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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第二章 舞踏会
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15/42

舞踏会(8)

月末の日曜は、朝から澄んだ青空が広がっていた。


 洋館の門をくぐると、乾いた砂利が靴の下で軽く鳴った。赤く色づいた蔦の葉が門柱を覆い、ところどころに残る緑が、秋の深まりをかえって際立たせている。ひんやりした空気の中に、土と葉の匂いが混じっていた。


 いつもは閉じている玄関の扉が、今日は大きく開かれている。

 その向こうに、これから始まる演奏と、まだ見ぬ会場の気配が待っているように思えた。


 ケースを持ち直し、石の階段を上がる。扉へ近づくにつれ、内側から花の匂いが流れてきた。外の冷たさとは違う、華やかで柔らかな空気に、胸が少しだけ高鳴る。


「演奏の方ですね。お待ちしておりました」


 入口にいた女性へ名前を伝えると、奥の部屋へ案内してくれた。磨かれた廊下には、歩くたび低い靴音が返ってくる。壁には古い写真が何枚か掛かっていた。立ち止まって眺めたい気持ちはあったけれど、今日はそれより先へ進みたかった。


「こちらを控室としてお使いください。皆様、お揃いになりましたら、お声がけいただけますか」

「ありがとうございます」


 扉を開けると、岡元先輩と樹がいた。


「おはよう」

「おはようございます」


 先輩は机の上に広げていた進行表から顔を上げた。樹もケースの留め具から手を離す。


「先輩、荷物、そこ置けます」

「ありがとう」


 窓際の椅子へケースを載せ、鞄を下ろした。着てきたコートのボタンを外す。外を歩いている間はちょうどよかったけれど、部屋の中は暖かかった。


「わ」


 樹が、小さく声を上げた。


 コートを腕へ掛けたまま、振り向く。

「何?」

「今日、雰囲気違いますね」


 樹の視線が袖のあたりへ向いたので、私も自分の腕を見た。黒いレースの花模様の間から、肌が少し透けている。手首まである袖は腕にすっきりと沿い、肘を曲げても、手元へ垂れてくることはなかった。


「変?」

「似合ってます」


 迷いのない返事だった。

 そのあとで樹は、私の顔を一度見てから、少し笑った。


「演奏会の黒とは、また違う感じです」

「今日はこっちにしてみた」


 そう答えながら、コートを椅子の背へ掛ける。褒められるつもりで着てきたわけではないのに、耳のあたりが温かくなった。袖口を整えるふりをして、指先でレースをそっと撫でる。


「未央ちゃん、その袖なら弾きやすそうだね」

 岡元先輩が言った。

「はい。家で一度、着て弾いてみました」

「それなら安心」


 先輩は進行表へ目を戻した。

 私もケースを開けようとしたところで、扉が二度、軽く叩かれた。


「おはようございます」


 潤が入ってきた。


 黒のスーツに白いシャツ。チェロのケースを背負っているせいで、片側の襟が少し浮いていた。扉を閉め、肩紐を外しかけたところで、動きが止まった。


「おはよう」

 私が言うと、潤は肩紐に手を掛けたまま、こちらを見ていた。


「……おはよう」


 返事まで、ほんの少し間があった。その視線が、私の顔からレースの袖へ移る。私はコートを掛けた椅子へ手を添え、何となく背筋を伸ばした。


 潤はケースを床へ下ろした。

 けれど、手は持ち手に掛かったままだった。


「そんなの持ってたっけ」


 樹の時と同じように、私は袖を見た。

「この前、あるって言ったでしょ」

「それは聞いた」


 潤はそう言ったあと、すぐにはこちらを見なかった。ケースの留め具へ目を落とし、指先で持ち手をなぞる。


「じゃあ、何」

「……いや」


 短く答えてから、潤はようやく顔を上げた。目が合ったのは一瞬だったけれど、いつもより長く見られた気がした。


 潤はそこでようやくケースから手を離した。

 置く場所を確かめるように部屋を見回し、空いている壁際へ運ぶ。その横顔を見てから、私は自分のケースへ向き直った。


 蓋を開ける。

 弓を取り出そうとして、指が留め紐へうまく掛からなかった。


 別に、おかしなことは言われていない。

 見慣れない服だったから、聞いただけだ。


 そう思って顔を上げると、また潤と目が合った。


 今度は、潤の方が先に逸らした。

 けれど、逸らしたあとも、頬のあたりにわずかに力が残っているのが見えた。


「千堂くん、来たところで悪いけど、四人揃ったって伝えてもらえるかな。入口の係の方に」

 岡元先輩が言った。

「はい」


 潤が扉へ向かう。

 その背中を見送ってから、私は弓を取り出した。持ち上げた弓の先が、いつもより少しだけ揺れた。


 樹は楽器を肩へ上げ、音を出さずに左手を動かしていた。こちらを見ると、口元だけで少し笑った。


「何?」

「いえ。今日、楽しみだなと思って」

「私も」


 そう答えると、樹は譜面へ目を落とした。

 私も隣の椅子へ腰を下ろし、弓を張った。


     *


 会場は、控室から廊下を一つ曲がった先にあった。


 高い窓から光が入り、白いテーブルクロスの上へ斜めに伸びている。卓上には小さな花が飾られ、銀色のフォークとナイフが揃っていた。奥の二人の席には、淡い色の花が、ほかの卓より多く置かれている。


 まだ誰も座っていないのに、そこで話す人たちの姿が浮かんだ。


 私たちの椅子は、窓寄りの壁際に用意されていた。

 四脚と、譜面台が四本。潤がチェロを置く場所を見て、会場の人へ声をかけた。


「椅子、少しだけこちらへ動かしても大丈夫ですか」

「はい。お通りいただく場所が空いていれば」


 通路の幅を確かめながら、四人で椅子を寄せた。私は座って楽器を上げ、樹との間を確かめる。弓を長く使っても、互いの腕に当たらない。


 岡元先輩は、会場の担当者と進行表を見比べていた。


「入場の前に、こちらからお声がけします。扉が開くタイミングは――」


 説明を聞きながら、私も該当する曲の譜面を出した。先輩が確認したあと、こちらへ戻ってくる。


「未央ちゃん、合図はあちらの方から。僕も見ているから」

「はい」


 司会の人とも挨拶をし、曲の始め方と終わり方を確かめた。思っていたより、確認することが多い。楽譜の中だけ見ていては、弾き始められないのだと思った。


「少し音を出していただいてもよろしいですか」


 担当者に言われ、三人を見た。

 《愛の讃歌》の最初のところを、短く合わせることになった。


 譜面台の紙が、空調の風でかすかに揺れていた。

 私は楽器を肩へ寄せ、顎を当てる。木の冷たさが皮膚に触れ、左手の指先が指板の上で位置を探った。弓を持つ右手には、いつもより少し汗がにじんでいる。


 岡元先輩が、ほんのわずかに顎を引いた。


 息を取る。

 四人の呼吸が、同じところで止まった。


 最初に、私の弓が弦へ触れた。


 細い音が、床の上をすべるように伸びていく。すぐ隣で樹の音が重なった。私の音より少し低く、丸い。二本の弦が別々に鳴っているのに、耳の中では一つの線になって、窓の向こうへ向かっていった。


 岡元先輩のヴィオラが、その下へ入る。

 音の輪郭が厚くなり、胸の中央に柔らかな振動が触れた。続いて潤のチェロが床から立ち上がるように響いた。低い音が椅子の脚を伝わり、靴底から足の裏へ、遅れて膝のあたりまで届く。


 四人の音が揃った瞬間、会場の空気が変わった。


 天井が高いせいか、音はすぐには戻ってこなかった。弓を返すたび、先に出した音の残響が壁際に薄く残り、その上へ次の音が重なっていく。自分の音だけを追おうとすると、樹の高音が右側から伸び、先輩の音がその間を埋め、潤の低音が全体を下から支えているのが分かった。


 弓を動かす腕に、四人分の拍が伝わってくるようだった。


 樹の右肩が、音の終わりでわずかに沈む。

 先輩の左手が、次の和音へ静かに移る。

 潤の弓が弦を押し込むたび、低い響きが腹の奥で膨らむ。


 私はその動きを目の端で拾いながら、弓を少しだけ軽くした。強く押さなくても、音は会場の奥まで伸びていく。むしろ力を抜いた方が、残響の中に自分の音を置いていける気がした。


 次のフレーズで、樹の音が先に細く伸びた。

 私はその後ろへ音を重ね、先輩がさらに内側を支える。潤の低音が一拍遅れて響き、四つの音が階段のように上へ広がった。


 音が、天井へ吸い込まれていく。


 けれど消えたわけではない。高いところで反射した響きが、少し遅れて肩や頬へ戻ってくる。弓を止めても、耳の奥ではまだ音が続いていた。


 潤も顔を上げた。

 目が合うと、右手の動きが少し小さくなる。私もそれに合わせ、弓を弦へ置く力を抜いた。潤の視線が一度だけ私の手元へ落ち、それから、確かめるように目へ戻ってくる。


 先輩がその変化を受け取り、樹が最後の音を細く伸ばす。


 四人の音が、ひとつの長い息になった。


 フレーズの終わりで弓を止める。

 すぐには誰も動かなかった。


 音の余韻が、白いテーブルクロスの上を漂い、花の間を抜け、空いた椅子の背へ触れていくようだった。胸の中に残った振動が、呼吸をするたびにかすかに揺れる。


 最後の響きが消えてから、岡元先輩が弓を下ろした。

 私も遅れて肩の力を抜く。


「ありがとうございます。とても素敵です」


 会場の人の声で、私は楽器を下ろした。

 樹が高い天井を見上げる。


「よく響きますね」

「うん。さっきくらいで届きそう」

「お客さんが入ったら、また変わるだろうけど」

 潤が言った。


 潤はそう言いながら、私の方を見た。ほんの一瞬、言葉の続きを探すように間が空く。


「最初、よく聴く」

「私も」


 今度は、普通に返せた。

 けれど、潤が小さく息を吐いてから視線を譜面へ戻したのを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 担当者が近づき、新郎新婦は今、教会で式を挙げているところだと教えてくれた。ほどなく招待客もこちらへ移動してくるという。


 岡元先輩が時計を見た。

「一度、控室へ戻ろうか」


 立ち上がる時、窓の下に置いた鞄の持ち手が、椅子の脚へ引っかかった。楽器を持ったまま手を伸ばすと、潤が先に外してくれた。


「ありがとう」

「うん」


 鞄を受け取ったあとも、潤はそこにいた。

 すぐに離れることもできたはずなのに、持ち手から手を離したまま、私の顔を見ている。


「……袖」


 小さな声だった。

 私は肘のあたりを見下ろした。引っかけただろうかと思ったけれど、レースは何ともなっていない。


「袖?」

「それ、似合ってる」


 潤は今度は目を逸らさなかった。

 言い終えたあと、少しだけ眉を下げる。照れているのか、言い過ぎたと思っているのか、私には分からなかったけれど、その表情がいつもの潤より柔らかく見えた。


 胸の奥が、音の余韻とは違う形で揺れた。


「……ありがとう」


 声が思ったより小さくなった。

 潤は一度だけうなずき、それからようやくチェロを持ち直した。


 そうしている間に、岡元先輩と樹が扉のところまで行く。樹がこちらを振り向き、私は慌てて鞄を肩へ掛けた。


 潤の隣へ並ぶ。

 歩き出してからも、さっきの視線が袖口に残っているような気がして、私は腕を少しだけ体の内側へ寄せた。


 廊下の窓からも、明るい光が入っていた。

 私はケースのある控室へ戻るまで、袖口を直さずに歩いた。


     *


控室の扉の向こうで、人の声が増え始めた。


 廊下を歩く靴音に、笑い声が混じる。誰かが「久しぶり」と言い、別の誰かが少し高い声で答えた。窓の外では車のドアが閉まり、砂利を踏む音が玄関のほうへ続いている。


 岡元先輩が進行表を畳んだ。


「そろそろ行こうか」


 私は楽器と弓を持って立ち上がった。鞄は控室へ置いていく。もう一度だけ譜面の順番を確かめる。何度見ても変わらないのに、目を離すのが怖かった。


 指先が少し冷えている。

 弓を持つ手に力を入れすぎないよう、いったん握り直した。大丈夫、と心の中で言う。けれど、その言葉は胸の奥まで届かず、薄い膜のように浮かんでいた。


 三人のあとに続いて、会場へ戻る。


 さっきまで空いていた椅子に、人が座っていた。


 白いクロスの向こうで、グラスを持った手が動く。花を覗き込んでいる人も、隣の卓へ身を乗り出して話す人もいた。私たちが通ると、近くの女性が椅子を引き、道を空けてくれた。


「ありがとうございます」


 小さく頭を下げ、自分の席へ座る。

 樹が譜面台の高さを直した。岡元先輩は担当者の位置を確かめ、潤はチェロを構えてから、エンドピンの止まり具合をもう一度見た。


 さっきの音が、この人数の中ではどう聞こえるだろう。


 空の部屋では、間違えても音がそのまま壁へ消えていった。けれど、ここには聴く人がいる。音を出した瞬間に、誰かの時間へ入り込むことになる。そのことを考えると、胸の奥が狭くなった。


 弓を膝に置き、会場の声に耳を澄ませた。

 空の部屋では長く響いていた靴音が、今はすぐ近くで収まる。笑い声は天井へ抜けるけれど、言葉は卓のあたりに残っていた。


 自分の呼吸だけが、妙に大きく聞こえる。


 岡元先輩が、こちらを見た。


 入口の担当者が片手を上げている。


 私は楽器を肩へ上げ、三人へ視線を配った。樹の弓が置かれ、先輩がわずかに合図を返す。潤はすでにこちらを向いていた。


 その視線に気づいた途端、緊張が一段深くなった。

 潤も同じ音を待っている。私が出す最初の音を、潤も受け取ろうとしている。そう思うと、逃げ場がなくなるようで、同時に、ひとりではないこともわかった。


 息を取る。


 最初の音を出す直前、指先の震えを意識した。震えを止めようとすると、かえって身体が固くなる。だから、震えたままでも弾けるように、弓を弦へ置いた。


 音を出すと、さっきより近くに聞こえた。

 空の部屋で壁へ広がっていた響きが、今は人の肩や衣服の間で細かく返ってくる。自分の音が遠くへ逃げず、すぐ目の前に戻ってくるようだった。


 樹の音が、右手のすぐそばから重なった。

 細い刻みが私の旋律の下へ入り、岡元先輩のヴィオラがその隙間を柔らかく埋める。潤のチェロが床に近いところから響くと、弓を持つ手の震えが少しずつ収まった。低い音が足元を支え、そこへ自分の音を置ける。


 音の中へ入ると、さっきまでの緊張が少しずつ形を変えた。

 怖さが消えたわけではない。ただ、次の音、次の呼吸、隣から返ってくる響きへ意識を向けているうちに、内側を占めていたものが狭くなっていった。


 扉が開いた。


 拍手の向こうに、白いドレスが見えた。


 新郎は、隣の人の歩幅を確かめるように、時々顔を向けていた。新婦は花を胸の前で持ち、会場へ入ってくる。窓からの光がドレスに触れ、裾の折り目を一つずつ明るくした。


 私は顔を上げたまま弾いた。

 譜面へ目を戻し、また二人を見る。進む速さは、思っていたよりゆっくりだった。


 まだ、奥の席までは距離がある。


 その距離を測るように、音の長さを保つ。弓を急がせず、弦に触れる重さを一定にする。先輩の弓が視界の端で返り、樹の響きがすぐ隣から返ってくる。潤の低音は少し遠く、けれど途切れずに床を伝わっていた。


 岡元先輩と視線が重なった。先輩は弾きながら、進行表で確かめた箇所へ視線を落とす。私はその先の繰り返しへ入り、樹もすぐについてきた。


 音を続ける。


 新婦が近くの卓へ笑いかけた。

 そこにいた女性が何か言う。言葉は聞こえなかったけれど、新郎まで笑った。


 その表情を見た瞬間、弓の先が少し軽くなった。

 音を間違えずに並べるだけではなく、この二人のいる場所へ、四人の響きを運んでいる。そう思うと、旋律を急がず、最後まで途切れさせずに渡したくなった。


 練習では、ここまで弾けば終わりだった。

 今日は、この二人が席へ着くまで、曲が続く。


 担当者がこちらを見た。

 合図を受け、私は終わりへ向かうところで三人へ視線を送った。潤の弓が深く入り、先輩と樹の音がその上へ重なる。


 二人が並んだところで、最後の和音を伸ばした。


 四つの音が、すぐには一つにならず、それぞれの輪郭を残したまま広がった。高い音が天井近くへ伸び、ヴィオラがその下を支え、チェロの低音が床からゆっくり返ってくる。私は弓を弦へ置いたまま、その重なりが会場の奥へ届くのを待った。


 弓を止めると、拍手が大きくなった。


 近くの卓から始まった音が、奥へ波のように広がっていく。椅子が鳴り、グラスが触れ、誰かが「きれい」と言った。


 私は楽器を下ろした。

 すぐには息が戻らなかった。胸の奥で止めていたものが、遅れてほどけていく。隣で樹が、そっと息を吐く。


 岡元先輩がこちらへ笑いかけた。

 その表情を見て、ようやく私も息を吐いた。


 潤がチェロを下ろす気配がした。

 視線を向けると、潤もこちらを見ていた。演奏中は音だけを追っていたはずなのに、終わった途端、その表情がはっきり目に入る。


 大丈夫だった、と確かめるような目だった。


 私は小さく首を縦に動かした。

 それが演奏への返事なのか、潤への返事なのか、自分でもわからなかった。


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