舞踏会(5)
真紀の楽器を下ろす音がした。
「最後、楽しかった」
「聞こえたよ。すごかった」
「ちょっと張り切った」
「ちょっと?」
真紀が笑う。
その笑いに、隣の子の声が重なった。
「私も」
私は弓を緩め、楽器をケースへ戻した。
肩を回すと、筋肉の奥に重さが溜まっていた。弾いている間は音の中に紛れていた疲れが、今になって身体へ戻ってくる。
樹はまだ譜面に鉛筆を走らせていた。
「忘れないうちに?」
「はい。管の切り方、思ってたのと違ったので」
「私も書いた」
「月曜、弦だけでできても、まだ半分ですね」
「うん。でも、やってあったから今日はそこを聴けたんだと思う」
鉛筆の音が止まった。
「次も、そうしたいです」
譜面を片づけていると、潤の足音が近づいた。
スコアをめくる音がして、私たちの前で止まる。
「樹」
「はい」
「月曜、どこをやった?」
「細かい音の長さと、弓の使い方です。あと、指使いを少し」
「そうか。今日、テンポ落としても流れが残ってた」
「……ありがとうございます」
樹の返事が、いつもより少し遅れた。
潤がスコアへ目を落とす気配がある。
「今日ずれたところ、次のパー練でも見ておいて」
「はい」
「私も確認しておくね」
潤の視線がこちらへ移った。
「頼む」
樹が譜面をもう一度開く。
私はケースの蓋を閉じ、留め具をかけた。金具の小さな音が、静かになり始めた部屋に響いた。
「未央」
「うん?」
「二楽章、最初の合わせより、全員でやった後のほうがよかった」
「管、聴けたから」
「うん」
潤の声が途切れた。
私はケースの持ち手に手をかけたまま、顔を上げていた。言葉のない間に、遠くで椅子を動かす音がした。
「土曜も、あの感じで」
「潤も、今日の合図でね」
「わかってる」
「よろしく」
潤の声が少し柔らかくなった。
奥から沢村の声がした。
「よし乃、行く人」
「行く」
大地の返事がすぐに返る。
「俺も」
康平が続いた。
「未央は?」
「今日は帰る。お疲れさま」
「お疲れ。気をつけて」
譜面台を畳む音、椅子を引く音が続く。
部屋から音がなくなると、窓の外の風が聞こえた。熱のこもっていた頬を、廊下の空気が冷ましていく。
樹は後輩と、土曜に使う譜面のことを話していた。
私はケースを持ち直した。持ち手が掌へ食い込み、先に階段へ向かった。
一階へ下りる。
足音が玄関の床で変わった。
そばの演劇のポスターが目に入った。
最後の舞踏会。
二楽章を弾いている間は、一度も思い出さなかった。
今は白い仮面の輪郭まで、はっきり見えた。サークル会館の掲示板で何度も見て来た、公演ポスターの、あの仮面。
地下から、何かを動かす音がした。足が止まる。ケースの持ち手を握り直す。掌に食い込む感触のあと、話し声が続いた。
「未央」
後ろから潤の声がした。
足音が近づき、隣で止まる。
「帰るんだろ」
「うん」
潤の視線がポスターへ向き、それから私へ戻った気配がした。
何か言うかと思ったけれど、玄関の扉が開き、外の冷たい空気が流れ込んできた。潤が先に出る。
私も続いた。
外では、まだ康平たちの声が重なっていた。
扉が開いたままになり、大地が押さえている。沢村の声が人数を数えかけ、別の声に遮られた。
私はみんなに手を上げ、門へ向かった。
隣で潤の足音が続いている。
「よし乃、行かないの?」
「今日はいい」
「そっか」
数歩、黙って歩いた。
靴底が夜の道を擦る音だけが残った。
「……月曜、演劇の人と話したんだ」
口に出してから、潤を見た。
潤の足音が一度止まり、こちらへ顔を向けた。
「土曜の音。舞台の準備してたんだって」
持ち手にかけた指が、少し冷たくなっていた。
けれど今度は、話を別のことへ変えずに、潤の返事を待った。何の音だったのかは、まだわからない。それでも、気になっていることを曖昧に笑って終わらせたくはなかった。
「……そうか」
潤は会館のほうを見た。
玄関の明かりの下で、大地がまだ誰かを待っている。笑い声がこちらまで届き、扉が閉まると急に小さくなった。
「板を運んでたんだって。月曜も、階段のところで会った」
「演劇の?」
「うん。舞台の扉の枠に使う板。だから、土曜に聞こえたのも、それだったのかなって」
話しながら、潤の顔を見た。
うなずくと思っていた。そういうことだったのか、と言って、それで終わるような気もしていた。
けれど潤は、ケースの肩紐を掛け直しただけだった。
その指が、留め具の近くで一度止まる。爪先が金具に触れ、かすかな音を立てた。
「……潤?」
「それなら、音のことはわかったんだろ」
「うん」
答えてから、少し違うと思った。
「全部じゃないけど」
潤の手が止まった。
門の手前で、私も足を止める。
後ろから来た自転車を避けて、二人で道の端へ寄った。車輪が落ち葉を踏み、乾いた音が遠ざかっていく。
その音が消えたあと、会館裏手の暗がりから、低い振動が伝わってきた気がした。
耳で聞いたというより、靴底から足首へ這い上がってくるような揺れだった。
「土曜、帰ってからね」
言い始めると、思っていたより声が小さかった。
潤がこちらへ顔を寄せた。
「部屋に、黒い粉が落ちてたの」
「粉?」
聞き返す声が、わずかに低くなった。
「ケースのそば。最初、どこかで汚したのかなって思ったんだけど」
持ち手を見下ろす。
今は何もついていない。留め具のそばも、側面も、練習のあとに確かめた。
「触ると、ちょっとべたついて。普通の埃とは違う感じだった」
「ケースについてた?」
「わからない。床に落ちてたから」
潤はすぐには答えなかった。
ただ、ケースの底を見た。まるで、そこに残ったものを探すように。
その視線が怖かった。
私が気にしすぎているだけなら、そんなふうに確かめる必要はないはずだった。けれど潤は、粉の話を聞いた瞬間から、何かを思い出したような顔をしている。
会館の裏手で、また小さな音がした。
今度は、何かが壁の向こうを爪でなぞったような、ざらついた音だった。
潤の視線が、私の肩越しへ跳ねる。
私も振り返りかけたが、潤の手が先に伸び、肘のあたりをつかんだ。
「見るな」
低い声だった。
その一言で、喉が締まった。
見てはいけないと言われると、暗がりの中に何があるのか、かえって輪郭を持ちはじめる。閉じた地下扉。剥がれた壁。こちらを見返す何か。
話してしまうと、やっぱり大げさだった気がした。会館は古いし、ケースを置く場所だって、いつもきれいなわけではない。靴についたものを部屋まで持っていっただけかもしれない。
「それだけなら、別に――」
「ほかにもあるのか」
言葉が止まった。
潤の声は低かった。さっきまでの穏やかさが消えている。
「スマホが震えたと思ったのに、通知がなかったり」
「いつ」
「土曜。月曜も」
潤が、私の鞄へ目を向けた。
その視線につられて、私も見た。
鞄の中で、スマホが小さく揺れた気がした。
反射的に手を伸ばしかけて、やめる。画面を見ても、何も届いていない気がした。もしまた何もなかったら、今度は本当に、何かがおかしいと認めなければならない。
その瞬間、鞄の底から、ぶ、と短い振動が伝わった。
私は息を止めた。
潤の指が、肘をつかんだまま強くなる。
画面を取り出す。
通知はなかった。
けれど、黒い画面の端に、会館裏手の暗がりが映っていた。
そこに、私たち以外の影が一つ、立っているように見えた。
瞬きをすると、何もなかった。
「でも、それは勘違いかも。そういうこと、あるし」
「うん」
「全部、地下と関係あるって言いたいわけじゃないよ」
潤は私へ目を戻した。
「わかってる」
その返事を聞いても、肩の力は抜けなかった。
潤は否定しなかった。大丈夫だとも、気のせいだとも言わなかった。
自分でも、何を説明したいのかわからなかった。ただ、別々のこととして話そうとすると、どうしても土曜の音へ戻ってしまう。あの金属音が、耳の奥に残っていた。遠くで鳴ったはずなのに、今もすぐ背後で鳴っているようだった。
そして今、その音が、会館の裏手から返ってきた。
かすかに。
こちらの呼吸を確かめるように。
「気になってたなら、言えばよかったのに」
「言おうとは思った」
「いつ」
「月曜。メッセージで」
潤の眉が、わずかに動いた。
「樹にパー練頼んだって送った時?」
「うん。その前」
風が吹いた。
会館のほうから、康平の声がした。よし乃へ向かう人たちが、ようやく歩き始めたらしい。
潤はその声のほうを見ずに、私を見ていた。
けれど、耳だけは会館の裏手へ向けているようだった。
笑い声が近づく。
その明るさが、かえって暗がりを際立たせた。
会館裏手の壁際で、何かが一度、息を吸ったような音を立てた。
潤の肩がわずかに強張る。
私の背中には冷たい汗が流れ、指先が痺れた。
「なんでやめた」
「練習の話のほうが、しやすかったから」
口にしてから、自分でも少し笑った。
「そっちは、何を言えばいいかわかるでしょ」
潤の口元が動いた。
けれど、笑いにはならなかった。
「……俺も、聞き方が悪かったな」
「聞かれてないよ」
「寝たか、とか。大丈夫か、とか」
「ああ」
それなら、何度も聞かれた。
私はそのたび、大丈夫と答えていた。
「聞かれても、同じこと言ったかもしれない」
「今は?」
「今も、帰れるくらいには大丈夫」
潤が息を吐いた。
その息は、ため息というより、何かを押し込める音に聞こえた。
「そういう聞き方になるんだよな」
困ったような声だった。
少しおかしくて、今度はちゃんと笑えた。
けれど、潤は笑わなかった。
会館の裏手を見たまま、指先でケースの肩紐を強く握っていた。
門を出る。
潤も隣を歩き始めた。
数歩進んだところで、背後から、靴底を引きずるような音がした。
私は振り返ろうとした。
潤の手が、今度は肩をつかんだ。
「振り向くな」
声が、耳元で震えていた。
会館の玄関では、大地たちがまだ笑っている。
なのに、背後の音だけが、私たちの歩幅に合わせて近づいてくる。
一歩。
止まる。
もう一歩。
また、止まる。
私の呼吸が乱れた。
潤も歩いているはずなのに、足音が聞こえない。聞こえるのは、背後から追ってくる音だけだった。
「粉は、まだある?」
「拭いちゃった」
「そっか」
「写真、撮っておけばよかったね」
「またあったらでいい」
また。
その言葉に、持ち手を握る指が強くなった。
潤も気づいたらしく、すぐに続けた。
「確かめるために、地下へ行く必要はないから」
「行ってないよ」
「うん」
潤は会館の裏手へ続く細い道を、一度だけ振り返った。
そこにはもう、玄関の明かりも届いていない。暗がりの奥で、排水管が風に鳴った。
けれど、その音の下に、別の音が混じっていた。
金属を押し開けるような、重く湿った軋み。
潤の顔から血の気が引いた。
「……あそこ、昔から鍵が合わないんだ」
「鍵?」
「地下の扉。閉まってるように見えても、完全には閉まらない時がある」
潤は扉のほうへ近づかなかった。
代わりに、私の肩を道の外側へ押しやるようにして、自分が暗がり側を歩いた。
その瞬間、暗がりの奥で、何かが扉に触れた。
かちり、と鍵が回る音がした。
私は足を止めた。
潤の腕が、私の前を横切る。
「潤は?」
足音が、少しだけずれた。
「地下、行ったことあるんでしょ」
潤は前を向いたまま、うなずいた。
「ある」
その一言が、思っていたより重く落ちた。
聞かなければよかったと思った。けれど、もう引き返せなかった。
「じゃあ、どうして、あんな言い方したの」
街灯の下へ入った。
潤の影が、私の足元まで伸びてくる。
「地下には近づくな、って」
潤が足を止めた。
私も、一歩先で止まる。
背後で、扉がゆっくり開いた。
蝶番が軋む音が、夜気を裂いた。
潤の呼吸が止まる。
私の膝から力が抜けかけ、ケースが手の中で滑った。
今度は、こちらを見ていた。
その顔には、迷いよりも警戒が浮かんでいた。私に何かを話すかどうかではなく、どこから何が来るのかを見極めようとしているようだった。
「土曜、何を聞いた?」
すぐには答えられなかった。
板を引きずる音。何かを叩く音。その説明なら、さっきした。
けれど、潤が知りたいのは、それだけではない。
私が聞いた音の中に、潤だけが知っている何かが混じっている。
潤は待っていた。
急かさないまま、けれど目を逸らさずに。
私はケースを身体のそばへ引き寄せた。
その底に、あの黒い粉がまだ残っているような気がした。指先に、べたついた感触が戻ってくる。
背後から、冷たい空気が流れてきた。
土の匂いと、濡れた金属の匂い。その奥に、かすかに甘い、腐ったような臭いが混じっている。
「……潤も、何か聞いたの?」
遠くで、康平たちが笑った。
その声が、急にひどく遠く感じられた。
潤は、笑い声が消えるまで黙っていた。
やがて、会館の裏手から、金属が一度だけ擦れる音がした。
今度は、風の音ではなかった。
短く、鋭く、何かがこちらへ触れたような音だった。
潤の顔から、さっきまでの困ったような表情が消えた。
反射的に、私の前へ半歩出る。
その動きで、私はようやく理解した。
潤は、あの音を知っている。
そして、音の向こうにあるものを、私より先に恐れている。
「……今の、板じゃない」
そう言ってから、潤は口を閉じた。
何を知っているのかは、まだ話さなかった。
会館の裏手の暗がりで、何かがもう一度、ゆっくりと動いた。
扉の隙間から、黒いものが一瞬だけ覗いた。
人の手にも、影にも見えた。
潤の指が、私の手首に食い込む。
「走るぞ」
その声と同時に、地下から、誰かがこちらの名前を呼んだ。
返事をしそうになった。
聞き慣れた声だった。
すぐそばにいる人に呼ばれた時と同じように、顔を向けかけた。
けれど、その声がどこから聞こえたのかは、わからなかった。
暗がりのどこにも、声の主の姿はなかった。
手首が引かれる。
潤の背中が前へ動き、私はケースを抱え直して走った。最初の一歩で靴が滑った。潤が速度を落とし、私が踏み直すのを待ってから、また走り出す。
ケースが腿に当たる。
鞄の肩紐がずり落ちて、肘に引っかかった。
後ろで、もう一度声がした。
今度は何と言ったのか、わからなかった。
自分の息がうるさくて、聞き取れなかったのかもしれない。
それとも、最初から言葉ではなかったのかもしれない。
振り返ることはできなかった。
振り返れば、そこに誰かがいる気がした。
誰もいない気もした。
角を曲がる。
コンビニの明かりが見えた。
白い光が、暗い道の先に四角く浮かんでいた。
潤はそこで初めて速度を緩めた。店の前まで来ると、私の顔を確かめ、それから自動ドアへ向かった。
入店を知らせる音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
レジから声がした。
私は足を止め、ケースを下ろしかけて、持ち直した。
その声は、さっきの声とは違っていた。明るい店内から、店員の姿と一緒に聞こえてきた。
明るかった。
棚にはおにぎりが並んでいて、奥で誰かが雑誌を読んでいた。冷蔵庫の扉が開き、閉まる。レジで袋が擦れる。
どの音も、どこから聞こえるのかがわかった。
音の先に、ちゃんと人や物があった。
潤の手が離れた。
「……痛かったか」
「大丈夫」
手首に指の跡が残っていた。
潤はそれを見て、何か言いかけた。
「転ばなくてよかった」
私が先に言うと、潤は口を閉じた。
まだ息がうまく吸えなかった。喉の奥が乾いて、飲み込むと痛い。
それでも、店内の明かりの下にいると、さっきまで背中に張りついていた暗さが少し遠のいた。
潤が飲み物の棚を指した。
「何か飲む?」
「水」
うなずいて、二本取る。
会計の間、私は入口から少し離れたところで待った。ガラスには店内の棚と、自分の顔が映っていた。
その向こうに、夜の道がある。
暗がりはまだそこにあった。けれど、店内の光がガラスに反射して、外の様子を薄く覆っていた。
私は、外の暗がりを探すのをやめた。




