指で示した。


「ここの終わりまでね。途中で抜かないで」


 後ろへ顔を向けると、何人かがうなずいた。

 先輩も鉛筆を持ち上げて、わかったというようにこちらを見た。


「理沙、今のところ、入りにくかった?」

「入りは大丈夫。でも、そのあと急に一人になった感じがした」

「ごめん。聴こうとして引いちゃった」

「聴いてくれるのは嬉しいんだけどね」


 理沙が笑った。

 私も笑って、余白へ書き込む。


 鉛筆の先が紙を擦る音が、まだ残っている響きの中で妙に近く聞こえた。


 もう一度、同じところから弾いた。


 木管が入っても、弓を進める速さを変えずに残す。弦の振動を指先で保ったまま、音の芯を細く長く伸ばす。理沙の音はその上を通り、こちらのフレーズと一緒に先へ伸びた。


 次の響きへ移ったところで、ようやく潤が棒を下ろした。


「今の感じで」

「うん」

「もう少し先までつなげます」


 ページをめくる。

 樹が譜面台を少しこちらへ寄せた。二人とも見やすい角度になった。


 弾いているうちに、六時に潤が言ったことを思い出した。


 踊っているうちに、思ったより遠くまで来ていた。


 先へ進もうとする弦の音に、違う響きが重なる。次が来るのを知っているはずなのに、実際に聞こえると、右手の動きを少し変えたくなった。


 低い音が背中側から押し、上の音がその上を滑っていく。


 潤を見る。こちらを押し出すようだった左手が、今度は小さく閉じている。


 弓を残したまま、音を抑えた。弦の振幅が小さくなり、肩の力も一緒に抜けていく。


 奥から直人のクラリネットが聞こえた。


 丸い音が、部屋の奥から一本の線になって伸びてくる。息の混じった柔らかさがありながら、音の中心ははっきりしていた。


 その音を追っている間も、隣の弓は動いていた。


 私も弾き続ける。旋律が近づき、また離れる。そのたびに、自分がどこにいるのかを確かめるように、ほかの音へ耳が向いた。


 弓を返す。

 手首に小さな反発が返る。

 それを次の拍へつなぐ。


 潤と目が合った。


 ほんの短い間だった。


 棒の先が次の拍へ動き、私は譜面へ目を戻した。


     *


 休憩の間に、バッカナールの譜面を出した。


 幻想の下へ重ねると、月曜の書き込みが見えた。弓を使う量。返す場所。指使いのそばには、試してから消した跡も残っている。


「いよいよですね」

 樹が言った。

「月曜の成果、出るかな」

「出したいです」


 奥では、康平が立ったまま大地と話していた。

 真紀たちも譜面を開き、同じところを指さしている。普段より顔を上げている人が多い気がした。


 アンコールの候補は、前から決まっていた。


 ただ、最後まで全部を吹いたあとに、もう一曲できるかどうかは別だった。全体を通した時の様子を見て、管が厳しければ《亡き王女のためのパヴァーヌ》にする案もあった。


 その話になった時、康平はすぐに「いける」と言った。

 大地も、真紀も同じだった。


 本番の二か月ほど前から始めることになった練習を、みんな待っていたらしい。


 潤が指揮台へ戻った。


「バッカナール、最初から。一度最後まで行きます。途中で落ちても、戻れるところから入ってください」


 康平が座った。

 真紀も楽器を上げる。


 さっきまでの話し声が消えた。


 椅子の軋み。

 譜面を押さえる指の音。

 誰かが短く息を吸う音。


 それだけが残った。


 潤が理沙を見る。


 棒が動いた。


 オーボエの音が、部屋の中を伸びていく。細い音の先端が空気を押し分け、天井近くへ上がっていくようだった。


 私は弓を持ち直し、自分たちの入りを待った。理沙が息を取るところで、潤の手も動く。


 その先を聴きながら、弓を置いた。


 音が増えた。


 月曜には、半円の内側だけで鳴っていた音だった。


 今日は、低い弦が下から押し、椅子の座面まで震わせる。管がその上へ加わり、音の層が胸の前で重なっていく。


 自分たちの細かい音が、全体の中で何をしているのか、弾きながらようやくわかった気がした。


 勢いにつられて、少し前へ行きかける。


 樹の弓が見えた。


 月曜に確かめたところまで残して、返す。右手が慌てずに、次へ入れた。弓の毛が弦を離れる瞬間の軽さが、手のひらに残った。


 潤の目が、一度こちらへ向いた。

 そのまま棒が先へ進んだ。


 途中で、後ろの音が少なくなった。


 誰かが入りを逃したらしい。けれど、低い弦は続いていた。床から伝わる振動を頼りに、私はそちらを聴き、譜面の先を見る。


 数小節あとで、抜けていた音が戻ってきた。


 空いていた場所へ音が戻る。

 響きの厚みが、一瞬で戻った。


 樹も気づいたようだった。

 顔を上げてから、また譜面へ目を落とす。


 緩やかな旋律に入ると、肩に入っていた力がわかった。


 右手を緩め、弓を長く使う。弦の振動が途切れないように、腕の重さを弓へ預ける。


 さっきまでとは違う音が、隣から返ってきた。後ろの弦も重なり、低い響きが足元に広がる。部屋に少し余裕ができ、息を吸う場所まで見えるようになった。


 けれど、それも長くは続かなかった。


 再び細かい音が動き始める。


 譜面をめくる音が、あちこちでした。潤の棒が大きくなり、康平の音が前へ抜けてくる。


 その響きに、思わず顔を上げた。


 楽しそう、と思った。


 吹いている顔までは見えないのに、音を聞くとそう思った。音の端が弾み、息の勢いがそのまま部屋へ飛び出してくるようだった。


 こちらも弓を動かす。


 途中、一つ指が間に合わなかった。指先に弦の硬さが跳ね返り、音が一瞬だけ濁る。


 次の音へ戻り、そのまま進む。


 今は止まって確かめる時間ではなかった。


 コーダへ入った。


 ホルンが吼えた。


 厚い響きが後ろから押し寄せ、背中が熱くなった。胸の奥が音に押され、呼吸が浅くなる。


 弓を大きく使う。隣の樹も顔を上げていた。もっと先へ行きたくなるところで、潤の棒がはっきり拍を示した。


 そこへ弓を乗せる。


 弦の振動が腕全体へ走った。管も、低い弦も、打楽器も来る。打楽器の一打が床を震わせ、その震えが靴底から膝へ上がってくる。


 自分の音だけでは、とても出せない勢いだった。


 最後の音を弾く。


 潤の手が閉じ、弓を止めた。


 響きが消えるまで、顔を上げたままでいた。


 耳の中ではまだ高い音が細く鳴り続け、弦を押さえていた指先には、振動の余韻が残っていた。


 それから、あちこちで息が漏れた。


 奥で拍手が始まった。


 私は楽器を膝に下ろし、弓を右手に持ったまま、左の手のひらを軽く当てた。樹も隣で同じことをしている。


 康平が笑っていた。真紀は隣の子と顔を見合わせ、それから拍手に加わった。


 初めて通したあとには、いつもこうなる。


 誰が始めたのかは知らない。途中で音が抜けても、最後が怪しくても、終わると誰かが手を叩く。


 乾いた音が部屋の残響を細かく揺らし、さっきまでの演奏とは違う明るさが広がる。


 入ったばかりの頃は少し驚いたけれど、今は私も普通に加わっていた。


 潤は棒を下ろし、軽く頭を下げた。


「お疲れさま。じゃあ、戻ります」


「もう一回、最後やらない?」

 康平が言った。

「その前に、途中」

「はい」


 返事が素直だったので、笑いが起きた。


 私は鉛筆を取った。


 隣で樹が、小さく息を吐く。吐いた息がまだ熱を持った頬に触れた。


「月曜、やっといてよかったですね」

「うん。管が入ると、全然違うね」

「最後、持っていかれそうでした」

「私も」


 潤がスコアを戻し、こちらを見た。


「細かいところ、弦は流れが見えた。次、管と合わせたいので、もう少しゆっくりから」


 樹の鉛筆が止まった。

 私は譜面を見たまま、少し笑った。


 棒が上がるのを待ちながら、隣へ小さく言った。


「よかったね」


「はい」


 樹は短く答え、楽器を上げた。


ゆっくりにすると、さっきは勢いの中に隠れていたずれが、耳の奥まで届いた。

 弦が次の音へ移ったあとも、管の音が残っている。そちらを待ちすぎると、今度はこちらの音が短くなる。弓を持つ右手に、わずかな遅れが伝わった。


 潤の棒が下がった。

「今、管がどう切ってるか、弦も一度聴いてください。同じところ、管だけで」


 私は楽器を膝へ下ろした。

 向かいで息を吸う気配が重なる。潤の合図で短い音型が鳴ると、音の終わりが思っていたよりはっきり耳に残った。


「大地、最後、少し残ってる」

「うん。もう一回」

「そこだけお願いします」


 大地の音がもう一度鳴る。

 今度は隣の音と同じところで切れた。空気の震えがすっと消える。


「弦も入って」


 弓を置いた。

 さっき聞いた音の長さを、右手の重さでなぞる。管が加わると、自分たちの音型の隙間に、別の音が収まった。音と音の間が、前より狭く、深く感じられる。


 樹の弓が返る。

 その擦れる音を聞いて、私も同じところで返した。


「今の。テンポを少し戻します」


 繰り返すうちに、先へ急がずに弾ける速さが上がっていった。

 鉛筆を取る。指先に残った弓の感触を思い出しながら、短く書き込む。管のほうでも紙を擦る音がした。康平が隣の譜面を指す気配があり、二人の呼吸が揃ってから、楽器が上がった。


 緩やかなところでは、弦と木管をつないだ。

 旋律を弾き終えても、音をすぐに手放さない。弓を弦に置いたまま、次に入る音を聴く。幻想で確かめたことが、ここでも身体の中に残っていた。


 潤の棒が止まり、譜面をめくる音がした。

「今のつなぎ、覚えておいてください。次の全練でも確認します」


 私は余白に印をつけた。鉛筆の先が紙を押す感触が、妙に鮮明だった。


 時計の針は、九時半を過ぎていた。

 部屋の空気も少し冷え、肩の奥に疲れが沈んでいる。潤がページを先へ戻した。


「最後、コーダに入る前から。そこまでつなげて終わります」


 奥で椅子がわずかに鳴った。

 康平と大地の息が、短く重なる。


「途中からだから、入り、気をつけて」

 私が小さく言うと、樹の返事が近くで聞こえた。

「はい」


 楽器を構える。

 肩に顎を置くと、木の冷たさが皮膚へ戻ってきた。周囲で弦を張る音、譜面をめくる音、打楽器の準備の音が順に収まっていく。


 棒が上がる。


 弾き始めると、最初に通した時より、周りの音が聞こえた。

 管の音が立ち上がるところ。低い弦が次へ進むところ。さっき直した音の終わりが揃うと、次の一音へ弓を運ぶ手首が軽くなった。


 コーダへ入る。

 ホルンの響きが、背中側から押し寄せてきた。


 今度は驚かず、その音へ弓を重ねた。

 潤の棒が拍を刻む。もっと大きく弾きたいところでも、月曜に確かめた分だけ弓を残す。弦の振動が指先から腕へ伝わり、返して、次へ進む。


 最後の音が鳴った。


 潤の手が止まるのを見て、弓を止める。

 隣の樹の音も、同じ瞬間に消えた。


 残響が天井からゆっくり落ちてくる。

 それが消えてから、潤の棒が下がった。

「お疲れさまでした。今日はここまで」


「お疲れさまでした」


 声が返り、椅子の脚が床を擦った。

 康平の声が近くからした。


「やっぱりこれだな」

「まだ初回だよ」

 私が言うと、康平が笑った。

「だから、これからもっとよくなるだろ」


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