舞踏会(9)
挨拶が続き、乾杯の声が上がった。
グラスの触れ合う音が、あちこちでした。私たちのところにも飲み物を運んでくれたので、楽器を安全なところへ置き、四人で小さくグラスを合わせた。
グラスを置いた途端、身体の重さに気づいた。
肩に力が残っている。指先もまだ、弓を持っていた形のままだった。演奏中は気づかなかった疲れが、遅れて戻ってくる。
「入場、よかったね」
岡元先輩が言った。
「思ったよりゆっくりでした」
「うん。でも、ちゃんと見てくれてたから」
樹が進行表の端を押さえた。
「最後、先輩が顔を上げてくれて助かりました」
「樹もすぐ見てくれたでしょ」
「見てました。終わり損ねたら大変なので」
少し笑ってから、潤へ顔を向けた。
さっきまでなら、自然に聞けたはずのことなのに、今は一瞬だけためらった。演奏中に何度も音を受け取ったせいで、潤の返事を待つことが、妙に近いことのように感じられた。
「どうだった?」
「大丈夫」
「音、届いてたかな」
「届いてたと思う。さっきより、近くで聴けた」
その返事に、私は短く首を縦に動かした。
短い言葉だった。
けれど、潤が演奏中に私の音を受け止めていたことが、今になって身体の内側へ戻ってきた。音を合わせるために交わした視線や、低音が支えてくれた瞬間まで、ひとつずつ思い出せる。
さっきまでは、潤を四人の中の一人として見ていた。
今は、音の向こうにいた潤の表情や呼吸まで、意識に残っている。
皿を運ぶ人たちが、卓の間を行き来している。料理が置かれるたびに会話が弾み、さっきまでこちらへ向いていた顔が、それぞれの隣へ戻っていった。
歓談の間に弾く曲は、話し声を受け止めながら始めた。
近くの卓で、男性がフォークを置いた。金属が皿に触れる音が、旋律の隙間から小さく聞こえた。こちらへ顔を向け、しばらく聴いてから、隣の人へ何か話す。曲名を知っているらしく、二人で首を縦に動かしていた。
その向こうでは、話に夢中になっている人たちがいる。
時々笑い声が大きくなり、旋律の一部がその声に隠れる。それでも、樹の刻む音は近くで一定に続き、岡元先輩のヴィオラがその隙間を縫った。潤のチェロは、ざわめきの下から低く浮かび上がり、私の弓を次の拍へ押し出した。
私も弾き続ける。
今度は、最初の演奏ほど身体が固くならなかった。
会場のざわめきの中で、どの音を拾えばいいのかが少しわかる。樹の刻みを足元に置き、先輩の響きへ旋律を重ね、潤の低音が戻ってくる場所で弓を深くする。四人の音が重なると、周囲の話し声が一瞬だけ遠のいた。
誰かが話すのをやめるたびに、会場が静かになるわけではなかった。それでも、旋律を受け取ってくれる人がいる。こちらを見ずに、指先で小さく拍を取っている人もいた。
曲の終わりで、近くの卓から拍手が聞こえた。
頭を下げると、その人が笑ってくれた。
次の譜面を出す間に、潤が少しだけ身を寄せた。
「今の、後半よかった」
「どこ?」
「ヴィオラから受けたところ」
その言葉に、胸の奥が小さく反応した。
演奏を終えた安堵がまだ残っているところへ、潤の声が直接届いた。音ではなく、言葉として自分の演奏を受け取ってもらったことが、思っていたより嬉しかった。
岡元先輩が、聞こえていたらしくこちらを見た。
「うん。弾いていて気持ちよかったよ」
私は鉛筆を取る代わりに、譜面のその場所を指先で押さえた。
今日の音を、帰ってからも覚えていたかった。
それだけではなく、潤がそこを聴いていたことも、覚えていたかった。
*
《愛の讃歌》の前には、司会の人が私たちを紹介した。
岡元先輩と新郎が大学のゼミで一緒だったこと。三人は、先輩と同じ大学オケで弾いている後輩であること。
会場の奥から、声が上がった。
「岡元、久しぶりに聴くぞ」
先輩がそちらへ顔を向け、笑って軽く頭を下げた。
新郎も笑っている。
「続いては、お二人からのリクエストで、《愛の讃歌》をお届けします」
その言葉で、新婦がこちらを見た。
花の向こうに、二人の顔が並んでいた。
新郎が何か小さく言うと、新婦が首を縦に動かした。そのまま、どちらもこちらへ顔を向ける。
私は譜面を開いた。
日曜に書いた線がある。
チェロを聴くところ。樹へ渡すところ。最後の音を閉じる合図。
指先が、書き込みの上で止まった。
さっきの演奏が終わったばかりなのに、また緊張が戻ってくる。今度は曲を知っているぶん、どこで音が揺らぐかもわかっていた。日曜に止めた場所が、譜面の先で待っている。
顔を上げる。
岡元先輩が構え、樹がこちらを向いた。潤の弓も、もう弦の上にあった。
潤と視線が重なる。
さっきの「よかった」という声が、まだ耳に残っていた。その声を思い出すと、緊張の中に、音を返したいという気持ちが混じった。
私が息を取ると、三人も動いた。
最初の旋律を、長く弾いた。
弓をゆっくり送ると、音が細く伸び、譜面台の向こうへ滑っていく。樹の音がその下へ重なり、岡元先輩のヴィオラが旋律の内側へ入る。潤の低い音が少し遅れて床から返り、四人の響きが胸のあたりで一つにまとまった。
会場の話し声が、少しずつ減っていった。
グラスを置く音がする。
奥で椅子が小さく鳴る。
それから、四人の音がよく聞こえるようになった。
音に集中すると、周囲のものが一つずつ遠のいていく。
譜面の黒い線、弓が弦を擦る感触、左手の指先へ返る振動。そこへ、潤のチェロの音が低いところから重なってくる。音が耳だけでなく、肩や胸の内側にも触れていた。
日曜に止めたところへ来た。
潤の音は、まだ動いている。
私は弓を急がずに進め、その動きに重ねた。顔を上げると、潤もこちらを向いていた。
次の和音へ入る。
樹の音が間に残り、先輩の弓が静かに返った。
四人で確かめたところが、この会場でもつながった。
胸の奥で、張りつめていたものが少しほどけた。
できた、と思うより先に、次の音へ意識を戻す。喜んでいる暇はない。曲はまだ続いている。
新郎新婦のほうへ視線を送った。
新婦の手が、隣へ伸びていた。
テーブルの上で、新郎がその手を受ける。二人とも音楽を聴いたまま、指を重ねた。
私は譜面へ目を戻した。
弓を持つ手には、レースの袖口が触れている。
その薄い感触の下で、手の甲に残っていた別の温度を、ふと思い出した。
あの夜、私も手を重ねた。
次の音へ移るために、左手の指を離す。
旋律はまだ続いていた。私はその続きを、二人のいる席へ向けて弾いた。
樹から返ってくる音が、少し柔らかくなった。
岡元先輩の響きが近づき、チェロが下から支える。誰かを見ようとしなくても、三人がどこにいるかはわかった。
潤の音が、今までより近く感じられた。
低く、静かに続く響きを受けると、そこへ自分の音を置きたくなる。合わせなければ、ではなく、合わせたいと思った。
最後のフレーズへ入る。
窓からの光が、譜面の端へ届いていた。
私は顔を上げ、樹を見た。先輩の弓を確かめ、それから潤へ視線を送る。
潤は、こちらを向いていた。
その視線を受けると、最後まで音を届けられる気がした。
私は弓を返し、四人で最後の和音を伸ばした。
今度は、音の輪郭が一つずつわかった。
樹の高い響きが先にほどけ、ヴィオラがその下で長く残る。私の音が二つの間をつなぎ、潤のチェロが最後まで床を震わせていた。弓を止めると、残った響きが会場の壁へ触れ、ゆっくり薄くなっていった。
音が消えた。
一瞬、誰も動かなかった。
それから、新婦が手を離し、拍手をした。新郎も隣で手を叩いている。
会場の拍手が重なった。
最初は近くの卓から、次に奥の席から、少し遅れて入口のほうからも音が返ってきた。拍手の強さが場所ごとに違い、それが一つの大きな響きになって会場を満たした。
私は楽器を膝へ下ろし、三人と一緒に頭を下げた。顔を上げると、新婦がこちらを見て、声を出さずに「ありがとう」と言った。
私も小さく頭を下げた。
拍手が続いている。
けれど、今度は最初の演奏のときほど、身体がこわばっていなかった。張りつめていたものが、音の消えた場所からゆっくり外へ流れていく。
隣で樹が、譜面を閉じずにこちらを見ていた。
「よかったですね」
私は首を縦に動かした。
返事をすると、声が少し揺れそうだった。
向かい側で、潤が弓を膝へ置いた。
視線が重なると、今度は逸らさずに、ほんの少し笑った。
その笑顔を見て、演奏が終わった安堵とは別の熱が、胸の奥に残った。
潤の音を追っていた。
潤の視線を受け止めていた。
そして今、潤の笑顔を待っていた自分に気づいた。
演奏前は、失敗しないことだけを考えていた。
演奏中は、四人の音を途切れさせないことに集中していた。
けれど、終わった今、私の意識は自然に潤へ向かっている。
そのことを、まだ誰にも言えないまま、私はもう一度だけ小さく首を縦に動かした。
*
控室へ戻ると、私は椅子に腰を下ろし、弓を緩めた。
留め具に収めても、右手にはまだ演奏の感触が残っている。指を開き、楽器の表面を布で拭う。隣では樹が、使った譜面を重ねていた。
「これ、また使いたいですね」
「うん。次は、もう少し余裕を持って弾きたい。入場、思ってたより緊張しちゃったかも」
「最初の音、先輩ですからね」
樹がクリップを留める。続いて、潤がケースの蓋を閉じた。
「でも、入りはよかった」
潤が言った。
「……そう?」
「うん。合わせやすかった」
布を畳む手が止まった。
演奏中、私は何度も潤の旋律を頼りにした。潤もこちらに寄り添ってくれていたのだと思うと、胸の奥が静かに温かくなった。
岡元先輩が進行表を鞄にしまう。
「また四人で弾こう。せっかく合わせたし、今日だけではもったいない」
「ぜひ」
樹がすぐに答えた。
私も「お願いします」と言って、楽器をしまった。
その時、扉が叩かれた。
先輩が開けると、新郎新婦が並んで立っていた。廊下の明かりを背にした白いドレスには、細かな刺繍が浮かんでいる。恵さんは裾を片手で持ち上げ、私たちへ微笑んだ。
「今日は、本当にありがとうございました」
四人とも立ち上がった。
私は椅子に掛けていたコートを脇へ寄せた。譜面を重ねた控室には、楽器をしまったあとの静けさが戻っている。
「《愛の讃歌》、お願いしてよかったです」
恵さんが言った。
「弾いていただいている間に、今日、結婚したんだなって、やっと実感が湧いてきて」
佐野さんが隣で笑った。
「教会でも言ってたよね」
「そうなんだけど。また違ったの」
その言い方に、私も笑った。
演奏中、二人が手を重ねた場面を思い出す。こちらから見えていた光景の向こうに、恵さんのそんな気持ちがあったのだ。
「こちらこそ、弾かせていただけて嬉しかったです」
今度は声が揺れなかった。
「岡元、ありがとう。忙しい時期なのに」
「僕より、この三人だよ。もうすぐ演奏会だから」
「ああ、そうか」
佐野さんが私たちへ顔を向けた。
「秋の定期演奏会?」
「はい。十一月です」
樹が答える。
「岡元先輩も聴きに来てくださるので」
「楽しみにしてるよ」
先輩が言った。
「その時も、今日みたいに四人で弾くの?」
恵さんが尋ねた。
「秋定はオーケストラ全員で弾きます。今日は四人でしたけど、本番ではもっと大勢で。今日の曲も、また合わせたいです」
樹が答える。
「次は、もっと息を合わせられると思います」
「もう十分、息が合ってたよ」
佐野さんが言った。
その言葉に、四人の間へ自然に笑いが広がった。
「また別のゼミ同期が結婚する時にも、聴きたいね」
佐野さんが先輩へ向き直る。
「まず、誰が次か決まらないと」
「今日、何人かに聞いてみるか」
「お祝いに来たのに、追及されるんだね」
先輩の返事に、みんなが笑った。
大学で一緒にいた頃も、こんなふうに話していたのだろうか。いつも穏やかな先輩の声が、少しだけ近く感じられた。
「その時も、ぜひ、この四人で」
恵さんが言った。
私は潤へ目を向けた。
潤も、こちらを見ていた。
「もちろん」
今度は、私が先に答えた。
「また四人で弾きましょう」
樹がうなずき、潤も「うん」と短く返した。
次の予定が決まったわけではない。それでも、今日しまった譜面をもう一度開き、向かいに潤が座る場面が、すぐに浮かんだ。




