舞踏会(10)
会場の人へ挨拶を済ませ、玄関でコートを着た。
袖へ腕を通すと、黒いレースが隠れる。ボタンを留める間に、潤が扉を押さえてくれた。
「ありがとう」
顔を上げる。
潤は小さくうなずき、私が通ってから外へ出た。
玄関を出ると、冷気が頬に触れた。朝より空気が冷たく、吐く息がわずかに白い。コートの襟を寄せ、私は先に歩き出した。
砂利の上には蔦の葉が落ちていた。靴底が触れるたび、乾いた響きが返る。岡元先輩と樹が少し前を進み、私はそのあとに続いた。
「先輩、十四番って、合わせるのにどれくらいかかるんですか」
樹が尋ねた。
岡元先輩は歩調を緩めて答えた。
「どこまで合わせたいかによるけど、何度弾いても、まだやりたいことは出てくるね」
「未央先輩も、そんなこと言ってました」
「未央ちゃん、好きだものね」
先輩が振り返る。
私はうなずいた。
「また弾きたいです」
「秋定が終わったら、時間が取れるかな」
「取ります」
「即答ですね」
樹が笑った。
私も笑い、門へ意識を戻した。
砂利道の先で、門が夕方の薄い光を受けている。隣では潤が歩いていた。チェロを抱えているため、少し間が空いている。それでも、黒いコートの肩が視界の端に入るたび、そちらへ意識が引かれた。
「今日、楽しかったね」
前を向いたまま言った。
「うん」
「またやりたい」
「俺も」
返事がすぐに来たので、横顔を確かめた。
潤は私と目を合わせ、それから前方の二人へ視線を移した。
「四人で、もう少しやれると思う」
「うん。今日、弾いてみてわかったところもあるし」
演奏の話なら、まだいくらでも続けられそうだった。
門柱の手前で砂利の感触が途切れ、舗装の硬さに変わる。潤がふたたびこちらへ顔を向けた。
「今日は、誘ってくれてありがとう」
私は持ち物を握り直した。
「……来てくれて、ありがとう」
潤の口元がわずかに緩んだ。
その表情を受け止めていると、門の向こうから樹に呼ばれた。
「先輩たち、駅、こっちでいいんですよね」
「うん。そっち」
門を出る。
外の道は敷地内より風が通っていた。コートの裾が揺れ、街灯の影が足元へ伸びる。四人分の気配が舗道に重なった。
少し歩調を速める。
潤も隣へ並んだ。
朝、一人でくぐった門を、四人で出た。
歩道へ下りると、前の二人が待っていた。私は樹の隣へ寄りかけたが、道幅を確かめ、潤の横に収まった。
駅へ向かうにつれ、会場の静けさが遠のいていく。車の走る気配が遠くを流れ、冷えた空気の中に、短い会話だけが残った。コートの内側にはまだ控室の暖かさが残っている。それでも、指先には少しずつ冷たさが戻っていた。
誰も何も言わないまま、四人は駅へ向かった。
*
十月に入って最初の土曜、地区センターの窓には、色づき始めた木が見えていた。
午後の部屋を借り、弦だけで椅子を並べる。サークル会館より明るく、天井も低い。チェロのエンドピンを受ける板を置く音が、床の近くで続いていた。
私は《レ・プレリュード》の譜面を開いた。
余白には、前の全練で書いた言葉が残っている。その下へ指を置き、今日、確かめたいところを樹と見比べた。
「ここ、家だと行けるんですけどね」
「私も、ゆっくりなら」
「速くすると、上に着いたところでもう余裕がないです」
「そこから下りてくるのにね」
樹が笑い、楽器を上げた。
短く弾いてみる。上がっていく途中で一つ音が擦れ、最後のほうが少し速くなった。
「……これです」
「わかる」
私も同じところを弾いた。
指を置くことに気を取られると、弓が隣の弦へ移るのが遅れる。間に合わせようとして右手を急がせると、余計な音が混じった。
後ろから、先輩の声がした。
「今日、そこだけで終わりそうだね」
「終わらせたいですけど」
「ここを終わらせる、って意味?」
「そっちです」
笑いが起き、張りつめていた肩が少し下がった。失敗を隠すより、どこで崩れるのかを見たほうが早い。
前では潤が、指揮用の譜面台にスコアを置いていた。今日はチェロを後輩に任せ、こちらを向いて棒を持つ。
「レプレ、前の全練で揃わなかったところからやります。最初、かなりゆっくりで」
棒が上がる。
ゆっくり弾いても、重なると音の出る場所が違った。私が次の弦へ移った時、後ろではまだ前の音が残っている。指を急がせるほど音の輪郭が崩れた。
潤が止めた。
「ヴァイオリン、今のところだけ、もう一度」
ヴィオラや低い弦がなくなると、移弦のたびに音が膨らむのがよく聞こえた。私は遅れを取り戻そうとして、弓を押し込んでいた。
「弦を替えるところで、音を強くしないでほしい」
潤が言った。
「ちょっと弓だけやってもいい?」
「うん」
左手を離し、開放弦で弓の動きを確かめる。
右腕は思ったより大きく上下していた。次の弦へ移るたび、肩まで動いている。
先輩も楽器を上げた。
「俺も、ここで持ち上げすぎてた」
弓の幅を小さくし、隣の弦へ移る場所を探す。毛が弦をつかむ感触を残したまま、腕を振り回さずに次へ進める場所があった。
「今くらいで、指もつけてみよう」
潤が言った。
「速さは、まだ上げなくていいから」
左手を戻す。
最初の数音は揃ったが、上がりきるところで指が遅れた。そこだけ音が詰まり、下り始めると急に速くなる。
「上で、待っちゃいますね」
樹が言った。
「次の指、探してました」
後輩の声がする。
指使いを確かめ、先輩のやり方も試した。私は困る音へ来てから指を探していた。少し前から次の指を用意すれば、左手だけを急がせずに済む。
構え直し、少し前から弾き始める。
今度は、音が詰まらなかった。
「もう一回」
私が言うと、潤が同じところへ棒を戻した。
二度目もつながった。
樹の音が同じ速さで上がり、下りてくる。後ろの弓も視界の端で動いていた。細かな音型が、次のフレーズへ向かう流れとして聞こえた。
潤は、その先まで振った。
「今のところ、低い弦も入れてやります」
チェロが構え、コントラバスの弓も上がった。
細かな音の下に、長い響きが通る。急いで上がりきらなくても、低い音が先へ進んでいる。その響きを聴きながら弾くと、指先だけで行き先を探さずに済んだ。
けれど、少し速くしたところで、また右手が大きくなった。
音が濁り、私は弓を下ろした。
「……まだだった」
「さっきの動き、速くなると忘れますね」
樹が言った。
「忘れないように書いとこう」
「動きを小さく、ですか」
「私、急ぐな、って書く」
「それ、俺も書きます」
譜面の余白へ鉛筆を走らせる。
後ろでも、何人かが笑っていた。
休憩に入ると、潤がスコアを持ってこちらへ来た。
「今、最後にやった速さ、全練でも一回そこからやりたい」
「うん。管が入ると、つられそう」
「でも、音は小さくしすぎないで」
「動きだけね」
「うん」
私は譜面の書き込みを示した。
「ここから先へ行く感じ、さっき、やっとわかった」
「チェロが入ったところ?」
「そう」
潤がうなずいた。
低い響きがあると、自分の音を無理に押し出さなくてもいい。私は遅れないように一人で走ろうとしていたのだ。
「もう少し、つなげて弾きたい」
「休憩のあと、やろう」
潤が前へ戻る。
私は楽器を膝に置き、窓の外を見た。葉をほとんど失った枝が、風を受けて揺れている。押されても同じ方向へ走り続けるのではなく、揺れたあとに戻り、また次の風を受けていた。
時計を確かめ、もう一度譜面を開く。
余白の「急ぐな」を指でなぞった。次に弾いても失敗するかもしれない。それでも、焦りがどこで音になるのか、どの響きを聴けば戻れるのかは、もうわかっている。
前で、潤が棒を上げた。
部屋の中の楽器が一つずつ構えられる。
私は弓を弦へ置いた。
今度は、一人で先へ行かない。みんなの音を聴きながら、次の響きへ進むために。
*
水曜の全練で《レ・プレリュード》の黄色いポケットスコアを出すと、土曜の書き込みがすぐ目に入った。
急ぐな。
その横には、弓の使い方を確かめた小さな線がある。
樹もパート譜の同じページを開き、譜面台を二人の真ん中へ寄せた。
「今日こそですね」
「今日も、だよ」
「はい。今日も」
奥で管の音が止まった。
潤が指揮台へ上がり、スコアを開く。私は鉛筆を置いた。
最初からつなげて弾くと、弦分奏では空いていたところに、次々と音が入ってきた。
まず、弦の細かな音が床の近くを走る。そこへ木管の息が重なった。フルートの細い線が頭上をすべり、オーボエの少し硬い音が、その端を受け取る。音が重なるたび、胸の奥まで空気が満ちていった。
以前なら、音が増えるほど、自分の音を埋もれさせまいとして弓を急がせていた。
けれど今日は、すぐに前へ出ようとはしなかった。別の方向から伸びてくるフレーズを聴く。土曜には低い弦を頼りにしていたところで、今日は管の息遣いが聞こえる。木管の音は弦の隙間へ入り込み、私たちの音を押し出すのではなく、次の場所へ運んでいる。
その流れを聴いていると、自分の音を残すために力を足す必要はないと思えた。音が重なったままでも、次の拍はちゃんとこちらへ来る。
弦分奏で念入りに確かめた分散和音のところに近づいた。
樹の弓を、視界の端に入れる。
最初の音から、右手を小さく使った。指を用意し、隣の弦へ移る。弓の毛が弦をつかむ感触が、指先から手首へ伝わった。
上がって、下りる。
一度目は通った。
けれど、その先で響きが大きくなると、こちらの音も前へ出たくなった。弓の幅が広がり、肩がわずかに持ち上がる。次の移弦が遅れ、細かな音の流れに小さな段差ができた。
樹の音が先へ行った。
追いつこうとして、最後の数音を急いだ。
指が弦を押さえるたび、音が身体の前へ飛び出していく。潤の棒が止まる。
私は隣を見た。
樹もこちらを向いていた。
「つられた」
「俺も、先へ行きました」
二人で譜面へ目を戻す。
急ぐな、の文字が、さっきよりはっきり見えた。
「今のところ、弦分奏でやった速さから」
潤が言った。
「管も一緒にお願いします。弦は、細かい音の途中でも拍がどこにあるか、確かめて」
棒が上がる。
今度は、上がりきったところだけを目指さずに弾いた。途中で低い弦の音を聴き、床から伝わるような振動を足の裏で受ける。木管の息がどこで途切れ、どの音が次を受け取るのかにも耳を向けた。
次の拍へ指を運ぶ。
管の響きが重なっても、弓を大きく使いすぎない。音を急いで前へ押し出すのではなく、周囲の音が進む速さの中へ、自分の音を置いていく。
ゆっくりなら、聞こえる。
自分たちが何を急いでいたのかも、どの音へ一緒に入るのかも。
木管の息が一度、細く途切れた。
その隙間を弦の音が埋め、すぐに別の管が受け取る。私はその受け渡しを聴いてから、次の音へ弓を進めた。先に行こうとしなくても、音は途切れない。待つことが、遅れることではないとわかった。
潤は止めず、少し先まで振った。
弦の細かな音が収まるところで、奥の響きが前へ出てくる。私はその音へ渡すつもりで、最後まで弓を進めた。弓先が弦を離れる瞬間まで、音の流れを手の中に残す。
「今のつながりで。少し戻します」
テンポが上がった。
指先が忙しくなる。
それでも、土曜に確かめた右手の動きは残っていた。隣の樹も、同じところで弓を返す。後ろから来る低い弦が背中を支え、木管の息がその上を横切る。
今は、樹の弓の動きと低い弦の拍を聴き、木管が次へ渡す瞬間を待てる。細かな粒はばらばらに跳ねず、周囲の音に押されることもなく、一つの流れになって身体を通り抜けていった。
その先で、金管が鳴った。
康平のトランペットが、部屋の前からまっすぐ胸へ飛び込んできた。音の輪郭が鋭く、耳の奥が一瞬熱くなる。続いてホルンが丸い響きを重ね、その下から大地たちのトロンボーンが太く広がった。床がわずかに震え、椅子の背を通して背中まで響きが上がってくる。
私たちの弓も自然に深く入った。
金管の厚みを押し返すのではなく、その底へ弦の音を差し込む。弓を返すたび、腕の重さが音の中へ沈んでいった。
さっきは、この音に追いつこうとしていた。
今度は、金管がどこへ向かうのかを聴き、その拍に自分の音を重ねた。同じ拍の上で、一緒に進んでいた。
顔を上げると、潤が弦を見ていた。
棒はそのまま先を示した。
私は譜面へ戻り、次の音を弾いた。
弦だけで繰り返していた時より、ずっと大きな曲の中にいる。音は前から来るだけではなかった。足元から低い弦が押し上げ、左右から木管が流れ込み、正面から金管が空気を震わせる。その中で、私の弓も呼吸するように動いていた。
難しいところはまだある。
それでも、次にどの音が来るかを先回りして追いかけるのではなく、周囲の音を聴きながら待てるようになっていた。急がなくても、音楽から置いていかれない。むしろ、急がないからこそ、みんながどこへ進んでいるのかが見えた。
終わりまで弾いて、楽器を下ろす。
音が止んだあとも、胸の内側には金管の振動が残っていた。弓を持つ右手には、細かな音を走り抜けた感触がまだあり、耳の奥では木管の息が薄く続いている。
奥で、誰かが長く息を吐いた。
真紀がホルンを膝へ置き、隣の子へ何か小さく言っている。康平は譜面をめくり直しながら、まだ口元が緩んでいた。
「今の弦、来たね」
大地が言った。
後ろから「やっとね」と声が返り、笑いが起きた。
私は樹を見た。樹は鉛筆を取っていたが、何を書くか迷うように余白で止めている。
「消さなくていいからね」
「急ぐな、ですか」
「うん。本番まで」
「残しときます」
私も鉛筆を取った。
急ぐな。
その言葉の下に、今度は小さく書き足す。
聴いてから、弾く。
潤がスコアを戻す。
「よかったところ、もう一回つなげます。その前に、木管との受け渡しを少し」
1stフルートが譜面へ目を落とし、理沙もオーボエを持ち直した。
私は次に合わせる場所を探す。
さっき聞こえた音の重なりが、まだ身体の中に残っていた。
今度は、自分の音だけを早く届けたいのではなかった。フルートの息が入り、理沙の音が受け取り、低い弦が下から支える。その流れをもう一度聴きながら、あの響きの中心へ戻りたかった。




