舞踏会(11)
土曜の午後、サークル会館の玄関には、地下シアターへ向かう人たちが集まっていた。
いつもの掲示板の下に受付の机が置かれ、《最後の舞踏会》の小さな看板が立っている。ポスターと同じ白い仮面が、今日はすぐ手の届くところにあった。
楽器は先に二階へ置いてきた。
階段を下りる私の前に樹がいて、潤は後ろを歩いている。踊り場まで来ると、地下から人の話す声が聞こえた。
あの夜とは違う。
扉が開き、明かりがついている。受付で渡された半券を持つ人が、私たちと同じ方向へ歩いていた。それでも、手すりへ触れる前に、私は一度、指を曲げた。
「未央」
後ろから呼ばれた。
振り返ると、潤が一段上で止まっていた。
「大丈夫?」
「うん」
答えてから、下を見る。
樹も踊り場で待っていた。私の返事を聞くと、扉の向こうへ目を向ける。
「結構、入ってますね」
そこにはちゃんと、入っていく人も、案内する人もいた。
私は残りの段を下りた。
客席には、低い段差をつけて椅子が並べられていた。舞台は思っていたより近い。黒い幕の前に細い脚の椅子が二つ置かれ、その間に、燭台を載せた小さな卓がある。奥の扉だけが、大きな屋敷のものらしく白く塗られていた。
三人で中央寄りの列へ座った。
樹が左、潤が右。コートを膝に置き、折り畳まれたパンフレットを開く。
屋敷を手放すことになった女主人が、最後の舞踏会を開く。
かつてその家を訪れた人々が招かれるが、招待状の数と、集まった客の数が合わない。
そこまで読んだところで、客席の明かりが落ちた。
舞台の奥で、扉が開く。
最初に現れたのは、燕尾服を着た男だった。白い手袋をはめ、片手に銀色の盆を持っている。卓のそばまで来ると、燭台を少し動かした。次に椅子の向きを直し、扉を見た。
何も言わないのに、誰かを待っていることがわかった。
細い音で、ワルツが流れ始めた。
男は盆を胸の前へ持ち上げた。
「お帰りなさいませ」
扉の向こうから、濃い青のドレスを着た女が入ってきた。顔の上半分を、白い仮面が覆っている。
「帰ったのではありません。招かれたのです」
男は頭を下げた。
けれど、女が通り過ぎても、すぐには顔を上げなかった。
私は膝の上のパンフレットを閉じた。
客が一人ずつ増えていく。
赤い肩掛けをした女。杖を持った老紳士。笑いながら入ってくる若い二人。仮面の色も形も違い、声を聞いても、互いの名を呼ぼうとはしなかった。
女主人だけが仮面をつけていなかった。
客たちの顔を順に見て、笑いかける。その笑顔が一人の前で止まった時、ワルツも途切れた。
「あなたを、呼んだかしら」
白い仮面の女が首を傾けた。
「毎年、呼んでくださったではありませんか」
女主人は答えなかった。
舞台の端で、燕尾服の男が盆を持ち直す。
金属に爪が触れたような、小さな音がした。
次の場面では、客たちが踊った。
広くない舞台を、二人ずつ回る。ドレスの裾が椅子をかすめ、杖を置いた老紳士まで、赤い肩掛けの女の手を取った。さっきまで離れて立っていた人たちが、音楽に合わせて同じ場所を通っていく。
けれど、白い仮面の女には相手がいなかった。
誰かと手をつないでいるように、片腕を上げている。空いた場所を見上げ、笑い、二歩進んで振り返る。
その動きが、ほかの誰よりも自然だった。
隣で潤が身じろぎした。
私はそちらを見ようとして、やめた。舞台の女が、今度は客席のほうを向いていた。
「今夜は、最後まで踊ってくださるのね」
誰に言っているのか、わからなかった。
向かい合うはずの場所には、誰もいない。
ワルツが続く。
女主人は踊る人々の間を歩き、一人ずつ肩へ手を置いた。触れられた人は動きを止め、仮面を外した。それから、何も言わずに奥の扉へ向かう。
一人減る。
また、一人減る。
残った人たちは、その空いた場所を避けなかった。踊りながら通り抜け、ときどき、そこにいる誰かへ道を譲るように身体を引いた。
私は膝の上で、コートの端を握った。
最後に、白い仮面の女だけが残った。
女主人は、その肩へ手を置けずにいる。
「もう、帰って」
女は踊るのをやめた。
上げていた腕を、ゆっくり下ろす。
「扉を開けてくださらないと」
舞台の奥の扉は、閉まっていた。
女主人が振り返る。
燕尾服の男は、そこに立ったまま動かない。
「開けて」
「どなたを、お通ししますか」
その声に、背中が冷えた。
女主人は白い仮面を見た。
女も、女主人を見ていた。
誰も答えないまま、舞台が暗くなった。
靴音が一つした。
続いて、もう一つ。
私は顔を上げたまま、音の来る場所を探した。舞台の上なのか、その奥なのか、暗くなると距離がわからない。
扉の開く音はしなかった。
*
客席の明かりが戻ると、私はまだコートを握っていた。
拍手に気づいて手を離す。舞台には出演者が並び、白い仮面の女も、素顔で頭を下げていた。
私たちと同じくらいの年の人だった。
隣の役者と目を合わせて笑うと、さっきまでの静かな声が嘘のように、頬が明るく上がった。
燕尾服の男は、白い手袋をしたまま、ほかの人と手をつないでいる。袖口の片方に、小さな銀色の飾りが光っていた。
拍手をしながら、私はそれを見ていた。
終演後の客席では、椅子を引く音と話し声が重なった。樹が立ち上がり、通路へ出る人を先に通した。
「最後、開いたんですかね」
「扉?」
「はい。音、しなかったですよね」
私はうなずいた。
「誰が出ていったのかも、わからなかった」
「もう一回見たくなるやつですね」
樹はパンフレットを開き直した。
隣では潤が、舞台の奥を見ていた。
「潤?」
呼ぶと、すぐにこちらを向いた。
「何」
「どうだった?」
「……怖かった」
「うん」
短い返事で済んだことに、少しほっとした。
私だけではなかった。
通路へ出る時、舞台をもう一度見た。
白い扉の前では、スタッフが燭台を盆へ載せていた。卓を持ち上げる人に、誰かが「そっち、先に出そう」と声を掛ける。
普通の片づけだった。
私はその声を聞いてから、出口へ向かった。
階段を上がると、玄関の窓に夕方の光が残っていた。二階からヴァイオリンの短い音が聞こえ、誰かが同じところを弾き直している。
時計を見る。
全練まで、まだ少し時間があった。
「先に食べておきましょうか」
樹が言った。
「練習始まったら、帰してもらえなさそうなので」
私は笑った。
潤も、今度は少し口元を緩めた。
パンフレットを鞄へしまう。
折り目のところにある白い仮面が、最後までこちらを向いていた。
*
全練が始まる頃には、練習室の窓は暗くなっていた。
今日は幻想の終楽章を中心に見る。譜面を開くと、前の練習で丸をつけた箇所が、何ページにもわたって続いていた。
潤はチェロの席にいた。
後輩と何か確かめてから、弓を上げる。地下で隣に座っていた時とは違い、こちらからは横顔が見えた。私が見ていることに気づいたのか、潤が一度だけこちらへ目を向ける。すぐに譜面へ戻ったが、その短い視線が、これから同じ音の中で会うための合図のように残った。
「幻想の終楽章、最初から行きましょう」
先生の声に、部屋が静まった。
樹が椅子へ座り直す。私は譜面台を少し下げ、棒が見える位置を確かめた。
合図を受け、弓を動かす。
音を出した途端、地下で見た女の姿が浮かんだ。誰もいないところへ手を差し出し、相手がいるように踊っていた。ほかの客たちも、その見えない相手を避けずに動いていた。
弾くべき音は、譜面にある。
それでも、最初の音を置いた瞬間、あの場面の気配が弦の振動に混じったように感じた。私は左手を見てから、顔を上げた。
向こうでヴィオラの弓が動く。チェロが加わり、木管がその間を通る。鳴り始める場所が違うぶん、次に誰が入るかを聴き続けなければならない。音は一人で進むのではなく、前の音を受け取りながら先へ渡されていった。
潤の弓が、少し遅れて視界の端に入った。
私が次に入る場所を探すように、潤もこちらの音を待っている気がした。目を合わせるほどではない。ただ、弓の上がる角度と、音の立ち上がりだけを頼りに、互いのいる場所を確かめていた。
音が少しずつ集まってくる。
その先で、先生が棒を止めた。
「今の入り、もう一度。音を短くするところと、途中で消してしまうところを分けましょう」
私は鉛筆を取った。
短く、と書いたところで、必要以上に弓を止めていた。音を切る前に、こちらの都合で消してしまっていたのだ。隣の樹も、同じ場所へ印をつける。
「最後まで鳴らしてから離す、ですね」
「うん。私、先に離してた」
後ろへ顔を向け、弓を置く場所を示す。
先輩が一度、自分の弓で試してからうなずいた。
もう一度、最初から弾いた。
音を置き、残す。次の動きまで右手を固めない。低い弦が入ると、さっき途切れていたところがつながった。閉じた扉の向こうから、遅れて足音が重なるようだった。
先生はそのまま先へ振った。
クラリネットの音が聞こえた。
直人が楽器を替えている。いつもより小さな楽器から出る音は、聴き慣れた旋律を、まるで違う顔でこちらへ向けた。
私は譜面へ目を戻した。
同じ旋律なのに、こんなふうに聞こえる。
二楽章で追いかけていたものが、ここではこちらを振り返り、笑っているようだった。弓を動かしながら、その音から耳を離せなかった。
何ページか進んだところで、また止まる。
「そこまで。弦、今の速さで一緒に入れますか」
私は樹を見た。
樹は余白へ指を置いたまま、少し顔をしかめていた。
「最後、遅れました」
「私も。前の音、持ちすぎた」
弓順を確かめる。
後ろからも質問が出た。先生が待ってくれている間に、同じ場所を何人かで弾く。返すところを決め、譜面へ書き込んだ。
「お願いします」
顔を上げて言うと、先生が棒を構えた。
今度は入れた。
けれど、その先で別の音がずれる。止まり、戻り、また弾く。できたところが増えるにつれて、その少し先にある揃わない音が、前よりはっきり聞こえた。
休憩に入ると、私は楽器を膝へ下ろした。
右の肩を回す。樹は水を飲んでから、すぐに譜面を戻した。
「さっきのところ、もう一回だけいいですか」
「うん」
二人で小さく弾く。
途中まで来たところで、後ろの先輩も加わった。今度は最後まで揃い、三人ともほとんど同時に弓を下ろす。
「これ、忘れないうちに休憩終わってほしいですね」
樹が言った。
「休ませてよ」
先輩が笑った。
奥では、管の人たちも譜面を見比べていた。康平はトランペットを膝に置き、隣の奏者に指で拍を示している。真紀たちはホルンを持ったまま、音を出さずに何か確かめていた。
誰も、今日だけできればいいとは思っていなかった。
潤がこちらへ来た。
手にはチェロの譜面がある。私の譜面を覗き込む時、肩が触れそうなところで足を止めた。その距離を意識したのは、たぶん私だけではなかった。
「次、弦が重なるところ、少し前からやるって」
「わかった」
潤が示した場所を探す。
さっき、自分たちの音だけを聴いていたところだった。
「そっち、聞こえてた?」
「途中から、ちょっと」
「俺も、ヴァイオリン聞こうとすると、自分のほう抜ける」
潤は譜面の端を指で軽く押さえた。自分の音を守るより、こちらの音を受け取ろうとしている。そのことが、言葉より近く感じられた。
私は笑った。
「お互い様だね」
「うん。もう一回やりたい」
潤は譜面を閉じずに、自分の席へ戻った。
数歩進んだところで、振り返る。私がまだ見ているのを確かめると、ほんの少しだけ弓を持つ手を上げた。
私はその背中を見送った。
披露宴では、四人の中から潤の音を見つけられた。今はもっと大勢いる。それでも、同じ音の流れの中で、彼のいる場所を確かめたいと思った。
*
休憩のあとは、短く区切っていたところをつなげた。
前から来る弦の動きに、チェロとコントラバスが重なる。入りを数えるだけでは間に合わず、その少し前から向こうのフレーズを聴いた。
潤の弓が見えた。
あの動きなら、ここへ来る。
私は息を取り、弓を置いた。
重なった音が先へ進む。こちらが旋律を受け取るところでも、低い弦は途切れなかった。互いの間をすり抜けるように、音が続いていく。
潤が一度だけ顔を上げた。
視線が重なる前に、私は譜面へ戻る。けれど、その一瞬で、次の入りを互いにわかっているような気がした。もう、ひとりで譜面を追っているのではなかった。
先生の棒が大きくなる。
管が加わり、後ろから打楽器が響いた。椅子に座ったままなのに、身体ごと先へ運ばれるようだった。暗い舞台で、扉の向こうへ引かれた時の感覚に似ていた。
弓を返す。
次の音へ入る。
樹も顔を上げていた。
譜面を見る時間は短く、合図と周りの弓へ、何度も視線が戻る。潤の弓が先に動くたび、私はその動きを追い、追いついた音を返した。
最後まで進み、全員で音を切った。
私は息を吐いた。
右手に力が残っている。楽器を下ろす前に、弓を持つ指を少し緩めた。音が消えたあとも、身体の内側だけがまだ先へ進んでいた。
潤もすぐには弓を下ろさなかった。
こちらを見て、わずかにうなずく。うまくいったというより、今の音の中で互いを見失わなかったことを確かめるような仕草だった。
「今のつながりは、覚えておいてください」
先生がスコアへ目を落とした。
あちこちで鉛筆が動く。私も書こうとしたが、すぐには言葉が決まらなかった。
チェロを聴く。
それだけ書いて、顔を上げた。
潤も譜面へ何か書き込んでいる。書き終えると顔を上げ、こちらを見て、少し目を細めた。
「もう一度行きます。今度は、その前から」
ページを戻す。
その時、鞄の口から、観劇のパンフレットが少し見えた。
私は紙を鞄の中へ押し戻した。
向こうで、潤が楽器を構える。
樹の弓が隣で上がった。後ろの人たちも、先生へ顔を向けている。
ここには、音を出す人がいる。
私はその一人ずつを確かめてから、弓を弦へ置いた。潤の音が来る場所を、もう一度受け取るために。
*
練習が終わると、部屋のあちこちで楽器のケースが開いた。
私は弓を緩め、譜面を鞄へ入れた。今日書いた「チェロを聴く」が、閉じる直前まで見えていた。
樹は椅子を片づけてから、ケースを肩へ掛けた。
「お疲れさまでした。また水曜」
「うん。お疲れさま」
階段を下りると、潤が玄関で待っていた。チェロのケースを背負い、掲示板を見ている。私が隣へ来ると、少し身体を引いて場所を空けた。
《最後の舞踏会》のポスターは、そのままだった。
昼間は人が並んでいた地下への階段に、今は誰もいない。
「あのお芝居、最後に誰が帰ったんだろう」
潤も階段へ目を向けた。
「二人分、聞こえたよな」
「うん。でも、扉は開かなかった」
「……わからない」
私も、わからなかった。
パンフレットには結末が書かれていない。鞄から出そうかと思ったが、今はやめた。
後ろから、片づけを終えた人たちが下りてきた。私たちは道を空け、挨拶を交わして外へ出た。
冷たい風に、コートの襟を寄せる。
潤が扉から手を離すと、会館の中の声が遠くなった。
「水曜、少し早く来られる?」
「来られるけど」
「今日の、弦が重なるところ。もう少し合わせたい」
潤がこちらを見た。
「二人で?」
「うん。そっちがどう弾いてるのか、近くで聴きたい」
言ってから、ケースの肩紐を直した。
潤はすぐには歩き出さなかった。
「六時でいい?」
「うん」
ようやく隣の足が動いた。
私も歩き始める。玄関の明かりが、二人の足元から少しずつ離れていった。
地下の扉のことは、まだ気になっている。
けれど、水曜に開く譜面の場所も、今ははっきり思い浮かべられた。
私は潤の歩幅に合わせながら、今日つながったフレーズを、胸の中でもう一度たどった。




