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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第二章 舞踏会
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12/42

舞踏会(5)

 真紀の楽器を下ろす音がした。

「最後、楽しかった」

「聞こえたよ。すごかった」

「ちょっと張り切った」

「ちょっと?」


 真紀が笑う。

 その笑いに、隣の子の声が重なった。

「私も」


 私は弓を緩め、楽器をケースへ戻した。

 肩を回すと、筋肉の奥に重さが溜まっていた。弾いている間は音の中に紛れていた疲れが、今になって身体へ戻ってくる。


 樹はまだ譜面に鉛筆を走らせていた。

「忘れないうちに?」

「はい。管の切り方、思ってたのと違ったので」

「私も書いた」

「月曜、弦だけでできても、まだ半分ですね」

「うん。でも、やってあったから今日はそこを聴けたんだと思う」


 鉛筆の音が止まった。

「次も、そうしたいです」


 譜面を片づけていると、潤の足音が近づいた。

 スコアをめくる音がして、私たちの前で止まる。


「樹」

「はい」

「月曜、どこをやった?」

「細かい音の長さと、弓の使い方です。あと、指使いを少し」

「そうか。今日、テンポ落としても流れが残ってた」

「……ありがとうございます」


 樹の返事が、いつもより少し遅れた。

 潤がスコアへ目を落とす気配がある。


「今日ずれたところ、次のパー練でも見ておいて」

「はい」

「私も確認しておくね」

 潤の視線がこちらへ移った。

「頼む」


 樹が譜面をもう一度開く。

 私はケースの蓋を閉じ、留め具をかけた。金具の小さな音が、静かになり始めた部屋に響いた。


「未央」

「うん?」

「二楽章、最初の合わせより、全員でやった後のほうがよかった」

「管、聴けたから」

「うん」


 潤の声が途切れた。

 私はケースの持ち手に手をかけたまま、顔を上げていた。言葉のない間に、遠くで椅子を動かす音がした。


「土曜も、あの感じで」

「潤も、今日の合図でね」

「わかってる」

「よろしく」


 潤の声が少し柔らかくなった。


 奥から沢村の声がした。

「よし乃、行く人」


「行く」

 大地の返事がすぐに返る。

「俺も」

 康平が続いた。


「未央は?」

「今日は帰る。お疲れさま」

「お疲れ。気をつけて」


 譜面台を畳む音、椅子を引く音が続く。

 部屋から音がなくなると、窓の外の風が聞こえた。熱のこもっていた頬を、廊下の空気が冷ましていく。


 樹は後輩と、土曜に使う譜面のことを話していた。

 私はケースを持ち直した。持ち手が掌へ食い込み、先に階段へ向かった。


 一階へ下りる。

 足音が玄関の床で変わった。


 そばの演劇のポスターが目に入った。


 最後の舞踏会。


 二楽章を弾いている間は、一度も思い出さなかった。

 今は白い仮面の輪郭まで、はっきり見えた。サークル会館の掲示板で何度も見て来た、公演ポスターの、あの仮面。

 

 地下から、何かを動かす音がした。足が止まる。ケースの持ち手を握り直す。掌に食い込む感触のあと、話し声が続いた。


「未央」


 後ろから潤の声がした。

 足音が近づき、隣で止まる。


「帰るんだろ」

「うん」


 潤の視線がポスターへ向き、それから私へ戻った気配がした。

 何か言うかと思ったけれど、玄関の扉が開き、外の冷たい空気が流れ込んできた。潤が先に出る。


 私も続いた。


 外では、まだ康平たちの声が重なっていた。

 扉が開いたままになり、大地が押さえている。沢村の声が人数を数えかけ、別の声に遮られた。


 私はみんなに手を上げ、門へ向かった。

 隣で潤の足音が続いている。


「よし乃、行かないの?」

「今日はいい」

「そっか」


 数歩、黙って歩いた。

 靴底が夜の道を擦る音だけが残った。


「……月曜、演劇の人と話したんだ」


 口に出してから、潤を見た。

 潤の足音が一度止まり、こちらへ顔を向けた。


「土曜の音。舞台の準備してたんだって」


 持ち手にかけた指が、少し冷たくなっていた。

 けれど今度は、話を別のことへ変えずに、潤の返事を待った。何の音だったのかは、まだわからない。それでも、気になっていることを曖昧に笑って終わらせたくはなかった。


「……そうか」


 潤は会館のほうを見た。

 玄関の明かりの下で、大地がまだ誰かを待っている。笑い声がこちらまで届き、扉が閉まると急に小さくなった。


「板を運んでたんだって。月曜も、階段のところで会った」

「演劇の?」

「うん。舞台の扉の枠に使う板。だから、土曜に聞こえたのも、それだったのかなって」


 話しながら、潤の顔を見た。

 うなずくと思っていた。そういうことだったのか、と言って、それで終わるような気もしていた。


 けれど潤は、ケースの肩紐を掛け直しただけだった。

 その指が、留め具の近くで一度止まる。爪先が金具に触れ、かすかな音を立てた。


「……潤?」


「それなら、音のことはわかったんだろ」

「うん」


 答えてから、少し違うと思った。


「全部じゃないけど」


 潤の手が止まった。


 門の手前で、私も足を止める。

 後ろから来た自転車を避けて、二人で道の端へ寄った。車輪が落ち葉を踏み、乾いた音が遠ざかっていく。


 その音が消えたあと、会館裏手の暗がりから、低い振動が伝わってきた気がした。

 耳で聞いたというより、靴底から足首へ這い上がってくるような揺れだった。


「土曜、帰ってからね」


 言い始めると、思っていたより声が小さかった。

 潤がこちらへ顔を寄せた。


「部屋に、黒い粉が落ちてたの」

「粉?」


 聞き返す声が、わずかに低くなった。


「ケースのそば。最初、どこかで汚したのかなって思ったんだけど」


 持ち手を見下ろす。

 今は何もついていない。留め具のそばも、側面も、練習のあとに確かめた。


「触ると、ちょっとべたついて。普通の埃とは違う感じだった」

「ケースについてた?」

「わからない。床に落ちてたから」


 潤はすぐには答えなかった。

 ただ、ケースの底を見た。まるで、そこに残ったものを探すように。


 その視線が怖かった。

 私が気にしすぎているだけなら、そんなふうに確かめる必要はないはずだった。けれど潤は、粉の話を聞いた瞬間から、何かを思い出したような顔をしている。


 会館の裏手で、また小さな音がした。

 今度は、何かが壁の向こうを爪でなぞったような、ざらついた音だった。


 潤の視線が、私の肩越しへ跳ねる。

 私も振り返りかけたが、潤の手が先に伸び、肘のあたりをつかんだ。


「見るな」


 低い声だった。


 その一言で、喉が締まった。

 見てはいけないと言われると、暗がりの中に何があるのか、かえって輪郭を持ちはじめる。閉じた地下扉。剥がれた壁。こちらを見返す何か。


 話してしまうと、やっぱり大げさだった気がした。会館は古いし、ケースを置く場所だって、いつもきれいなわけではない。靴についたものを部屋まで持っていっただけかもしれない。


「それだけなら、別に――」

「ほかにもあるのか」


 言葉が止まった。

 潤の声は低かった。さっきまでの穏やかさが消えている。


「スマホが震えたと思ったのに、通知がなかったり」

「いつ」

「土曜。月曜も」


 潤が、私の鞄へ目を向けた。

 その視線につられて、私も見た。


 鞄の中で、スマホが小さく揺れた気がした。

 反射的に手を伸ばしかけて、やめる。画面を見ても、何も届いていない気がした。もしまた何もなかったら、今度は本当に、何かがおかしいと認めなければならない。


 その瞬間、鞄の底から、ぶ、と短い振動が伝わった。


 私は息を止めた。

 潤の指が、肘をつかんだまま強くなる。


 画面を取り出す。

 通知はなかった。


 けれど、黒い画面の端に、会館裏手の暗がりが映っていた。

 そこに、私たち以外の影が一つ、立っているように見えた。


 瞬きをすると、何もなかった。


「でも、それは勘違いかも。そういうこと、あるし」

「うん」

「全部、地下と関係あるって言いたいわけじゃないよ」


 潤は私へ目を戻した。


「わかってる」


 その返事を聞いても、肩の力は抜けなかった。

 潤は否定しなかった。大丈夫だとも、気のせいだとも言わなかった。


 自分でも、何を説明したいのかわからなかった。ただ、別々のこととして話そうとすると、どうしても土曜の音へ戻ってしまう。あの金属音が、耳の奥に残っていた。遠くで鳴ったはずなのに、今もすぐ背後で鳴っているようだった。


 そして今、その音が、会館の裏手から返ってきた。


 かすかに。

 こちらの呼吸を確かめるように。


「気になってたなら、言えばよかったのに」

「言おうとは思った」

「いつ」

「月曜。メッセージで」


 潤の眉が、わずかに動いた。


「樹にパー練頼んだって送った時?」

「うん。その前」


 風が吹いた。

 会館のほうから、康平の声がした。よし乃へ向かう人たちが、ようやく歩き始めたらしい。


 潤はその声のほうを見ずに、私を見ていた。

 けれど、耳だけは会館の裏手へ向けているようだった。


 笑い声が近づく。

 その明るさが、かえって暗がりを際立たせた。


 会館裏手の壁際で、何かが一度、息を吸ったような音を立てた。


 潤の肩がわずかに強張る。

 私の背中には冷たい汗が流れ、指先が痺れた。


「なんでやめた」

「練習の話のほうが、しやすかったから」


 口にしてから、自分でも少し笑った。


「そっちは、何を言えばいいかわかるでしょ」


 潤の口元が動いた。

 けれど、笑いにはならなかった。


「……俺も、聞き方が悪かったな」

「聞かれてないよ」

「寝たか、とか。大丈夫か、とか」


「ああ」


 それなら、何度も聞かれた。

 私はそのたび、大丈夫と答えていた。


「聞かれても、同じこと言ったかもしれない」

「今は?」

「今も、帰れるくらいには大丈夫」


 潤が息を吐いた。

 その息は、ため息というより、何かを押し込める音に聞こえた。


「そういう聞き方になるんだよな」


 困ったような声だった。

 少しおかしくて、今度はちゃんと笑えた。


 けれど、潤は笑わなかった。

 会館の裏手を見たまま、指先でケースの肩紐を強く握っていた。


 門を出る。

 潤も隣を歩き始めた。


 数歩進んだところで、背後から、靴底を引きずるような音がした。


 私は振り返ろうとした。

 潤の手が、今度は肩をつかんだ。


「振り向くな」


 声が、耳元で震えていた。


 会館の玄関では、大地たちがまだ笑っている。

 なのに、背後の音だけが、私たちの歩幅に合わせて近づいてくる。


 一歩。

 止まる。


 もう一歩。

 また、止まる。


 私の呼吸が乱れた。

 潤も歩いているはずなのに、足音が聞こえない。聞こえるのは、背後から追ってくる音だけだった。


「粉は、まだある?」

「拭いちゃった」

「そっか」

「写真、撮っておけばよかったね」

「またあったらでいい」


 また。


 その言葉に、持ち手を握る指が強くなった。

 潤も気づいたらしく、すぐに続けた。


「確かめるために、地下へ行く必要はないから」

「行ってないよ」

「うん」


 潤は会館の裏手へ続く細い道を、一度だけ振り返った。

 そこにはもう、玄関の明かりも届いていない。暗がりの奥で、排水管が風に鳴った。


 けれど、その音の下に、別の音が混じっていた。

 金属を押し開けるような、重く湿った軋み。


 潤の顔から血の気が引いた。


「……あそこ、昔から鍵が合わないんだ」

「鍵?」

「地下の扉。閉まってるように見えても、完全には閉まらない時がある」


 潤は扉のほうへ近づかなかった。

 代わりに、私の肩を道の外側へ押しやるようにして、自分が暗がり側を歩いた。


 その瞬間、暗がりの奥で、何かが扉に触れた。


 かちり、と鍵が回る音がした。


 私は足を止めた。

 潤の腕が、私の前を横切る。


「潤は?」


 足音が、少しだけずれた。


「地下、行ったことあるんでしょ」


 潤は前を向いたまま、うなずいた。


「ある」


 その一言が、思っていたより重く落ちた。

 聞かなければよかったと思った。けれど、もう引き返せなかった。


「じゃあ、どうして、あんな言い方したの」


 街灯の下へ入った。

 潤の影が、私の足元まで伸びてくる。


「地下には近づくな、って」


 潤が足を止めた。

 私も、一歩先で止まる。


 背後で、扉がゆっくり開いた。


 蝶番が軋む音が、夜気を裂いた。

 潤の呼吸が止まる。

 私の膝から力が抜けかけ、ケースが手の中で滑った。


 今度は、こちらを見ていた。

 その顔には、迷いよりも警戒が浮かんでいた。私に何かを話すかどうかではなく、どこから何が来るのかを見極めようとしているようだった。


「土曜、何を聞いた?」


 すぐには答えられなかった。

 板を引きずる音。何かを叩く音。その説明なら、さっきした。


 けれど、潤が知りたいのは、それだけではない。

 私が聞いた音の中に、潤だけが知っている何かが混じっている。


 潤は待っていた。

 急かさないまま、けれど目を逸らさずに。


 私はケースを身体のそばへ引き寄せた。

 その底に、あの黒い粉がまだ残っているような気がした。指先に、べたついた感触が戻ってくる。


 背後から、冷たい空気が流れてきた。

 土の匂いと、濡れた金属の匂い。その奥に、かすかに甘い、腐ったような臭いが混じっている。


「……潤も、何か聞いたの?」


 遠くで、康平たちが笑った。

 その声が、急にひどく遠く感じられた。


 潤は、笑い声が消えるまで黙っていた。


 やがて、会館の裏手から、金属が一度だけ擦れる音がした。


 今度は、風の音ではなかった。

 短く、鋭く、何かがこちらへ触れたような音だった。


 潤の顔から、さっきまでの困ったような表情が消えた。

 反射的に、私の前へ半歩出る。


 その動きで、私はようやく理解した。

 潤は、あの音を知っている。

 そして、音の向こうにあるものを、私より先に恐れている。


「……今の、板じゃない」


 そう言ってから、潤は口を閉じた。

 何を知っているのかは、まだ話さなかった。


 会館の裏手の暗がりで、何かがもう一度、ゆっくりと動いた。


 扉の隙間から、黒いものが一瞬だけ覗いた。

 人の手にも、影にも見えた。


 潤の指が、私の手首に食い込む。


「走るぞ」


 その声と同時に、地下から、誰かがこちらの名前を呼んだ。


返事をしそうになった。


 聞き慣れた声だった。

 すぐそばにいる人に呼ばれた時と同じように、顔を向けかけた。


 けれど、その声がどこから聞こえたのかは、わからなかった。

 暗がりのどこにも、声の主の姿はなかった。


 手首が引かれる。


 潤の背中が前へ動き、私はケースを抱え直して走った。最初の一歩で靴が滑った。潤が速度を落とし、私が踏み直すのを待ってから、また走り出す。


 ケースが腿に当たる。

 鞄の肩紐がずり落ちて、肘に引っかかった。


 後ろで、もう一度声がした。


 今度は何と言ったのか、わからなかった。

 自分の息がうるさくて、聞き取れなかったのかもしれない。

 それとも、最初から言葉ではなかったのかもしれない。


 振り返ることはできなかった。

 振り返れば、そこに誰かがいる気がした。

 誰もいない気もした。


 角を曲がる。

 コンビニの明かりが見えた。


 白い光が、暗い道の先に四角く浮かんでいた。

 潤はそこで初めて速度を緩めた。店の前まで来ると、私の顔を確かめ、それから自動ドアへ向かった。


 入店を知らせる音が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 レジから声がした。


 私は足を止め、ケースを下ろしかけて、持ち直した。

 その声は、さっきの声とは違っていた。明るい店内から、店員の姿と一緒に聞こえてきた。


 明るかった。


 棚にはおにぎりが並んでいて、奥で誰かが雑誌を読んでいた。冷蔵庫の扉が開き、閉まる。レジで袋が擦れる。

 どの音も、どこから聞こえるのかがわかった。

 音の先に、ちゃんと人や物があった。


 潤の手が離れた。


「……痛かったか」

「大丈夫」


 手首に指の跡が残っていた。

 潤はそれを見て、何か言いかけた。


「転ばなくてよかった」

 私が先に言うと、潤は口を閉じた。


 まだ息がうまく吸えなかった。喉の奥が乾いて、飲み込むと痛い。

 それでも、店内の明かりの下にいると、さっきまで背中に張りついていた暗さが少し遠のいた。


 潤が飲み物の棚を指した。


「何か飲む?」

「水」


 うなずいて、二本取る。

 会計の間、私は入口から少し離れたところで待った。ガラスには店内の棚と、自分の顔が映っていた。


 その向こうに、夜の道がある。

 暗がりはまだそこにあった。けれど、店内の光がガラスに反射して、外の様子を薄く覆っていた。


 私は、外の暗がりを探すのをやめた。


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