舞踏会(6)
店を出て、大通りのほうへ歩いた。
自動ドアが閉まると、背中にあった明るさが遠ざかった。けれど、コンビニの看板の光は、しばらく私たちの足元を照らしていた。
潤が私の歩幅に合わせているのがわかった。信号の明かりの下で、水の蓋を開ける。最初の一口は、半分くらいしか飲み込めなかった。
「落ち着いた?」
「少し」
信号の電子音が鳴っていた。
車のライトが道路を横切り、赤や白の光が濡れた路面に伸びては消える。
潤も水を飲んだ。
蓋を締める手が、いつもよりゆっくりだった。何度か指を止め、締めたはずの蓋を確かめるように見下ろしている。
「潤も、怖かった?」
ペットボトルを握ったまま、こちらを見た。
「……怖かった」
声は低く、かすれていた。
言葉にした途端、潤の喉が小さく動いた。視線が一度、私の背後へ滑る。暗い道のほうを確かめるように見てから、すぐに戻ってきた。
そう言われて、胸の奥がまた冷えた。
あの声が潤の声に似ていたからではない。
潤にも、あの声の正体がわからないのだとわかったからだった。
けれど、聞けてよかったとも思った。
「さっきの声」
私が言うと、潤の目が上がった。
「私の名前、呼んだよね」
「うん」
「誰の声に聞こえた?」
潤は答えず、私を見ていた。
唇がわずかに開き、何かを言いかける。
けれど、声にはならなかった。ペットボトルを握る指に力が入り、薄い容器が小さくへこんだ。
「私には、潤の声に聞こえた」
車が通り過ぎた。
その音が遠ざかるまで、潤は動かなかった。
やがて、握っていたペットボトルからゆっくりと指を離した。へこんだ容器が戻る音が、妙に大きく聞こえた。
「俺、呼んでない」
「わかってる。目の前にいたから」
潤はうなずかなかった。
目の前にいた、という言葉を受け止めるように、視線を落とした。自分が私の手首を引いたことを思い出したのか、指先がわずかに震えた。
だから、走れたのだと思った。
隣にいなかったら、振り返っていた。どうしたの、と返事をして、声のするほうへ近づいたかもしれない。
声の主が誰なのか、確かめようとしていたかもしれない。
確かめた先に、誰もいなかったとしても。
「前にも、あったの?」
潤がうなずいた。
けれど、すぐには話さなかった。
うなずいたあとも、口を閉じたまま、信号の向こうを見ていた。電子音だけが、一定の間隔で夜に響いている。
「会館で?」
「地下の階段で。一人だった時」
声が少し小さくなった。
潤は自分のケースの肩紐へ手を伸ばし、握った。さっき走った時からずっと張っていた紐を、確かめるように何度も指でなぞる。
私は水の蓋を締めた。
指が濡れていて、うまく噛み合わなかった。もう一度回す。
「下から呼ばれた。知ってる声だったから、誰かいると思った」
そこで潤は言葉を切った。
目の前にある階段を見ているようだった。暗い地下へ続く段差と、そこから聞こえた声を、今も思い出しているのかもしれない。
「降りたの?」
「途中まで」
短く答えたあと、潤は息を吐いた。
吐ききれなかった息が喉に残ったように、声がかすれる。
「でも、呼んだやつは、その時間、会館にいなかった。あとでわかった」
その言葉の最後で、潤の指が肩紐を強くつかんだ。
爪が食い込むほどだった。
「誰?」
少し間があった。
潤は私を見た。
その目には、さっきまでの恐怖とは別のものが浮かんでいた。言えば私を怖がらせるとわかっているのに、言わずにいることもできない。そんな迷いが、表情の奥で揺れていた。
「お前」
私は顔を上げた。
潤は視線を逸らさなかった。
けれど、目の下には力が入り、眉間には浅い皺が寄っていた。言葉を口にしたことを、もう後悔しているようにも見えた。
「その日、来てなかっただろ」
「……いつ?」
「夏休み。お前が、家族で出かけてた日」
潤の声が、最後のところでわずかに震えた。
覚えていた。
練習を休む連絡をして、帰ってから譜面の書き込みを見せてもらった。
「そのあとも?」
「音は、何度か。声は、今日まで聞いてなかった」
潤は一度、会館へ戻る道を見た。
大通りの明かりが届かない先は、黒く沈んでいる。
その暗がりを見たまま、潤は黙っていた。
戻るつもりはないのに、そこから目を離せないようだった。やがて、唇を噛み、ゆっくりと目を戻す。
「何なのかは、わからない」
言い訳のように聞こえた。
潤自身も、それに気づいたのか、すぐに続けた。
「わからないまま、俺だけ聞いてた。……お前に言わなかった」
最後の言葉が、ほとんど独り言のように落ちた。
「黒い粉も?」
「それは、今日初めて聞いた」
潤は首を振った。
その動きがあまりに強く、髪が額に落ちた。手で払おうとしたが、途中で止まり、拳を握った。
私はうなずいた。
潤が全部知っているように見えていた。けれど、彼も同じように、わからないものの音を聞いていた。
声は、誰かのものに似ている。
けれど、誰のものでもないのかもしれない。
そう考えると、さっきよりも怖かった。
「先に言えばよかった」
潤が言った。
今度は私を見ず、足元の白線を見ていた。
「近づくな、だけじゃなくて」
その手が、ケースの肩紐から離れた。
行き場を失った指が、何度か開いて閉じる。
「……うん」
大丈夫だよ、とは言えなかった。
あの夜、地下には近づくなと言われた時に聞きたかった。
潤は、私の返事を受けて目を伏せた。
肩がわずかに落ちる。責められなかったことに安堵したのか、それとも、責められるほうが楽だったのか、わからなかった。
「でも、今は話してくれてよかった」
そう続けると、こちらを見た。
目の奥には、まだ恐怖が残っていた。
それでも、隠していたことをようやく手放したような、疲れた色もあった。
「次、何かあったら、私も言う」
「うん」
「潤もね」
潤はすぐには返事をしなかった。
それから、喉の奥で小さく息を鳴らすようにして、短くうなずいた。
信号が変わった。
向こう側で待っていた人たちが歩き出す。私たちも、その流れに入った。
人の足音が重なり、信号の音が続いている。
誰かの声がしても、今はその人の姿が見えた。
それだけで、足元が少し確かになった。
*
バス停には、まだ何人か人がいた。
時刻を確かめ、ケースを足元へ置く。肩から鞄を下ろすと、ようやく身体の重さがわかった。
潤は隣に立ったまま、自分のスマートフォンを出した。
「送っていく」
「バスで帰れるよ」
「途中まで」
「帰り、遠くなるでしょ」
潤の指が画面の上で止まった。
断ろうとして、言葉を飲み込んだ。
一人でバスを降りてから、家まで歩く道を考えてしまった。
その道には、街灯の切れた場所がある。
声が聞こえたら、今度はどこから聞こえるのか、わからない。
「……一緒に乗ってくれる?」
潤が顔を上げた。
「うん」
それだけだった。
私はケースの持ち手から手を離した。掌には、まだ握っていた形が残っていた。
バスの明かりが近づいてくる。
白いヘッドライトが、道路の暗がりを押し分けるようにこちらへ向かってきた。
停車すると、ドアが開く。車内の明かりが歩道へ流れ出した。
乗り込んで、空いている二人掛けの席へ座った。潤がチェロを収める場所を確かめ、隣へ腰を下ろす。
ドアが閉まり、車体がゆっくり動き始めた。
車内には、運転手の声と、乗客の小さな話し声があった。
次の停留所を知らせる表示が光っている。
明るい天井灯が、窓の外の暗さを映り込みごと薄めていた。
窓に、二人の顔が映った。
私はそこから目を離し、膝の上の鞄を見た。
「さっき、ありがとう」
潤がこちらを向いた。
「走る時。待ってくれて」
「ケース持ってたからな」
「潤だって、チェロ持ってたのに」
潤は何も言わなかった。
座席の間に置いた私のケースが、揺れて少し傾く。その側面へ手を添えてくれた。
私は鞄の上で、自分の手を重ねた。
バスが交差点を曲がる。
窓の外で、街灯と店の明かりが流れていく。暗い場所が現れても、すぐに次の光が追いついてきた。
次の停留所を知らせる声が流れる。
運転手が返事をして、誰かが降車ボタンを押した。
その声は、車内のスピーカーから聞こえた。
誰が話しているのかがわかる。
どこから聞こえているのかも、わかる。
潤の手は、ケースに添えられたままだった。
しばらくして、潤が小さく言った。
「次から、会館を出る時は一緒に出よう」
「うん」
「もし、また聞こえても」
潤はそこで言葉を止めた。
「一人で確かめに行かない」
私は隣を見た。
潤は窓の外を見ていた。流れていく明かりが、その横顔を明るくしたり、暗くしたりしている。
「潤も」
「わかってる」
「本当に?」
「……本当に」
その返事に、少しだけ笑った。
潤も、ほんの少し口元を緩めた。
その時、窓の外を暗い影が横切った。
人のようにも、木の枝のようにも見えた。
私は反射的に息を止めた。
潤の手が、ケースから離れた。
代わりに、座席の隙間で私の手の甲に触れる。
確かめるような、短い接触だった。
私は手を引かなかった。
潤もすぐには離さなかった。
影は、後方へ流れて消えた。
何だったのかは、わからない。
けれど、今度は振り返らなかった。
隣にいる潤の手の温度を、確かめるように感じていた。
家までの道を、一人で考えなくていい。
明るい車内にいて、隣には潤がいる。
それでも、窓の外の暗がりが完全に消えたわけではない。
次にどこから声が聞こえるのかも、まだわからない。
だからこそ、私は手を重ねた。
潤の手の甲に、自分の指をそっと置く。
潤がこちらを見た。
今度は、どちらも何も言わなかった。
バスは、次の明かりへ向かって走っていった。
*
金曜の昼休み、印刷室には、機械が紙を吐き出す低い音と乾いたインクの匂いがこもっていた。次の授業で使う資料を印刷していると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面に、岡元先輩の名前が浮かんでいた。
〈久しぶり。元気にしてる? 演奏のことで、ちょっとお願いがあるんだけど〉
印刷機の受け皿から出てきた紙を揃え、鞄へしまう。機械の前を空け、廊下の窓際へ移った。窓ガラスは薄く冷えていて、指先に残った紙の熱が少しずつ引いていく。
〈お久しぶりです。元気です。お願いというのは、何でしょうか〉
岡元伸宏先輩は、私たちが一年生だった頃のヴィオラトップだった。教育学部の英語科で、国語の私とは使う教室が違っていたけれど、学部棟の廊下で時々顔を合わせた。
入団して間もない頃、知らない先輩ばかりの中で小さくなっていた私に、すれ違うたび「練習、どう?」と声をかけてくれた人だった。あの頃は、その一言だけで、張りつめていた肩の力が少し抜けた。
返事は、しばらくして届いた。
〈今月末の日曜、空いてるかな。ゼミの友達の披露宴で、カルテットを頼まれていて〉
手帳を開く。午後の予定がいくつか並んでいたが、その日の欄だけは白かった。前日の土曜には、全練の印がある。
〈今のところ、空いています。分奏の予定だけ確認させてください〉
〈もちろん。秋定前だものね。無理のないところで大丈夫だよ〉
続けて、もう一通届いた。
〈いつも一緒に弾いてる人たちと、ちょうど別の式が重なってしまって。君と、セカンドとチェロをお願いできないかなと思ってる〉
セカンドとチェロ。
その文字を見た瞬間、樹と潤の顔が浮かんだ。樹の、譜面を覗き込む時の真剣な横顔。潤の、音を出す前に一度だけ弓を持ち直す癖。
〈小野寺と千堂でよければ、聞いてみます〉
〈うん、その二人なら嬉しい。千堂くんにも久しぶりに会えるね〉
潤も一年生の時からシートをもらっていた。チェロとヴィオラの席は近いから、私より岡元先輩と話す機会が多かったかもしれない。
私たちが二年生になってからも、演奏会の受付や客席で姿を見かけることはあった。遠くから手を振ったり、終演後に短く言葉を交わしたりはしたけれど、一緒に弾くのは随分久しぶりだった。
〈先輩がヴィオラを弾くんですか?〉
〈そう。そこはちゃんと働きます〉
思わず笑みがこぼれた。窓に映った自分の顔が、少しだけ柔らかくなる。
その時、隣の教室から学生がまとまって出てきた。笑い声と足音が廊下を満たし、窓際の静けさが途切れる。私は画面に視線を戻した。
〈曲や時間が決まっていたら、教えていただけますか〉
〈まとめたものを送るね。まずは日程だけでも。謝礼と交通費のことも、そこに書いてあるから〉
届いた資料を開くと、新郎新婦の名前が並んでいた。
佐野敬彦さん、高田恵さん。
佐野さんは高校の英語教師で、恵さんは予備校で英語を教えているのだと、先輩が続けて教えてくれた。
〈二人とも、曲の希望を聞いたら楽しそうに相談してくれて。少し増えるかもしれない〉
添えられていた候補の中に、《愛の讃歌》があった。
その曲名を見た途端、胸の奥に、弓を弦へ置く直前の静けさが浮かんだ。最初の音を出す前に、四人の呼吸がひとつになる瞬間。まだ何も決まっていないのに、音の重なりを想像すると、指先がわずかに熱くなった。
〈愛の讃歌は、ぜひお願いしたいそうです〉
〈私も弾きたいです〉
送ってから、まだ引き受けられると決まったわけではないのに、と気づいた。先走った返事だったかもしれない。
けれど、先輩からは笑っている顔のスタンプが返ってきた。
〈じゃあ、二人に聞いてみてくれる?〉
〈はい。確認して、またご連絡します〉
画面を閉じ、手帳のその日に鉛筆で小さく「披露宴」と書いた。芯が紙を擦る音が、妙に確かなものとして残った。




