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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第二章 舞踏会
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舞踏会(7)

 樹には、昼休みのうちに返事をもらえた。


〈岡元先輩って、去年の演奏会のあとに紹介してもらった方ですよね。あの岡元先輩と弾けるんですか?〉


〈そう。ヴィオラは先輩〉


〈一緒に弾くのは初めてです。楽しみです〉


〈岡元先輩とは、何回かカルテット一緒にやったけど、すごく面白かった。ベートーヴェンの14番をやったんだよ〉


〈わ、あれやったんですか、俺もいつかやりたいと思ってて…あっ、それはともかく。その日はバイトも入れてないし、空いてます。ぜひやりたいです。分奏の日程も確認します〉


 樹らしい、途中で話題が逸れて、それでも最後にはきちんと答えに戻ってくる文章だった。画面を見ながら、口元がまた緩む。


 その次に、会場はどこですか、と来た。


 資料に書かれた名前を送ると、少し間を置いて返事が届いた。


〈あそこ、中に入れるんですね〉


 古い洋館だった。通学の途中で建物の前を通ったことはある。灰色がかった外壁と、蔦の絡んだ門。閉じた窓の向こうに、誰も知らない時間が積もっているように見えていた。


 けれど、私も中へ入ったことはなかった。


〈私も初めてだよ〉

〈俺も楽しみです〉


 樹とのやり取りを閉じ、潤との画面を開く。


 一番下には、水曜の夜に送ったメッセージが残っていた。


〈今日はありがとう。帰れた?〉

〈帰った。おやすみ〉


 短い返事だった。


 あの夜は、その二行を何度も読み返した。今も指を止めていると、バスの座席の狭さと、揺れの中で手の甲に触れた温度が、皮膚の内側から戻ってくる。


 木曜は会っていなかった。


 朝、目が覚めてからも、あれを何と呼べばいいのかはわからないままだった。夢だったことにしてしまうには、触れた場所の感覚がはっきりしすぎていた。潤があの時、何を思っていたのかもわからない。怖がっている私を安心させようとしただけなのか。それとも、私が気づかないふりをしているだけで、何かを伝えようとしていたのか。


 確かめたい気持ちはあった。けれど、尋ねてしまえば、あの夜を言葉にしてしまう。そうしたら、今までのように音の話だけをしていられなくなる気がした。触れられたことを嬉しいと思った自分まで、見透かされてしまいそうだった。


 私は資料を開き直した。日付と時間を確かめ、それから文字を打つ。


〈岡元先輩から、披露宴のカルテットの依頼が来たんだけど〉


 続けて日程を送った。


 返事を待つ間に、予鈴が鳴った。遠くで扉の閉まる音が続き、廊下の気配が教室へ流れ込んでくる。私はスマートフォンを鞄へしまい、階段へ向かった。


 教室の前まで来たところで、鞄の中が震えた。


〈その日は空いてる。ヴィオラは岡元さん?〉

〈そう。セカンドは樹。引き受けていい?〉

〈うん。いいと思う〉


 すぐに、もう一通届いた。


〈譜面、来てる?〉

〈まだ。時間と曲の候補だけ〉

〈あとで送って〉

〈わかった〉


 いつもの演奏の相談だった。


 譜面を受け取って、合わせる日を決めて、わからないところを確かめる。潤となら、その話はいくらでもできる。音のことなら、言葉に詰まらずに済む。


 教室へ入ろうとして、画面の上に新しい文字が出た。


〈昼、食べた?〉


 私は立ち止まった。


 短い問いかけなのに、胸の奥が小さく揺れた。演奏の予定を尋ねるのとは違う。けれど、その違いをどう受け取ればいいのか、まだ決められない。


 ただの気遣いかもしれない。それでも、あの夜のあとに届いた言葉を、いつもと同じようには読めなかった。


 隣を通った学生が、扉を押さえてくれる。


「あ、ありがとう」


 声が少し遅れて出た。私は教室へ入り、空いている席に鞄を置いた。


〈まだ。印刷してた〉


 送ってから、すぐに後悔した。素っ気なさすぎただろうか。けれど、余計なことを書けば、こちらの気持ちまで伝わってしまいそうだった。


〈何か食べてから練習しろよ〉


 その返事に、胸の奥がまたわずかにほどける。心配してくれている。それだけのことなのに、あの夜から続いている何かのようにも思えた。


 今日は全練の日ではなかった。けれど、空き時間にさらうつもりで、楽器は持ってきていた。ケースの重みが、肩にまだ残っている。


〈わかってます。潤は?〉

〈もう食べた〉

〈ならよし〉


 送ると、返事は来なかった。


 私はスマートフォンを伏せ、鞄から資料を出した。その下に、朝、家を出る時に入れた小さなパンの袋がある。紙袋の角が少し潰れていた。


 授業が始まるまで、まだ少し時間があった。


 袋を開けると、甘い匂いが立ち上った。乾いた教室の空気の中で、その匂いだけが家の朝を連れてくる。


 一口かじる。柔らかな生地が舌に触れ、遅れて甘さが広がった。


 私はパンを持ったまま、もう一度スマートフォンを手に取った。


 岡元先輩へ、三人とも日程が合いそうです、と送った。


     *


翌週の日曜、サークル会館の小部屋には、窓から午後の光が入っていた。


 壁際の机を寄せ、椅子を四脚、互いの顔が見えるように並べる。樹が譜面台を開いている間に、私は窓の近くへケースを置いた。今日は大きな練習室からも音がしていない。廊下を歩く人の靴音が、扉の前を通って遠ざかった。


「この部屋、変わらないね」


 岡元先輩が、ヴィオラのケースを机に載せた。


「椅子は変わりましたよ」

 私が言うと、先輩は座面を軽く押した。

「本当だ。前の、座るたびに鳴ったものね」

「まだあります。隣の部屋に」

「引退してなかったか」


 樹が笑い、最後の譜面台を立てた。


「岡元先輩、今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ。小野寺くんと弾くのは初めてだね」

「はい。楽しみにしてました」

「僕も。未央ちゃんから、よく話は聞いてるよ」


 樹がこちらへ顔を向けた。

「何の話ですか」

「普通に。次のコンマスです、とか」

「それ、普通に言われると緊張するんですけど」


 先輩は笑いながら楽器を取り出した。

 潤はその隣で、チェロのエンドピンを伸ばしている。四人で座ると、いつもの練習よりずっと近かった。私の向かい側に潤、その隣に岡元先輩。少し顔を上げるだけで、誰の弓も見える。


 譜面は数日前に揃っていた。新郎新婦の希望で決まった曲が、演奏する順にクリップでまとめてある。岡元先輩が持ってきた進行表を、一枚ずつ受け取った。


「今日は一度全部やって、気になるところを戻ろう。最後に、当日と同じ順番でもう一度。二時間あれば、そこまでできると思う」


 私は進行表を譜面の脇へ置いた。


 Aを出すと、樹の音が重なった。ヴィオラが入り、チェロの響きがその下へ伸びる。四人とも少しずつ弓を動かし、響きの揺れを確かめた。


 岡元先輩の音を、近くで聴くのは久しぶりだった。

 控えめに入ってきたはずなのに、重なると響きの真ん中が温かくなる。私が弓を止めたあとも、先輩は潤ともう少し合わせていた。


「じゃあ、お願いします」


 顔を上げ、三人へ視線を配る。

 樹が首を縦に動かした。潤の弓が弦へ置かれたところで、私は息を取った。


 最初の曲は、思ったよりすんなり進んだ。けれど、終わりへ向かって少し速くなり、最後の和音を伸ばす長さが揃わなかった。


「あ、今、俺が先に終わりました」

 樹が弓を下ろした。

「私の合図も小さかったね」

「最後、もう少し確認しましょう」


 終わりの数小節だけを、もう一度弾いた。

 今度は三人の弓の動きを追ってから、響きを閉じる。潤がわずかに首を引き、岡元先輩も鉛筆を取った。


 次の曲ではヴィオラから旋律を受け取り、その次には、樹の刻む響きに乗って弾いた。知っている曲でも、この四人で重ねると、自分が思っていたところとは違う場所へ重みが来る。書き込んできた弓順を一つ消し、隣の樹と相談して変えた。


 《愛の讃歌》は、一度最後まで通してから戻った。


「未央ちゃん、ここ、チェロを聴いてみて」


 岡元先輩が、譜面の途中を指した。


「千堂くんがまだ動いているうちに、次へ行っちゃってる」

「……あ、本当だ」


 潤が、そこだけ弾いてくれた。

 自分の旋律の下にあった響きが、一つずつ浮かび上がる。最後の動きが収まる前に、私は弓を返していた。


「ここまで待つ?」

 私が聞くと、潤は弓を置いたまま顔を上げた。

「待つというか、一緒に行けると思う」

「もう一回、弾いて」

「うん」


 今度は楽器を上げ、潤の響きに重ねた。


 低い弦の響きが進む。その動きを聴きながら、私は自分の音を伸ばした。次へ移る直前に顔を上げると、潤もこちらへ視線を返していた。


 弓を返す。


 二人の響きが、同じところで次の和音へ入った。


「そう。それなら、僕らもついていける」


 先輩の声で、私は弓を下ろした。


 潤と視線が重なっていたのは、一拍にも満たなかったと思う。合わせるために確かめただけだった。けれど、その一瞬に、言葉より先に何かを受け取った気がした。潤の響きが次へ進むことを信じていい、と、わずかな動きだけで伝えられたような気がする。


 譜面へ戻した目が、すぐには音符を拾わなかった。胸の奥に残った余韻が、まだ消えずにいる。音楽の中でなら、こんなふうに近づけるのに、どうして言葉になると何も言えなくなるのだろう。


「その少し前から、四人でお願いします」

 樹が言った。

「今度、俺もチェロを聴きたいです」


 鉛筆を置き直し、首を縦に動かした。

 響きの話なら、ちゃんとできる。


 四人で弾くと、今度は樹の音もよく聞こえた。旋律の下で刻んでいた弓が、ヴィオラへ何かを渡すように動く。岡元先輩がそれを受け、こちらの響きへつないだ。


 私はさっきの箇所で顔を上げた。

 潤の右手が、慌てずに次へ向かっている。そこへ自分の弓を合わせると、旋律を押し出さなくても、響きが先へ進んだ。


 潤もこちらへ視線を寄せた。

 今度は、さっきより長く目が合った。ほんのわずかな時間なのに、響きの中で確かめたものが、二人の間に静かに残っているようだった。何かを尋ねるでもなく、答えるでもなく、ただ同じ方向へ進めることだけがわかる。


 私は先に譜面へ目を戻した。戻さなければ、弓の動きを見失いそうだった。けれど、耳の奥には潤の響きが残り、次にどこへ行くのかを、もう迷わずに感じ取ることができた。


 終わったあと、樹が先輩の譜面を覗き込んだ。


「今の、ヴィオラはどうなってるんですか」

「ここ?」

「はい。俺のあとに聞こえたところです」


 先輩が楽器を構え、短く弾いてみせる。

 樹は自分の譜面と見比べ、それから「ああ」と声を上げた。


「そこへ行くんですね。自分のところだけ見てました」

「初めて合わせると、そうなるよ。もう一回、二人でやってみようか」


 二本の弓が動いた。

 樹が先輩へ顔を向け、先輩も応じる。二度目には、樹の響きの終わりが少し変わった。ヴィオラが入っても細く残り、二つの音が重なる時間ができた。


「今のほうが好きです」

「僕も」


 樹が嬉しそうに鉛筆を取った。

 その顔を見ていると、私も早くもう一度弾きたくなった。


     *


 短い休憩を挟み、演奏する順番でもう一度通した。


 途中では止めず、曲が終わるたびに次の譜面を出す。当日は司会の合図を受けて始める曲もあるので、岡元先輩が進行表を確かめてから、私へ目を向けた。


 その合図を受け、三人へ視線を配る。

 四人の呼吸が揃ったところで、弓を動かした。


 《愛の讃歌》では、先ほど確かめたチェロの動きが、初めから耳に入ってきた。樹と先輩の響きもその間にある。誰か一人を追わなくても、次へ向かう場所がわかった。


 最後の和音を伸ばす。

 潤の弓がゆっくり進み、先輩の響きが内側に残った。樹へ視線を送り、それから弓を止めた。


 四人の響きが、一緒に消えた。


「うん。これでいこう」


 岡元先輩が時計を見た。

 私も壁の時計へ顔を向ける。部屋を借りた時間は、あと十分ほどしか残っていなかった。


「もう二時間?」

「早かったですね」

 樹が言いながら、譜面の端へ書き足した。


 楽器を収める前に、当日の集合と入り時間を確認した。式は洋館の近くにある教会で行い、披露宴は洋館で開かれる。私たちは披露宴が始まる前に会場へ入り、演奏場所や合図を確かめることになっていた。


「服は、黒で揃えよう。男性は白シャツに黒のスーツ。未央ちゃんも黒で大丈夫?」

「はい。ワンピースがあります」


 答えると、潤がこちらへ顔を向けた。

「持ってた?」

「あるよ」

「……そっか」


 それ以上は聞かなかったので、私も説明しなかった。

 袖に黒いレースの入ったワンピースは、家のクローゼットに掛かっている。あれを着て、三人の隣に座るところを、初めて具体的に想像した。


 岡元先輩が進行表を畳んだ。


「助かったよ。三人に頼めてよかった」

「こちらこそ。楽しかったです」


 樹がすぐに答え、私も首を縦に動かした。

 潤はチェロを支えたまま、「当日もよろしくお願いします」と言った。


 その言葉はいつも通りだった。けれど、さっき響きの中で交わしたものを思い出すと、ただの挨拶には聞こえなかった。私も「うん」と返しかけて、結局、同じように「よろしくお願いします」と言った。


 椅子を元へ戻すと、四人で囲んでいた場所に、窓からの光だけが残った。


 私は譜面を鞄へしまった。

 《愛の讃歌》のページには、今日書いた鉛筆の線が増えている。


 次に四人でこの響きを重ねる時には、目の前に、私たちの知らない二人がいる。

 その人たちのために弾くのが、楽しみだった。

 そして、潤とまた同じ響きを探せることも、まだ言葉にはできないまま、静かに楽しみになっていた。


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