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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第二章 舞踏会
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舞踏会(6)

 店を出て、大通りのほうへ歩いた。

 自動ドアが閉まると、背中にあった明るさが遠ざかった。けれど、コンビニの看板の光は、しばらく私たちの足元を照らしていた。


 潤が私の歩幅に合わせているのがわかった。信号の明かりの下で、水の蓋を開ける。最初の一口は、半分くらいしか飲み込めなかった。


「落ち着いた?」

「少し」


 信号の電子音が鳴っていた。

 車のライトが道路を横切り、赤や白の光が濡れた路面に伸びては消える。


 潤も水を飲んだ。

 蓋を締める手が、いつもよりゆっくりだった。何度か指を止め、締めたはずの蓋を確かめるように見下ろしている。


「潤も、怖かった?」


 ペットボトルを握ったまま、こちらを見た。


「……怖かった」


 声は低く、かすれていた。

 言葉にした途端、潤の喉が小さく動いた。視線が一度、私の背後へ滑る。暗い道のほうを確かめるように見てから、すぐに戻ってきた。


 そう言われて、胸の奥がまた冷えた。

 あの声が潤の声に似ていたからではない。

 潤にも、あの声の正体がわからないのだとわかったからだった。


 けれど、聞けてよかったとも思った。


「さっきの声」

 私が言うと、潤の目が上がった。

「私の名前、呼んだよね」

「うん」

「誰の声に聞こえた?」


 潤は答えず、私を見ていた。


 唇がわずかに開き、何かを言いかける。

 けれど、声にはならなかった。ペットボトルを握る指に力が入り、薄い容器が小さくへこんだ。


「私には、潤の声に聞こえた」


 車が通り過ぎた。

 その音が遠ざかるまで、潤は動かなかった。


 やがて、握っていたペットボトルからゆっくりと指を離した。へこんだ容器が戻る音が、妙に大きく聞こえた。


「俺、呼んでない」

「わかってる。目の前にいたから」


 潤はうなずかなかった。

 目の前にいた、という言葉を受け止めるように、視線を落とした。自分が私の手首を引いたことを思い出したのか、指先がわずかに震えた。


 だから、走れたのだと思った。

 隣にいなかったら、振り返っていた。どうしたの、と返事をして、声のするほうへ近づいたかもしれない。


 声の主が誰なのか、確かめようとしていたかもしれない。

 確かめた先に、誰もいなかったとしても。


「前にも、あったの?」


 潤がうなずいた。


 けれど、すぐには話さなかった。

 うなずいたあとも、口を閉じたまま、信号の向こうを見ていた。電子音だけが、一定の間隔で夜に響いている。


「会館で?」

「地下の階段で。一人だった時」


 声が少し小さくなった。

 潤は自分のケースの肩紐へ手を伸ばし、握った。さっき走った時からずっと張っていた紐を、確かめるように何度も指でなぞる。


 私は水の蓋を締めた。

 指が濡れていて、うまく噛み合わなかった。もう一度回す。


「下から呼ばれた。知ってる声だったから、誰かいると思った」


 そこで潤は言葉を切った。

 目の前にある階段を見ているようだった。暗い地下へ続く段差と、そこから聞こえた声を、今も思い出しているのかもしれない。


「降りたの?」

「途中まで」


 短く答えたあと、潤は息を吐いた。

 吐ききれなかった息が喉に残ったように、声がかすれる。


「でも、呼んだやつは、その時間、会館にいなかった。あとでわかった」


 その言葉の最後で、潤の指が肩紐を強くつかんだ。

 爪が食い込むほどだった。


「誰?」


 少し間があった。


 潤は私を見た。

 その目には、さっきまでの恐怖とは別のものが浮かんでいた。言えば私を怖がらせるとわかっているのに、言わずにいることもできない。そんな迷いが、表情の奥で揺れていた。


「お前」


 私は顔を上げた。


 潤は視線を逸らさなかった。

 けれど、目の下には力が入り、眉間には浅い皺が寄っていた。言葉を口にしたことを、もう後悔しているようにも見えた。


「その日、来てなかっただろ」

「……いつ?」

「夏休み。お前が、家族で出かけてた日」


 潤の声が、最後のところでわずかに震えた。


 覚えていた。

 練習を休む連絡をして、帰ってから譜面の書き込みを見せてもらった。


「そのあとも?」

「音は、何度か。声は、今日まで聞いてなかった」


 潤は一度、会館へ戻る道を見た。

 大通りの明かりが届かない先は、黒く沈んでいる。


 その暗がりを見たまま、潤は黙っていた。

 戻るつもりはないのに、そこから目を離せないようだった。やがて、唇を噛み、ゆっくりと目を戻す。


「何なのかは、わからない」


 言い訳のように聞こえた。

 潤自身も、それに気づいたのか、すぐに続けた。


「わからないまま、俺だけ聞いてた。……お前に言わなかった」


 最後の言葉が、ほとんど独り言のように落ちた。


「黒い粉も?」

「それは、今日初めて聞いた」


 潤は首を振った。

 その動きがあまりに強く、髪が額に落ちた。手で払おうとしたが、途中で止まり、拳を握った。


 私はうなずいた。

 潤が全部知っているように見えていた。けれど、彼も同じように、わからないものの音を聞いていた。


 声は、誰かのものに似ている。

 けれど、誰のものでもないのかもしれない。

 そう考えると、さっきよりも怖かった。


「先に言えばよかった」

 潤が言った。

 今度は私を見ず、足元の白線を見ていた。

「近づくな、だけじゃなくて」


 その手が、ケースの肩紐から離れた。

 行き場を失った指が、何度か開いて閉じる。


「……うん」


 大丈夫だよ、とは言えなかった。

 あの夜、地下には近づくなと言われた時に聞きたかった。


 潤は、私の返事を受けて目を伏せた。

 肩がわずかに落ちる。責められなかったことに安堵したのか、それとも、責められるほうが楽だったのか、わからなかった。


「でも、今は話してくれてよかった」


 そう続けると、こちらを見た。


 目の奥には、まだ恐怖が残っていた。

 それでも、隠していたことをようやく手放したような、疲れた色もあった。


「次、何かあったら、私も言う」

「うん」

「潤もね」


 潤はすぐには返事をしなかった。

 それから、喉の奥で小さく息を鳴らすようにして、短くうなずいた。


 信号が変わった。

 向こう側で待っていた人たちが歩き出す。私たちも、その流れに入った。


 人の足音が重なり、信号の音が続いている。

 誰かの声がしても、今はその人の姿が見えた。

 それだけで、足元が少し確かになった。


     *


 バス停には、まだ何人か人がいた。


 時刻を確かめ、ケースを足元へ置く。肩から鞄を下ろすと、ようやく身体の重さがわかった。

 潤は隣に立ったまま、自分のスマートフォンを出した。


「送っていく」

「バスで帰れるよ」

「途中まで」

「帰り、遠くなるでしょ」


 潤の指が画面の上で止まった。


 断ろうとして、言葉を飲み込んだ。

 一人でバスを降りてから、家まで歩く道を考えてしまった。


 その道には、街灯の切れた場所がある。

 声が聞こえたら、今度はどこから聞こえるのか、わからない。


「……一緒に乗ってくれる?」


 潤が顔を上げた。


「うん」


 それだけだった。

 私はケースの持ち手から手を離した。掌には、まだ握っていた形が残っていた。


 バスの明かりが近づいてくる。


 白いヘッドライトが、道路の暗がりを押し分けるようにこちらへ向かってきた。

 停車すると、ドアが開く。車内の明かりが歩道へ流れ出した。


 乗り込んで、空いている二人掛けの席へ座った。潤がチェロを収める場所を確かめ、隣へ腰を下ろす。

 ドアが閉まり、車体がゆっくり動き始めた。


 車内には、運転手の声と、乗客の小さな話し声があった。

 次の停留所を知らせる表示が光っている。

 明るい天井灯が、窓の外の暗さを映り込みごと薄めていた。


 窓に、二人の顔が映った。


 私はそこから目を離し、膝の上の鞄を見た。


「さっき、ありがとう」


 潤がこちらを向いた。


「走る時。待ってくれて」

「ケース持ってたからな」

「潤だって、チェロ持ってたのに」


 潤は何も言わなかった。

 座席の間に置いた私のケースが、揺れて少し傾く。その側面へ手を添えてくれた。


 私は鞄の上で、自分の手を重ねた。


 バスが交差点を曲がる。

 窓の外で、街灯と店の明かりが流れていく。暗い場所が現れても、すぐに次の光が追いついてきた。


 次の停留所を知らせる声が流れる。

 運転手が返事をして、誰かが降車ボタンを押した。


 その声は、車内のスピーカーから聞こえた。

 誰が話しているのかがわかる。

 どこから聞こえているのかも、わかる。


 潤の手は、ケースに添えられたままだった。


 しばらくして、潤が小さく言った。


「次から、会館を出る時は一緒に出よう」

「うん」

「もし、また聞こえても」

 潤はそこで言葉を止めた。

「一人で確かめに行かない」


 私は隣を見た。

 潤は窓の外を見ていた。流れていく明かりが、その横顔を明るくしたり、暗くしたりしている。


「潤も」

「わかってる」

「本当に?」

「……本当に」


 その返事に、少しだけ笑った。

 潤も、ほんの少し口元を緩めた。


 その時、窓の外を暗い影が横切った。


 人のようにも、木の枝のようにも見えた。

 私は反射的に息を止めた。


 潤の手が、ケースから離れた。

 代わりに、座席の隙間で私の手の甲に触れる。


 確かめるような、短い接触だった。


 私は手を引かなかった。

 潤もすぐには離さなかった。


 影は、後方へ流れて消えた。

 何だったのかは、わからない。


 けれど、今度は振り返らなかった。

 隣にいる潤の手の温度を、確かめるように感じていた。


 家までの道を、一人で考えなくていい。

 明るい車内にいて、隣には潤がいる。


 それでも、窓の外の暗がりが完全に消えたわけではない。

 次にどこから声が聞こえるのかも、まだわからない。


 だからこそ、私は手を重ねた。

 潤の手の甲に、自分の指をそっと置く。


 潤がこちらを見た。

 今度は、どちらも何も言わなかった。


 バスは、次の明かりへ向かって走っていった。


     *


金曜の昼休み、印刷室には、機械が紙を吐き出す低い音と乾いたインクの匂いがこもっていた。次の授業で使う資料を印刷していると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 画面に、岡元先輩の名前が浮かんでいた。


〈久しぶり。元気にしてる? 演奏のことで、ちょっとお願いがあるんだけど〉


 印刷機の受け皿から出てきた紙を揃え、鞄へしまう。機械の前を空け、廊下の窓際へ移った。窓ガラスは薄く冷えていて、指先に残った紙の熱が少しずつ引いていく。


〈お久しぶりです。元気です。お願いというのは、何でしょうか〉


 岡元伸宏先輩は、私たちが一年生だった頃のヴィオラトップだった。教育学部の英語科で、国語の私とは使う教室が違っていたけれど、学部棟の廊下で時々顔を合わせた。


 入団して間もない頃、知らない先輩ばかりの中で小さくなっていた私に、すれ違うたび「練習、どう?」と声をかけてくれた人だった。あの頃は、その一言だけで、張りつめていた肩の力が少し抜けた。


 返事は、しばらくして届いた。


〈今月末の日曜、空いてるかな。ゼミの友達の披露宴で、カルテットを頼まれていて〉


 手帳を開く。午後の予定がいくつか並んでいたが、その日の欄だけは白かった。前日の土曜には、全練の印がある。


〈今のところ、空いています。分奏の予定だけ確認させてください〉

〈もちろん。秋定前だものね。無理のないところで大丈夫だよ〉


 続けて、もう一通届いた。


〈いつも一緒に弾いてる人たちと、ちょうど別の式が重なってしまって。君と、セカンドとチェロをお願いできないかなと思ってる〉


 セカンドとチェロ。


 その文字を見た瞬間、樹と潤の顔が浮かんだ。樹の、譜面を覗き込む時の真剣な横顔。潤の、音を出す前に一度だけ弓を持ち直す癖。


〈小野寺と千堂でよければ、聞いてみます〉

〈うん、その二人なら嬉しい。千堂くんにも久しぶりに会えるね〉


 潤も一年生の時からシートをもらっていた。チェロとヴィオラの席は近いから、私より岡元先輩と話す機会が多かったかもしれない。


 私たちが二年生になってからも、演奏会の受付や客席で姿を見かけることはあった。遠くから手を振ったり、終演後に短く言葉を交わしたりはしたけれど、一緒に弾くのは随分久しぶりだった。


〈先輩がヴィオラを弾くんですか?〉

〈そう。そこはちゃんと働きます〉


 思わず笑みがこぼれた。窓に映った自分の顔が、少しだけ柔らかくなる。


 その時、隣の教室から学生がまとまって出てきた。笑い声と足音が廊下を満たし、窓際の静けさが途切れる。私は画面に視線を戻した。


〈曲や時間が決まっていたら、教えていただけますか〉

〈まとめたものを送るね。まずは日程だけでも。謝礼と交通費のことも、そこに書いてあるから〉


 届いた資料を開くと、新郎新婦の名前が並んでいた。


 佐野敬彦さん、高田恵さん。


 佐野さんは高校の英語教師で、恵さんは予備校で英語を教えているのだと、先輩が続けて教えてくれた。


〈二人とも、曲の希望を聞いたら楽しそうに相談してくれて。少し増えるかもしれない〉


 添えられていた候補の中に、《愛の讃歌》があった。


 その曲名を見た途端、胸の奥に、弓を弦へ置く直前の静けさが浮かんだ。最初の音を出す前に、四人の呼吸がひとつになる瞬間。まだ何も決まっていないのに、音の重なりを想像すると、指先がわずかに熱くなった。


〈愛の讃歌は、ぜひお願いしたいそうです〉

〈私も弾きたいです〉


 送ってから、まだ引き受けられると決まったわけではないのに、と気づいた。先走った返事だったかもしれない。


 けれど、先輩からは笑っている顔のスタンプが返ってきた。


〈じゃあ、二人に聞いてみてくれる?〉

〈はい。確認して、またご連絡します〉


 画面を閉じ、手帳のその日に鉛筆で小さく「披露宴」と書いた。芯が紙を擦る音が、妙に確かなものとして残った。


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